カエル

ハラキリ奇譚 1/4

※この作品の後半にはグロテスクな表現があります。
耐性のない方はご注意ください

切腹のお話をしようと思います。

世の中には切腹愛好家と呼ばれる人たちがいるようです。実際切腹をテーマにしたサイトや雑誌、そればかりか切腹の映像作品や切腹のパフォーマンスをするアーティストまで存在すると聞いています。私も以前切腹マニアが立ち上げたと思しきサイトを見たことがあります。現在は閉鎖されているそのサイトには筋骨隆々とした男性のお腹の裂かれた死体の画像がいくつも公開されており、併せて切腹の現場を見学したという体験談が投稿されていました。

最近では「検索してはいけないワード」として「切腹おねえさん」というのがあるようです。私は見てませんが「切腹おねえさん」のワードで検索すると、白装束を着た女性の切腹動画がヒットするそうです。もっとも、この動画はあるホラー映画のワンシーン、つまりフィクションだと聞いていますが。

遡れば、その昔「奇譚クラブ」なるSM系の雑誌があって、この雑誌は切腹マニアの間では聖典とされているぐらい有名であり、古今東西の興味深い切腹体験談やそれを基にした小説などが掲載されていたと漏れ聞いております。

私はマニアでもなんでもないので、そっち方面に明るくはありませんが、現代においても切腹マニアによるハラキリ文化がアンダーグラウンドの世界において人知れず花咲いているのではないでしょうか?

ともあれ、マニアックな雑誌やサイトで実しやかに語られる切腹の目撃談は事実なのでしょうか?
私は戦時中や敗戦時におけるいくつかの目撃談を別にすれば、ほとんどがマニアの方々の願望を盛り込んだ架空の話だと思っております。もっとも、私がそうした切腹目撃談を数多く読んだわけではないのですが。

ではどうして、それらの切腹目撃談ーたいていがマッチョな男性、もしくは意志の強い凛然とした女性が腹を切る顛末ーを私がフィクションだと断定できるのかといえば、何を隠そう私自身が切腹を見たことがあるからです。私が見た切腹ーとはいえ、正確にはあれは切腹とはいえないのですがーはよくある目撃談で語られるような官能的、扇情的、情動的な要素は微塵もありませんでした。つまりは好事家が夢見るファンタジー的な要素は皆無だったのです。

三十年以上も昔の話になりますが、私はこの日のことを日記につけていましたので、今でも細部にいたるまで思い出すことができます。
それでは、早速私が実際に目にした切腹とはいえない切腹の目撃談をお話していきましょう。長くなりますので、退屈されるかもしれませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです。なお、身元の特定を避けるために大筋には影響ない程度にフィクションを折り込むことをあらかじめお断りいたします。

昭和六十一年四月八日。
目的地に向かう車内のラジオで私は女性アイドル Oの突然の訃報をなんとはなしに聞いていました。AMラジオのパーソナリティはOが事務所が入居している四谷のビルの屋上から飛び降り、全身強打で即死したことを恬淡と伝えていました。助手席の私は、言葉もなく半ば開いたパワーウインドウから吹きつけるなまめかしい春の風の匂いかぎながら、若い可憐な女性の死体を自ずと思い浮かべていたことを覚えております。

静岡県の某所と言っておきましょう。
私を乗せた車はある邸宅に到着しました。
そこは立派な築地塀に囲まれた一見すると堂々たるお寺のような外観の日本家屋の邸宅でした。敷地からは桜がたわわに溢れて、築地塀の瓦屋根をその花弁で雪化粧するように聴色(ゆるしいろ)に染めていました。裏手の駐車場に車をとめ、堀沿いに満開の桜の下を歩いて表に回ると、仰々しい切妻造の薬医門が私たちを出迎えました。見たところ、桁行十尺、梁間六尺ぐらいはありそうな重厚な門で、妻壁には透し彫が施してありました。門をくぐると、まず高さ四メートルはあるかと思われる大きな灯篭が目にとまります。そして壮観な日本庭園が広がり、奥には家老屋敷のような和風建造物が屹立していました。豪壮な入母屋造の瓦屋根の大棟が横一文字に青空を切り裂くように聳えていました。
乱系の敷石がランダムに貼られた園路をしばらく歩いていくと、左手に池泉が現れました。池泉の汀に沿って州浜を進んでいきますと、檜皮葺きの八角堂形式のかわいらしい小さな浮見堂が見えてきました。そのあたりに、三人の人影があることに気づきました。夫婦と思しき高齢の西洋人のカップルと日本人の青年でした。青年はポマードで固めたようなテカテカと脂ぎったオールバックの黒髪で、白シャツに光沢のある黒のジレとスラックスという出で立ちでした。その不健康そうな顔色からどことなく葬儀屋のような不吉な印象を受けました。青年は私たちの姿を認めると、少し驚いたような表情を浮かべましたが、私の連れである男性が用件を伝えると、「ああ、はい」と気の無い返事をして視線を白人の老夫婦に移しました。それから老夫婦にフランス語で「allons-y」(行きましょう)と言って歩き出しました。黙って老夫婦が後に続きます。私たちも何となく彼らの後に着いて行く形になりました。

青年は歩きながら老夫婦に、決して上手とはいえないフランス語でしきりに説明していました。私は当時、大学でフランス語を専攻しており、多少の読み書きができたので、青年の話を聞くともなく聞いてると、この敷地の広さは約千二百坪あることや表門から主屋までの路傍庭園、主屋の武家座敷に面した池泉庭園、そこから北側に続き離れに面した枯山水庭園からなる構成であることを知りました。全部は聞き取れませんでしたが、la beauté des jardins japonais (日本庭園の美)とかle symbole de la culture japonaise(日本文化の象徴)などの語彙が耳に入ってきたところを見ると、日本文化について得意げに講釈を垂れているようでした。老夫婦の男性は、いかにも関心なさげにje vois(なるほど)と適当に相槌を打っていましたが、青年は気づいていないのか、一向にお喋りを止める気配はありませんでした。敢えて熱を入れず、事務的に説明するのがクールだとも言いたげな青年の立ち居振る舞いにはあざとさが際立ち、私をげんなりさせました。余談になりますが、最近伺ったある天ぷら屋さんー店名は申しませんが門前仲町にある有名なお店ーのサービスの男性が、外見や服装から挙措までが、この青年に見まごうばかりにそっくりでした。もちろん、この青年が今も存命であれば、六十歳以上にはなっているはずですので、同じ人物のはずがありませんけれども。

それはともかく、ややあって、三段落ちの滝がある石橋にさしかかりました。「立派な滝石組ですねぇ」と私がひとりごちるように呟くと、青年は顔をしかめて私を睥睨して、
「他のお客様の迷惑になるのでお控えください」と静かに叱りつけました。叱られた理由がまるでわからず、私はきょとんとするしかありませんでした。他のお客様とは、西洋人の老夫婦のことに違いありませんが、私が何か言えば老夫婦の迷惑になるのでしょうか?

それからも、青年はことあるごとに私を険しい目つきで睨んできました。余程私のことが気に障るようでした。察するに、垢抜けない小娘である私がこの場にいることそれ自体が青年には気に食わないようでした。

「この先が文庫蔵です」
青年は唐突に素っ気なくそう言って右の園路を指さしました。今度は日本語で話したので、私たちへの発言だとわかりました。
なるほど、青年が指差す方向、つまり枝垂れ桜と園路に沿ってつぼみを綻びはじめたツツジの群れの先に、眩く照り返る漆喰の白壁の土蔵が見えました。
青年の話では、文庫蔵には貴重な歴史・考古・美術工芸品などが展示してあるとのことでした。その口ぶりから私たちが行くべき先は文庫蔵であると勝手に決めつけているようでした。てっきり茶室に案内してもらえるものと思っておりましたので、私たちがその場でぼんやりしていると、青年はさっさと老夫婦を連れて先に行ってしまいました。どうやら青年は私たちを追っ払いたかったようです。私たちは顔を見合わせ、お互いに苦笑いを浮かべていると、文庫蔵から何人かの人々が出てきました。
彼らは私たちの存在に気付くとこちらに歩いてきました。
「あなた方も文庫蔵の見学ですか?」
彼らのうちの男性の一人がそう尋ねました。
腫れ上がったような瞼の五十代ぐらいの男性でした。彼らは六、七人の中高年の男性一団で、一癖も二癖もありそうな、どことなく粘質的な雰囲気を漂わせていました。一人だけ紺の紬羽織をはおった白髪の西洋人が混じっていました。私の連れは質問には答えずに、文庫蔵ではどんな物が見れるのかと聞き返しました。

彼らがいうには、賢江祥啓の山水図の模写や竹添 進一郎の桟雲峡雨日記の写本、橿原義長の日本里程図などの古文書、その他書道書、茶道書、古地図、維新開国関係資料などが陳列してあるとのことでした。私はそういうものに全く興味がなかったので、そのことを連れに伝えると、「ああ、見てもしょうがないですよ。面白くもなんともない」と、瞼の腫れた男性が代わりに応えました。

この中高年の一団は主屋に戻るところであるらしく、私たちは彼らについて行くことにしました。
途中、数人が私にしきりにあれこれと尋ねてきました。「好きな俳優は誰か?」や「プログレは好きか?」から始まり、「武士道についてどう思うか?」「切腹に興味があるのか?」「女の切腹は美しいと思うか?」「浅野吉長の正室、前田節子(妾を作った吉長への抗議のために切腹したといわれる)についてどんな風に考えているか?」「血塗れの死体は猥褻だと思わないか?」などなど。
質問内容もさることながら、額に脂汗を滲ませながら、ギラギラした目でまくし立てるように聞いてくる彼らの挙動が、陰鬱で腥い情念をぎらつせていて、ひどく倒錯したフェティシズムに突き動かされていることが見て取れました。私は適当に受け流すしかありませんでした。

そうこうしているうちに、主屋の玄関口に到着しました。総欅造りの式台玄関です。土間に入ると、天井は吹き抜けになっており、何本もの松の丸太の梁が通っています。梁の上は、真束が立ち、和小屋組で屋根を支えているようでした。感心して天井ばかり見上げてると、いつのまにか、ほっそりとした三十歳ぐらいと思しき着物の女性がすっと現れて、流れるような所作でお辞儀をしました。
「ご案内致します」
着物の女性は恬としてそう言うと踵を返しました。着物は自然な藤色の地に「鮫」が染められた江戸小紋、そして百塩茶の帯地に唐草の中に華文を施した名古屋帯というコーディネートでした。一同は黙って彼女の後についていきました。

                 続く

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