見出し画像

しあわせの青い鳥 2/2

✳︎

ゆくりなくもその日はやってきました。
春休みが終わり、四年生に進級した初日のことです。始業式が終わると、私は新鮮な雰囲気の教室をひとりぬけだして一目散に家路につきました。「淫売の子」というレッテルがはられてからというもの、私は学校中の除け者でしたし、ルリをお迎えしてからは私自身も学校の友人を必要としていなかったのです。

M広小学校の正門から出て体育館の裏手に回り、そのまま幅員四Mほどの道をたどっていくと「稲むらの火」で有名な広八幡神社につづいています。「稲むらの火」とは安政元年の安政南海地震に際し、醤油づくりで身を起こした濱口梧陵が稲むらに火を放ち、村を襲った大津波から村人たちを救った事実を基にした物語です。小泉八雲の"A Living God " (生き神様)もこの出来事が原型となっています。広八幡神社は津波の難からのがれた村人たちの避難所だったと伝えられています。
右手にその広八幡神社の桜門をのぞみつつ、私は先をいそぎました。現在の広八幡神社は改修され、真新しい、あざやかな朱(あけ)に染まっていますが、その当時の桜門は辰砂の丹塗りが剥げ落ちて、灰いろの燻んだ骨のような木肌をあらわにして、あたかも鴻大な尸(しかばね)のようにそびえていました。
さらに狭い路を進んでいくと、ゆくてに花崗岩でつくられた月白いろの鳥居があらわれます。一の鳥居です。近づいてみると、鳥居の傍らの石垣風の低いコンクリートブロックに二人の女の子が腰かけていました。彼女たちはおそろいのディズニーのキャラクターをあしらった黄いろのパーカーを着ており、遽走る私をしげしげとみつめています。髪型も同じ短めのツインテールで、一目で双子だとわかります。瞥(ちら)りとみただけですが、当時の私よりもやや年下にも、どうかすると三十歳ぐらいにもみえる年齢不詳の奇妙な印象をあたえました。私が通りすぎると、申合わせたように彼女たちの笑いがはじけました。背中にいわれのない嘲笑を浴びながらも、私はすこしも意に介することなく鳥居をくぐりました。
鳥居をくぐると突然に視界がひらき、晴朗な山々にかこまれたのどかな田舎のまちなみがひろがっています。ゆるやかな勾配のついた一本路が人家と畑の狭間を水脈(みお)のようにのびています。道すじにそった片側の欄干には紅と白の神社のぼりが交互にあがり、「家内安全」の旗がおだやかな春風にそよいでいました。私はその坂道の左手前の横路に逸れて駆けていきました。
ここちよいそよ風がほおを撫で、潮のかおりと草木の芽吹く春の匂いをどうじに搬んできます。
私の胸はどんどんかるくなっていきました。平日の午(ひる)ちかく、人の気配のない畑道を私は風をきって走りました。しばらくすると、カンカンカンカンと踏切の警報音がきこえてきました。私はなお勢いをつけて踏切をかけぬけました。八幡踏切を過ぎれば、ようやく私たちの家が見えてきます。以前は学校の帰り道に、シマトネリコの木々の向こうにのぞく自分の家の屋根の棟包みを暗鬱な気持ちでみていました。このままずっとあの家に着かなければいいのに・・・とせんないことを考えながら。しかし、それもルリをお迎えするまでのことです。私はせきたつこころをおさえながら、息をはずませてルリのまつ家へといそぎました。

玄関の戸をあけると家のなかはふしぎなほどしんとしていました。
この日幸枝さんはお仕事をお休みして、午後から知人の結婚式に参列することなっているはずでした。どうやらすでに出かけたようです。私は帰宅のあいさつもなしに靴をぬぎすてて階段をかけあがりました。
部屋の襖をあけて私の目にとびこんできたのはからっぽの鳥かごでした。
全身から血の気がひいていくのがわかりました。私はとっさに手提げカバンを放って机上のケージにかけよりました。ケージの中には美しいエンジェルブルーの風切羽がまるでみずみずしい残り香のように二三枚おちているばかりです。
よく見ると扉の留め金がはずれていました。今朝の餌やりのときにまちがいなくロックしたはずなのに。・・・・・
外からあるかなきかの風が通い、さわやかなよもぎの匂いがしてきて、はじめて窓がわずかにあいていることに気づきました。私は窓を全開にして空をみあげました。洗われたような青空がとりとめなくひろがっています。その吸いこまれそうな底ぬけの青い空に一途に翔けてゆく鳥をはるかに目送する心地がして、私は眩暈(めくるめ)くばかりの空嘔(からずえき)がこみあげてくるのを覚えました。
「鳥さん逃げたんか? 」 
ふりかえると廊下からたゑさんが部屋を覘きこんでいました。半開きの襖から皺とシミだらけの顔だけをのぞかせています。階段の上り下りに難儀することから、普段たゑさんは滅多なことでは二階にあがってきたりしません。
顔だけのぞかせているそのありさまを見て、首から下は階下にありながら、轆轤首さながらにこの部屋まで首を異様にのばしている忌まわしい幻像がひらめきました。事実それはすさまじい老いの底から首をのばしてこちらを悓(うかが)っている、饐えた臭気を放った老女の顔でした。あまりのおぞましさに私が返事もできずたじろいでいると、皺に蝕まれた面になおもふかく皺をきざみつつ、老婆はゆっくりと口の端をつりあげていきました。
「鳥さん逃げたんか? 」

ポンポンポンポン。
素朴なエンジン音を低くひびかせて、赤茶けた船外機仕様の小型漁船が水脈をひいて海上を辷ります。暮れなずむ紅藤いろの空と漁船の間を数羽の鴎がまるで紙が舞うように高く低く翔けています。
「なっとうな? 釣れたか?」
ついさっきまで内向きで釣りをしていた中年の男性が、消波ブロックに腰かけて釣り糸をたらしている緑のライフジャケットの釣り人に声をかけました。声をかけられた釣り人は「あかな。豆チャリコばっかやら」と背を向けたまま応じました。声をかけたほうの男性は渇いた笑い声をたてて「こっちも小チヌしか」と云いました。
「ほいたらお先」
中年の男性のあいさつに、消波ブロックの釣り人はやはり背を向けたまま左手を軽くあげました。それから男性は胡乱な一瞥を私にくれただけで堤をつたって岸へとかえっていきました。
・・・・・・・・。
海を見るのは久しぶりでした。
以前はよくこの波止場にきては孑(ひと)りで海と水平線に沈む夕日を眺めていたものでした。
ここは「天皇の波止」と呼ばれている長さ二百メートルほどの埠頭で、もともとは寛文年間に徳川頼宣が築いたものらしく、いちど宝永の大津波地震で崩壊して、再築したものが現在の堤であるときいています。とかく荷物の揚げおろしと防波堤施設の目的で築かれたこの埠頭も現在は地元の人たちの釣り場ポイントになっています。
東京から越してきて間もないころ、悟と遊んでいて偶然見つけたこの波止は、ひそかに私のお気に入りの場所でした。特にたゑさんのいやがらせが盛んになってくると、たびたびこの「天皇の波止」にやってきては海に沈んでいく夕日を昏くなるまでつくねんとはるかに見ていたのです。めっきりここに来なくなったのは、ルリが家にやってきてからでした。もちろんルリの世話で忙しかったのもありますが、なによりルリそのものが外界からまるごと退隠することができる隠れ家になり得たために、わざわざ現実の風景に憩いをもとめる必要がなかったからです。
そしてルリが私のもとから飛び去って、私はふたたび夕日がよく見えるこの波止にもどってきたわけです。
ついさっき、ルリが逃げたことが明らかになると、私はショックのあまり家を飛び出して、この埠頭まで走ってきたのでした。たゑさんに憎しみに近い感情を抱きながら。

ルリを飼いはじめた頃は、先述のとおり、悟も大喜びで歓迎していたので、たゑさんもやむをえずルリを飼うことを認めないわけにはいきませんでした。が、飽きっぽい悟は近ごろ完全にルリに興味をなくしていました。それどころか、近頃では鳴き声がうるさいとか臭いとか不平をもらすようになり、ルリを疎ましく感じている節さえ見受けられるようになりました。ルリをお迎えしてからというもの、私の精神的支柱となり、生きる支えとなっていたルリに烈しい憎悪を燻らせていたであろうたゑさんは、この機会をずっと待っていたのでしょう。物陰からうかがう蛇のような目で。

しかし、水平線の彼方の残んの光と色の戯れを見つめていると、怨みや憎しみといった感情はしだいに浄化されるように消えていきました。夕日の光に濾過されて、まじりけのない純白(ましろ)な悲しみだけがのこったのです。それはルリを失った悲しみに違いありませんでしたが、それよりもはるかに漠として広闊な悲しみ、私の固有の悲しみでありながら、同時に私を超えた普遍的な悲しみともいうべきものでした。
太陽は半身を潮に融かされて、朱墨汁をながしたように海面を唐紅にきらめかせています。水平線にそって引き延ばされた雲は光を孕んだようにその縁を檸檬いろにかがやかせており、そこからしだいに鬱金、浅緋、深紅と互いの色彩を侵犯しながらグラデーション状にゆらめいています。ところどころに虫が喰ったように煤けた空をのぞかせているほかは、真赤な燠の繻子の肌質(きじ)のような夕焼け雲が壮大にひろがっています。そこへ紫根から抽出したような燻んだ紫の光がながれてきて、豪奢で無意味な空と海の燔祭はまさに佳境に入ったかのようにはげしく燃えあがっています。
けだし海にとけていく豪奢な落日に、私は母の俤を——自転車で坂をおりていく西日のなかの母のうしろ姿を想っていたのかもしれません。
・・・・・・・・・。
夕焼けという自然の遊戯はあまりにもはやく退いていきます。
日はすでに水平線の彼方に没して線香花火の散り菊のような余燼が淡くゆらめているばかりです。
あたりはだんだんと夕闇がおりて、鉛いろの海がこころもとなく単調に波の音を聞かせています。いつのまにか消波ブロックの釣り人の姿もありません。さっきまで遊弋していた鴎も夕闇の空にまぎれて一羽も見えなくなりました。
やがて彼方の儚げな灯(ひ)も消えてゆきました。日が暮れたのです。
青い鳥は行ってしまった。二度と戻ってこない。
私は踵をかえしました。つかのま体が硬直しました。おりおり濃くなってゆく夕闇の向こう——波止の末端に糢糊とした人影を認めたからです。人影は逢魔が時の、この薄闇の底に幽(ほの)かにみわけられました。気がつけば人影はみるみる大きくなっていきました。私が歩をすすめているのか、向こうから近寄ってきてるのか、にわかには判断がつきませんでした。
近づいてきた人影は果てして幸枝さんでした。幸枝さんはいつもの半眼で私を見つめました。やはり口元に微かな笑みをうかべています。なんて哀しい表情(かお)をしているんだろう、と私は思いました。その半眼と微笑は、私を見るいつもの幸枝さんと一見かわりませんでしたが、とめどなくわきあがる哀しみを強いて押し殺したうえでかろうじて保たれているように見えたのです。ちょうど能役者が俯いて「曇ル」の型をとったとき能面にかすむ翳りのように。
私はわれしらず、幸枝さんの胸にとびこんでいました。そして、堰を切ったように涙が溢れ出てきました。初めてのことでした。幸枝さんは大音(おおね)に泣く私の髪をやさしく何度も撫でてくれました。それから私の耳元で「気付いてあげられなくてごめんね」と囁きました。私は猶も小さな子供のように感情の赴くままに声をあげて泣き続けました。

この日、幸枝さんは一緒に結婚式に参列した体調がすぐれないお友達に付き添うかたちで、二次会をキャンセルして早めに帰宅したのでした。自宅ではたゑさんと悟が二人だけで夕食を摂っていました。私の姿がないことを不審に思った幸枝さんは、前々からおかしいと感じていた点もあったために、たゑさんに厳しく問い詰めて、これまでのことを洗いざらい白状させたのでした。それから、私が行きそうな場所を悟から訊き出してこうして迎えにきてくれたのでした。
「もう大丈夫」
幸枝さんはそう云ってまるで雪山の遭難者を人肌で暖めるかのように私を強く抱きしめました。豊穣なぬくもりが、冷えた私のこころに沁みわたりました。そのまま眠りこけてしまいそうなかぎりない安堵感に抱擁された私は、「もう大丈夫」という幸枝さんの声の彼方に、たしかに母の声をきいたのです。「青い鳥は必ず戻ってくるから」という母の声を。
幸枝さんは太い指で私の涙を拭いました。水いろの薔薇をあしらったベージュのよそ行きのドレスからかすかな汗の匂いに交じってほのかにルリの香がしたように感じました。
幸枝さんはおだやかな「古拙の微笑」をたたえて、そっと秘密をうちあけるかのように私にやさしく耳打ちしました。
「さ、帰ろ。なにか美味しいもの作ってあげるから」

それから半年後に幸枝さんは亡くなりました。

✳︎

木々の葉や風がどことなく色づきはじめた十月のある日、一時間目の授業中に私は教頭先生に廊下に呼び出され、幸枝さんが事故にあったことを知らされました。詳しいことはわかりませんが、車通勤中になんらかの事故に巻き込まれたということでした。
私と悟は早退して病院に向かうことになりました。校門の前にはタクシーが止まっていて、たゑさんが乗っていました。私は助手席に、悟は後部座席に乗りこみました。誰も口をききませんでした。バックミラーにたゑさんと悟の互いに寄り添うようにして座っている姿が映っています。その姿は波打ち際のちいさな砂の城のように、とても脆く、心細げに見えました。私は秋をほのめかす田園風景が目の端を擦過していくにまかせていました。

まもなくタクシーは有田郡で唯一の総合病院であるS生会A田病院に到着しました。
はじめて訪れる大きな病院というのは存外に人を不安にさせます。仰々しい薄墨いろの建物があたかも巨きな妖雲が蟠っているようにみえて、私の不安はにわかに膨れあがっていきました。
正面玄関の自動ドアが開くと、ロビーは年配の外来患者で輻輳していました。
まずもって総合受付で用件を伝えましたが、四十代ぐらいの受付の女性は眉間に皺を寄せつつ私を頭の天辺から足の爪先まで見定めるようにじろじろ見ているばかりで、黙念として一言も発しません。小学生の私は気が急くあまり、しっかりと用件を伝えられなかったのかもしれません。援護を頼もうにも、悟はいうまでもなく、たゑさんまでぼんやりと立ち尽くしていて、まるきりあてにはなりません。やむなく改めて名前と用件を伝えるも、受付の女性は依然として物乞いでもみるかのようなけわしい目つきで私を睨むだけです。
どうしました? と別の若い受付の女性が割って入ってくると、ようやく来意が伝わり、幸枝さんはICU(集中治療室)病棟に収容されていることを訊き出すことができました。私は悟とたゑさんを連れて、三階東館のICU病棟へと急ぎました。
三階のナースステーションでICUに入室したい旨を伝えると、奥から背の高い男性看護師が出てきて、「M野さんですね?」と確認してから病室まで案内してくれました。
ICUは四床のベッドがL字型に配置されていて、右端のベッドだけ使用されていました。「あちらです」と看護師は商品の場所を教える店員のような仕種で右端のベッドを示しました。
生体情報モニタ、脳波スペクトル分析装置、パルスオキシメータ、人工呼吸器・・・などの医療機器が所狭しと囲んでいるベッドに幸枝さんは寝ていました。
鼻カニョラをつけられた幸枝さんは点滴をうたれたまましずかに目をとじています。顔に多少の擦り傷こそあれ、一見しただけでは普段とそれほど変わらないように見えます。

——幸枝さんはだしぬけに道路横の竹林から飛び出してきた子供を避けるために急ハンドルを切って電柱に激突したのでした。後にうかがった担当医師の説明によると、怪我は右鎖骨と肋骨の骨折、そして肺挫傷といった症状だけで、それ以外の目立った外傷はないとのことでした。救急車で運ばれた折は意識もはっきりしていたそうです。外傷性気胸、つまり事故の刺し傷で肺に穴があき、空気がもれて肺が萎縮してしまっているので、肺からもれた空気を体外に出すために胸の中にドレーンという管を挿入したとのことでした。管を通す穴を胸にメスで開ける際に麻酔を打ったらしく、幸枝さんが眠っているのはその麻酔の効果であって、意識を失っているわけではなかったのです。鎖骨遠位端骨折は保存加療では骨がつきにくいため、近いうちに手術が必要となるものの、容態は安定しているので明日にでも一般病棟に移せるとの説明を受けました。

しかし、このときはまだそんな事情は知る由もなく、看護師も「後ほど担当医から患者の病状について説明があります」と告げただけで出て行ってしまったので、私たちはぢりぢりと不安に胸を焦がしながら幸枝さんの側にいることしかできませんでした。
奇妙にも、ここにいたって私は、はじめてたゑさんや悟と同じ地平にたっているような心境になりました。このとき彼らと私のあいだにはじめて家族——より正確を期すれば「仲間」とも形容すべきふしぎな同胞意識が生まれたのでした。私たちは傷つき仆(たお)れた師に寄り添う徒弟さながらに幸枝さんのベッドを囲んでいました。
いきおい私は幸枝さんの手を握っていました。両手でも覆い尽くせないほど厚くて立派な幸枝さんの左手。その手を握っているのは私であるのに、反対に私が幸枝さんにつつまれているような不可思議な心地になりました。大樹の枝で翼を憩める小鳥のように、私は幸枝さんの大きな左手にやすらぎを感じていたのです。あまつさえ、その大きな左手をとおして、波止場で私を抱いてくれたときのように幸枝さんのゆたかな血温(ぬくもり)が私の内奥にまで伝わってきました。
「お母さん」
おのずと私はそうささめきました。これまでも幾度なくそう呼んでいたように。
薄いピンクのカーテンの隙間から、午(ひる)の重みを欠いた白っぽい日が差して、幸枝さんの枕元にいくつもの光の破片を花びらのように散らしています。はしなくも、やさしい光につつまれた幸枝さんの面、その口元にかすかに笑みが閃いたかのように見えました。たしかに口元からあるかなきかのほのかな咲まひが波紋のように深閑と脈打っています。かたわら両目にもうっすらと光がさして、止利様式の仏像のような親しみと気品にみちたあのしずかな微笑があらわれたのです。
「お前のお母さんは薄汚い売女じゃないか」
その声は唐突に清々しく私の耳をうちました。それは朗々とした声でありながらも、いつか幸枝さんの部屋で耳にした囁きと同じように、底無しに現在をのみこむ空虚からひびく幻聴のようにきこえました。しかしベッドの向かい側で、たゑさんがおどろいたように顔をこわばらせていることからも、決して空耳の類ではないこと——この治療室で発せられた現実の声であることは明らかでした。
凍りつく私たちと対照的に、幸枝さんは猶もおだやかな「古拙の微笑」をうかべています。
砕けた日差しを散華のように枕に散らして、幸枝さんのふくよかな面(おもて)は夕顔のように白く発光しています。端麗な微笑はあたかもこれから入滅することをうけいれた静謐な諦観の趣さえ感じられます。
それから半眼にひらいた目からじょじょに光が退き、やがてしずかに瞼が閉じられました。ふたたび眠りにおちたのでしょう。
私たちはおのがじし言葉もなく幸枝さんの寝顔をいつまでも凝視(みつ)めていました。
謎めいた微笑を永久にたたえている子供のように邪気のないその寝顔を。

幸枝さんはそのまま目を覚ますことなく帰らぬ人となりました。
先述の担当医師の説明にもかかわらず、幸枝さんは深夜になって容態が急変し、多臓器不全であっけなく亡くなったのです。不運なことに私は実母だけでなく継母までも交通事故で喪くすこととなったわけです。

その後の広川町の暮らしについて特筆すべきことは何もありません。もはや、たゑさんからいやがせを蒙ることもありませんでした。幸枝さんがいなくなってからというもの、たゑさんはすっかり元気をなくしてしまい、隠居暮らしのように日がな一日をぼんやりと時を過ごしていました。そんなたゑさんも幸枝さんの一周忌を迎える頃、心労が祟ったのか、後を追うようにぽっくり逝ってしまいました。
それから私と悟は、会社を辞めて帰国した父と再び東京で暮らすことになったのです。

幸枝さんには感謝しかありません。
継祖母から多少の迫害はあったにせよ、子供時代をつつがなく暮らしていけたのは幸枝さんのおかげです。母親の記憶があいまいな私にとって、幸枝さんは肉親以上の存在でした。事実幸枝さんは母親代わりなどはなく、まぎれもなく「母」そのものだったのです。その想いは今でも変わりません。
それだけに幸枝さんが亡くなってから、悲しみと戸惑いがごちゃごちゃになった感情に私はさいなまれていました。すなわち幸枝さんを喪った悲しみと、あの独白のような最後の言葉に対する戸惑いの感情に。
幸枝さんを喪くした悲しみは当然に深いものでしたが、おいおい幸枝さんが最後に洩らした言葉の意味を考えるようになりました。幸枝さんは本当のところ私を憎んでいたのではないか。父がよそにつくった女の産んだ子の私をだれよりも憎んでいたのは幸枝さんだったのではないか。思慮を欠いた小学生の私でさえ、そういう考えに行き着くのは容易いことでした。
そう考えればいくつかの疑問にも合点がいくのです。学校で最初に私を「淫売の子」と詰った男の子の母親は幸枝さんが復職した職場の同僚でした。どうしてよく知りもしないクラスの男の子が、突然私を中傷しだしたのか疑問だったのですが、幸枝さんがその子の母親に私のことをそんな風に告げていたとしたらふしぎではありません。他にもここでは述べていない不自然な事柄があらゆる点で納得がいくのです。そもそも、食事もろくにあたえてもらえず、お風呂にも入っていない垢にまみれた子供が同じ家にいるのに、全く気がつかないというのも今更ながらおかしな話です。ともすれば、幸枝さんはたゑさんの陰湿ないやがらせを知っていたのかもしれません。そういう見方にたつと、いつもつつましく、やさしげに点じられていた幸枝さんの微笑が、途端に奇妙でどこか薄気味悪いものに思えてきました。幸枝さんはすべて知っていながら、私が苦しむさまを物陰からこっそりのぞき見していたのかもしれません。なんとも形容しがたい「麗子像」のような薄ら笑いをうかべながら。

「あいはうわ言みたいなもんじゃから気にするこたぁなあらよ 」
幸枝さんのお通夜の当日に、こう云って私を慰めたのは意外にもたゑさんでした。当時の気持ちを思い返すにつけ、おそらく生気の失せたひどい顔をしていたのでしょう。そんな私を見るに見かねて、たゑさんなりの精いっぱいの劬わりの言葉だったのだと思います。たゑさんが急に私にやさしさを見せた理由はわかりませんが、親愛なる人の死というのは、遺された者たちを、たとえいっときであれ、互いに結びつける作用があるのかもしれません。
いずれにしても、たゑさんのその慰めの言葉に私はずいぶんと救われたのです。これまで私を虐めてきた人の言葉だけに、かえって真実めいたものが感じられ、私のこころに素直に沁みたのでした。たゑさんの云うとおり、麻酔で意識が混濁した状態で洩れた言葉に深い意味はなく、その手のうわ言じみた一言を深刻に受けとめることはない。・・・・・
こう考えることでだいぶ気持ちを落ち着かせることができました。

そのお通夜の晩、幸枝さんは私の前に顕れたのです。
真夜中、不意に名前を呼ばれた気がして私は目を覚ましました。隣には母親を喪くしたばかりの悟が疲弊したような寝息をたてています。私はいざなわれるように階段を降りてゆきました。階下の居間からは寝ずの番をしている何人かの親族の湿った話し声がきこえてきます。帰国した父の声も交じっていました。現在はどうかわかりませんが、当時このあたりでは自宅でお通夜を行うのが一般的だったのです。私は居間には顔を出さずに、奥の一角にある幸枝さんの部屋へ向かいました。
和室の襖は開いていました。生前はどういうわけか入ることが躊躇われたこの部屋に私は迷わずあゆみ入りました。
幸枝さんは立っていました。自らの祭壇を前にして、いつものように口元を微妙に掠めた頬笑みをうかべなら。しかしそれはあくまで雰囲気的なものにとどまりました。というのも、ふしぎなことに祭壇の蝋燭のともしびのほかは灯りがなく、幸枝さんの表情は初めて彼女にお会いしたときの記憶のイメージそのままに、影の奥に没していたからです。あまつさえ背後の燭の火の戯れから、ゆらめく光背を背負っているように見えます。
私は臆せずして幸枝さんとおぼしき人影に歩み寄りました。まぢかで見れば、まぎれもなく幸枝さんでした。闇の底から浮かび上がる卯の花のように、幸枝さんは仄白い顔をのぞかせています。闇の中でしずかに発光する幸枝さんの半眼の表情は、まさに弥勒菩薩のごとき慈愛と尊厳に満ちていました。知らぬ間に涙がぽろぽろと零れていきました。それから私は幸枝さんの豊満な体に抱きつきながら何度も「ごめんなさい」と謝りました。一度でも幸枝さんに疑念を懐いた自分をあさましくも情けなく思われたのです。幸枝さんは私の髪を指でやさしく梳りながら「ばかな子だねぇ、泣いたりして」とささめいたような気がしました。その声は私の胸臆に直に語りかけてくるかのように感じられました。死して猶もこうして私の前に顕れて慰撫してくれる幸枝さんに私はこのうえない感謝と親愛の情をおぼえました。温かい羊水に揺蕩うような、底なしの安心感につつまれて、私の両目はそのままゆっくりと閉じられました。
——とみに悪寒に似た寒気が全身に走って、ここちよい微睡(まどろみ)がやぶられました。室内はひんやりとしていて、むき出しの手足に軽い痺れを感じます。どれほど時間が経ったのか判然としませんが、窓際に光がさしていないことからまだ夜明け前だと知れました。夢だったのか、と私は我にかえりました。部屋はまっくらだったはずなのに、埃を被った傘の下の丸蛍光灯がオレンジいろの光をぼんやりと照らしています。そして、かろやかにゆらめいていた祭壇の燭のともしびも、よく見れば電子ロウソクの人工的なのっぺりとしたライトにすぎませんでした。私は寝ぼけたまま、夢遊病のようにこの部屋まできて眠ってしまったのでしょう。私はぶるっと身を震わせておもむろに身を起こしました。
そのとき、今更ながら私は柩の前でちょうど幸枝さんに添うように眠っていたことに気づきました。そのことだけでただちに、あれは夢ではない、と私は思いなおすことができました。いとけない頃、熱を出して寝込むたびに夜伽をしてくれた幸枝さん。一晩中添寝をしながらやさしく頰笑んでいた幸枝さん。あの時と同じように、やはり落ち込んでいる私を心配して幸枝さんは私の前に顕れて、こうして添い寝までしてくれたのです。たとえ、「うつつのゆめ」のような儚い邂逅であったにせよ、あれはたしかに幸枝さんだったのです。

ふと、ひゅーっと苦しげな喘鳴のような音がしました。見ると押し入れの片開きの襖がひとりでに開いていきます。閉めが甘かったのでしょう。そぞろに私は立ち上がって片開きの襖を閉めようとしました。私はハッとしました。押し入れの中は見覚えのあるローチェストが収まっています。一段目の抽斗の板目に悟の名が、そして二段目のそれには私の名が彫られたローチェストです。二段目の板目に象形文字のように刻まれた私の名を見て、たちまちお正月での一件を思い起こしました。「もしものときのため」というひそやかな囁きとともに緘(と)じられた二段目の抽斗。・・・・・ 
おそらくこの抽斗には幸枝さんが私のために遺してくれた何かが蔵(しま)ってあるはずです。
やおら私は二段目の抽斗の把手に手をかけました。幸枝さんが亡くなった今であれば、勝手に抽斗を開けても聴(ゆる)されるはずだと思ったのです。
抽斗はあっけないほど軽く辷りました。
蛍光灯の光に照らし出されたのは、ずっと前に紛失したと思っていた「青い鳥」の絵本と赤子の私を抱いた母の古い写真でした。絵本はぼろぼろに引き裂かれており、写真の母と私の顔には剃刀か何かで✖︎印の傷がつけれていました。さらに抽斗の奥で何かが引っかかっており、私は手を入れてそれをつかみました。冷たく硬い感触のそれは、干からびたインコの死骸でした。
ふと視線を感じたような気がして祭壇に目向けました。祭壇の遺影の幸枝さんはいつものやさしい微笑をうかべて、仏様のような半眼で私をじっと見つめていました。

終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?