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ハラキリ奇譚 4/4

※グロ注意


「なりません」
蒼ずんだ剃刀の刃のような鋭利で凛然とした声がその場を領しました。先生は金縛りにあったように腰を浮かせたままの姿勢で静止しました。その姿は鳥獣戯画に描かれている滑稽な蛙を彷彿とさせました。シノさんは先生の方を見向きもせずに、
「お座りください」
と、落ち着いた調子(トーン)で続けました。先生は一瞬顔を歪めましたが、すぐにシノさんに鋭い視線を送り、声を張り上げました。
「こんな連中の前で腹が切れるか!」
シノさんは何も言わずに、瞑目したまま微動だにしませんでした。先生は低く唸ると、不承不承に腰を下ろしました。
それからも先生は、なんだかんだと理由をつけてなかなか脇差に手を触れようとしませんでした。
「まだ時が熟しておらぬ。時が熟するまで待とうではないか」
「村上、今は何時(なんどき)だ? なに? 申三つになるか? それなら後日にした方がよいであろう。後のこともあろうに」
こんな風にこの場で切腹することをなんとか逃れようとしていましたが、その度ごとにシノさんに窘められ、制されていました。どういう理由か、シノさんに咎められると先生は強く抗えないようでした。
「先生、先延ばしにすることは相なりません。直ちにこの場でお腹をお召しください」
「ぐぬう」
先生は顔を強張らせて呻吟していました。
「死の美学を解さぬ愚民の前で腹を切らねばならぬとは、誠に無念であるが、、、、、いたしかたあるまいて」
先生は渋々三宝の上の平脇差に手を伸ばしました。
「もとはといえば、貴様がまともな客を連れてこなかったせいだからな!」
この期に及んで先生は悔し紛れといった風に村上を罵倒しました。そうして、
沈んだ顔のまま、腹を出して執拗に左の腹を摩っていました。顔色は既に枯れたような肌になっており、唇は紫色に変色していました。突然、脇差を持った右手が壊れた玩具のように震え出しました。先生は左手で右手を押さえましたが、震えは止まりませんでした。
「うぬぅ、手が、手がぁ」
先生は正気を失ったように喚き散らしました。その光景は、若い方はご存知ないと思いますが、その昔、よくテレビで流れされていた証人喚問の光景、すなわち日商岩井の副社長がダグラス・グラマン事件の証人喚問で宣誓書に署名する際の手の震えを想起させるものでした。
すかさず、シノさんが先生に擦り寄って震える手を押さえました。そして、また何かを耳打ちをしたようでした。先生は目を大きく見開き、陸に揚げられた魚のように口をパクパクさせていましたが、しだいに落ち着きを取り戻していきました。脇差を握った右手の震えもおさまっていました。シノさんは続けて二言三言囁きました。私の位置からではほとんど聞こえませんでしたが、
「痛く・・・・」とか「すぐに・・・・」などが辛うじて聞き取れました。先生はシノさんの囁きに泣き腫らしたような充血した目を見開いて無言のまま何度も頷いていました。先生をどうにか落ち着かせると、シノさんは速やかに元の位置に戻り、何事もなかったように坐しました。狼狽している人間をたちどころに落ち着かせるこの女性に私は今更ながらただならぬものを感じました。
シノさんの対応によって再び余裕を取り戻したかに見える先生は、侮蔑の笑みを浮かべながら、私たちを見て、
「凡夫どもが怖気づいておるわ」
と、何度目かの高笑いをあげました。傍らに控える村上も、こちらを見ながら一緒に笑っていました。取り乱していたのは本人の方であり、私たちは誰も怖じ気づいてなどいません。私はただただ、うんざりしていました。私はいつまでたっても切腹しようとしないこの醜く肥った中年の男に心底辟易していたのです。いいかげんに嫌気がさした私は連れに帰る旨を告げました。私の連れもそのつもりだったらしく、私たちは席を立とうと一緒に腰をあげました。

「お待ちください」
想定していたことですが、シノさんが私たちを引き止めました。
「大変お待たせいたしまして恐縮ですが、すぐに始まりますので、どうかそのままお待ちください」
それは柔らかな物言いでしたが、どこか抗しがたい圧力がありました。
相方と私が顔を見合わせていると、
「せっかくだから見物していこうじゃありませんか。いつでも見れるものではないですよ」
中曽根氏が腫れ上がった目を細めてシノさんに加勢するようにそう言いました。私たちは止むを得ず再び腰を下ろしました。
「おう、おう、おう尻尾巻いて逃げ出すか? この臆病物めが!」
先生と村上はここぞとばかり私たちを嘲笑いました。しばらく私たちは彼らの理不尽な嘲謔に耐えねばなりませんでした。こんな目にあってまでここにいる理由など微塵もなく、私はやはり帰るべきであったと早速後悔していました。いつまでこんな茶番に付き合わなければならないのかと思っていると、シノさんが立ち上がり、そのまま襖に手をかけ部屋を出ていこうとしました。先生は慌てふためいて、
「待て!いま腹を切る!行くな!」
と、取りすがるように言いました。シノさんは数秒の間襖に手をかけたままの姿勢を維持していましたが、ゆっくりと先生に視線を送りました。先生は訴えるような目でシノさんを見つめ、愛想笑いようななんともいえない卑屈な表情を浮かべていました。シノさんは「速やかに」とだけ言って、姿勢を正して元の場所に座りました。先生はいそいそと脇差をとり、三宝を尻の下に敷き、右手に左手を添えて構えました。そして、何を思ったか、
「躊躇なし!いささかの躊躇もなく今この場でこの腹掻っ捌いてくれようぞ!」
と、言葉を発しました。今まで散々躊躇っては切腹することを先送りしてきた男のその科白はこの場を白けさせるには十分でした。
「堤る我得具足の一太刀 

今此時ぞ天に抛つ」
先生は気取った言い回しでそう続けましたが、これが千利休の辞世の句の一部であることは私でも分かりました。死ぬ間際に他人の辞世の句をまるで自分の句のように口走るその神経が私には信じられませんでした。
「えい!」
先生はまたもや調子外れな掛け声をかけ、左の脇腹に短刀を突き刺す仕草をしました。
「いー」
途端に先生は白目をむいて叫びました。見ると、左の脇腹から一筋の糸のような血が垂れていました。どうやら刃の切っ先が皮膚にほんの僅かに触れたようでした。誰が見ても針仕事で誤って指を刺した程度の傷です。ところが先生は大きく息を「ふぅー、ふぅー」と苦しげに吐いて、額と鼻頭に珠のように脂汗をびっしり浮かび上がらせていました。
「先生、大丈夫ですか?」
村上は身を乗り出して言いました。これから死のうとする人間に「大丈夫ですか?」とはいかにも滑稽な気遣いではありますが、先生は首を横に振っていました。
「うっ、ダメだ、ダメだ、むらか、、、、」
その時、にわかに再び先生の手が震え出しました。その手の戦慄(わなな)きのために期せずしてもう少し脇差が腹に食い込んでしまいました。
「おっぐ!」
サーっと先生の顔が土色になりました。私の席から見たこところ、傷の深さはせいぜい数センチといったところで、まだまだ致命傷とはいえないほどの軽傷でした。しかし、土気色に変色した先生の顔は到底生きている人間のそれとは思えませんでした。日常生活において、たとえ数センチでも腹部に刺し傷を負うことは滅多にありません。この時の男の腹部——というより男の身体そのものは、日常の世界ではありえない決定的な厄災が生じたことを承認したに違いありません。平穏な日常を粉砕する非日常の厄災、すなわち死や破滅が確実に彼の身体に侵入しつつあることを。大さじ三、四杯ほどの血が飛び出しました。
「あー痛い」
先生は身を捩って悶えました。隣の中曽根氏は仰いでいた扇子を音を立てて閉じると、
「あんた、全然刺さってないよ。そんなやり方じゃ深く刺せないよ。刀を腹に押し当てて前のめりになって体重で押すんだよ」
と、イライラしたように口を開きました。しかし、先生はそれどころではない様子で、ただ悶えるばかりでした。
「痛い、痛いー」
先生は唐突に立ち上がろうとしました。ともすれば、この場から逃げ出そうとしたのかもしれません。しかし、膝ががくりとなって、図らずも前のめりに倒れてしまいました。
「あああああああ!」
短刀はさらに深く脇腹に食い込みました。今度は傷口から大量に血が溢れ出し、瞬く間に白絹で巻いた畳を朱に染めていきました。
先生は眼球が飛び出るかと思うほど、大きく両目を見開いて、「ドク、ドク、ドク、ドク」と吃るように言いました。少なくとも私にはそう言っているように聞こえましたが、後に連れに聞いたところによると、彼の耳には「ドクトル」と言っているように聞こえたということでした。ドクトルとはオランダ語やドイツ語でドクター、つまり医者を意味しますが、連れが言うには、切羽詰まった先生は自然反応的に医者に助けを求めていたのではないかということでした。

途端にあたりは血腥くなりました。先生は喘ぐような呻くような
獣の声を発していました。そしてついに、
「助けてぇー」
と、叫ぶに至ったのでした。その姿はこのうえなく浅ましいものでした。
「おい、君」
中曽根氏が先生の右側に控える村上に呼びかけました。村上は真っ青な顔をして、眼前の光景を見つめており、中曽根氏の声にも上の空で反応がありませんでした。中曽根氏は続けて言いました。
「早いとこ救急車を呼んであげなさい。この人は死ぬ覚悟もできてないし、腹の切り方もわかってない。こんな有様では腹を切って死ぬことなんてどだい無理な話だ。まだ傷は浅い。腸にも達してないだろう。今すぐ手当てすればどうってことはないから」
村上は中曽根氏の言葉を理解する余裕はないようで、何かゴニョゴニョと口を動かしていましたが、突然「おえー」と嘔吐いたしました。そして、口元を押さえながらシノさんを押しのけるようにして襖を開けると、逃げるように部屋から出ていってしまいました。
「いやいや参ったね。主催側がこれでは」
中曽根氏は呆れたように苦笑しました。血の匂いと吐瀉物の饐えた悪臭で私はいよいよ気分が悪くなってきました。私たちもそろそろ退散しようと案じていた時、いつの間にかシノさんが先生を介抱するように寄り添っていました。そうしている間にも傷口から血は滂沱のように溢れ、白無地の小袖や畳だけでなく、シノさんの見事な江戸小紋の着物までが、大量の血で汚されていました。シノさんはいっこうに構う様子もなく、先生の首に手を回しました。
「痛いの?」
先生はウンウンと首を縦に振り「痛いー痛いー」と幼子のように泣きじゃくっていました。
「かわいそうね」
シノさんはまるで恋人か我が子を慈しむように優しく語りかけました。
「死ぬの怖い?」
先生はまた何度も頷きながら、「死にたくない。助けてえぇ」と甘えるように懇願しました。
「大丈夫だからね」
シノさんは傷口を確かめるような仕草をして、先生が握っている脇差に自分の手を添えました。察するに先生は脇差から手を離したくても硬直して自らの意志で拳を開くことができないようでした。
「こんな浅い傷じゃ死なないから、ね?」
「ぐえ!」
先生は禽獣のような叫びともにシノさんの肩越しに大量の血を嘔吐しました。シノさんが先生の脇腹に半ば刺さっていた刀身をひといきに目一杯深く押し込んだのでした。先生は恐ろしいほど目を見開いていましたが、どうやらショックで気を喪ってしまったようでした。シノさんの肩の上で、目を見開き、だらしなく舌を出したまま気絶したその顔は獄門台に晒された醜悪な生首そのものに見えました。
「ほら起きて!」
陶器のような白い肌を血で真っ赤に染めてシノさんは先生の頰を強く幾度も叩(はた)きました。
「うぅー」
先生の虚ろな目にわずかに鈍い光が一瞬差したかに見えましたが、ぐったりしたまま動きませんでした。半醒半睡の朦朧状態の先生にシノさんはなおも強く打擲を続けました。
「こんな状態で目を覚ましたら、のたうち回るほど苦しむことになるぞ」
そう口を出したのは中曽根氏でした。が、シノさんは少しも気にかけることなく、あたかも意識を喪いかけた患者を励ます看護師や医師のように先生の体をゆすり、頰を叩きました。が、先生の意識は朦朧としたままでした。すると、シノさんは血の海の中を膝頭で先生の背後に回りました。それから背後から短刀の柄を先生の両手でしっかりと握らせて、その上から自らの手を重ねました。そしてそのまま右へキリキリと引き廻し始めたのでした。私たちは愕然として息を飲みました。
「あぁ!」
夜の海のような漆黒の液体が傷口からどろりと溢れ出しました。
「自分でやらないと切腹にならないでしょう。ほら、力入れて」
強制的に切腹を続行されたことで力ずくで意識を呼び戻さた先生は、訳がわからないまま泣き叫びました。
「許してぇ」
まるで親に折檻を受ける子供が許しを請うように叫びながら、容赦なく自分の腹部がゆっくりと横一文字に裂けていく様を先生は顎を引いて見ていました。
どす黒い血が滝のように流れ、皮下脂肪や大網などがしだいに露わになっていきました。だしぬけに大きく開いた傷口からミミズ状の生き物然としたものが、躍り出てきました。一瞬、逃げ場に窮した寄生虫が飛び出してきたように見えましたが、紛うことなくそれは大腸でした。
「あ・・・出てきた。・・・」
先生はぼそりとそう漏らしました。まるで他人事のようなその口振りの言い知れぬ底気味悪さに私は気が遠くなるよう目眩を覚えました。
「見られちゃったね。お前の汚い臓物(はらわた)」
涼しげな目元と花びらのように薄紅く濡れた唇に蠱惑的な微笑を湛え、阿弥陀仏さながらに慈愛に満ちた温和しやかな口調でシノさんは囁きました。

人目に晒せられることを想定していない人間の臓物は否応無しに白日の下に晒されて、蛍光灯の明かりに卑猥なまでにつやつやと光沢を放っていました。傷口が広がるにつれて、四肢を欠いた無足目の両生類のように、うねうねと大腸は這いずり出てくるのでした。
「節操なくこんなに出して。はしたない。恥ずかしくないの?」
「あーん。あーん」
先生は大粒の涙を零しながら自身の露出する内臓を見ていました。
「情けない人。男のくせにこの程度で泣いたりして。まだ死なないから大丈夫よ」
右脇腹まで引き廻し終えると、シノさんは短刀を引き抜き、鳩尾のあたりに刃を突き立てる姿勢をとりました。
「自分で突き刺すのよ!ほら!」
シノさんの思惑としては、心下に脇差を突き刺し、そのまま垂直に臍下まで切り下げて、十文字腹に切り裂くことを目論んでいるようでした。しかし、先生は醜悪極まりない深海魚のような顔付きのまま、わけのわからない呻き声をあげるばかりで、そんな余力も精神力も持ち合わせていませんでした。埒も無くシノさんは改めて先生にしっかりと脇差を握らせると、自分の両手をその上に重ねて背後から鳩尾に一気に突き刺しました。
「おお」
先生は突然飛び上がりました。まるでおもちゃの「黒ひげ危機一髪」のように鳩尾に脇差を突き刺すと同時に飛び上がったのです。さらに何を思ったか自閉症の子供がそうするように、ぴょんぴょんと飛び跳ね出したのでした。鳩尾に短刀を刺したままに下腹部からだらしなく大腸を垂れ下げながら。どこにそんな力が残っていたのでしょうか? 突然のその奇行は、生肝を抜かれるほどおぞましい光景でした。
「おおおおおおお」
なんとも形容しようのない白痴の表情を浮かべ、数回その場を飛び跳ねると浅ましくも畳の上にまで飛び出てていた自分の大腸を踏んずけて、足元が滑り、前のめりにました。その瞬間ブチっとゴムが切れるような音がして、先生は顔面を畳に打ち付けて倒れました。顔面と胸を畳につけて万歳するように両腕を伸ばし、臀部を天井に向かって突き出して倒れているその姿は、まるで猫が伸びをしているようでした。不意に血の臭いの中に別種の悪臭が鼻をつきました。よく見ると、赤黒い塊がそこら中に散乱していました。どうやら大腸を踏んずけて転倒した際に、腸が破裂して、糞便を撒き散らしてしまったようでした。この悍ましい光景を前にして切腹を幾度か見ていると思しき中曽根氏さえ顔を背けていました。すぐに激しい痙攣が始まり、まるではしたなく発情した娼婦のように、天上へと突き出した臀部を左右に振ると、大きな鼾をかきながら「おビール」——私にはそう聞こえたのですが——と、そんな不明瞭な言葉をつぶやいてついに動かなくなりました。
すっとシノさんが立ち上がりました。その所作は見惚れるほど優雅なものでした。シノさんは先生を踏み潰された蛙でも見るような目で見下ろして、
「だらしない」
とだけ呟きました。その口吻には愛情や哀れみはおろか、あまつさえ蔑みや冷酷さも、いわば人間的な感情一切を欠いていました。それから私たちに深々と礼をして、舞台女優が舞台の袖に退出するように部屋を出ていきました。

私は介錯なしの切腹は喉や胸などの急所を突かない限り簡単に死ぬことはできず、最悪の場合、敗血症になって死ぬまで一日以上苦しむこともあると聞いていたので、目の前の男が本当に死んでいるのか確信が持てず、今からでも救急車を呼ぶべきでないかと中曽根氏に尋ねました。が、氏はあっさりと「死んでますよ」と言い捨てて部屋を出ていこうとしたので、私たちも慌てて彼に続いてそこを後にしました。お尻あげてあたかも交接をねだるような無様な格好で息絶えた男、大量の糞便と吐瀉物と臓物が散乱したおびただしい血の吹き溜まりの中で惨めに絶命した男を残して。

私の話はここまでです。その後のこと、例えば死体をどう処理したのかなどは存じ上げません。最後に一つだけ付け加えてこの話を終わりにしたいと思います。この屋敷を後にする際、庭園で他の切腹を見学したという数人の男女に会いました。彼らの見学した切腹人は十代と思しき少年だったとのことです。彼らの話では、少年は「えい」と低い掛け声とともに左腹に脇差を突き立てると一気に右腹まで引き廻し、一旦抜いてから前に倒れ込むようにして短刀を喉に突き刺し、介錯なしで見事に果てたとのことでした。とても子供とは思えない立派な最期であったと彼らは皆口を揃えて少年を讃えていました。


 

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