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男らしく、女らしくではなく、人間らしくあればよい。

メンズリブという活動がある。
いわいるウーマンリブの男性版。「男性解放」である。
こういった運動がうまれた背景に、ドメスティックバイオレンス(以後DVと表記)がある。DVをするに至る多くの男性が、この社会の、世間の無自覚に形成されてきた価値観という枷をはめられ苦しんでいる。それは、男はこうでなければならない、または夫はこうでなければならないといった見えざるプレッシャーである。
DVは、親から良い子を求められた子供が突然切れる状況と似ている。
この運動は男性らしさという社会の価値観の規制、例えば、男は泣いてはいけない、愚痴をこぼしてはいけない、良き夫を務め続けなければならない、などから男性を開放させることにより、障害の回復を図っている。実際、多くのDV患者が、この会に入ることにより、心の枷を取り去り、DVを克服している。
男性の解放なるものが最近話題になりだしたからといって、それが現在に特有の問題であるとはいいきれない。以前から、変わらずに存在していたと考えている。
ただ、男性の昔なら看過されていた暴力が、看過され得ないくらいに女性の社会的地位が浮上してきた結果、その原因を探っていくと実は男性も社会の価値観の抑圧に苦しめられていたという問題が顕在化してきたということなのだろう。つまりは、男性の解放が、ひいては女性の更なる地位向上を促す鍵になっているともいえる。
そして、それは、男性と女性の役割分担が曖昧化してきている時代の要請でもあるだろう。男性は肉体労働に出、女性は家を守るという構図が、現在では、通用しなくなっているのである。第3次産業全盛であり第4次産業革命のただ中である現在、社会的な男女の格差は(未だに厳然としてあるが)、以前に比べれば各段に好転してきている。男性は攻撃的である必要はなくなり、女性は保守的である必要もなくなってきた。そういう意味で、女性と男性の区別すらももはや以前ほど明確ではないのである。この場合、僕がいっている男女の区別とは、生物学的な意味においてのセックスのことではなく、当然、社会的、文化的な意味においてのジェンダーである。しかし、そういった時代の要請にもかかわらず、価値観は未だに旧態依然としたものであるがゆえに、引き起こされる問題のいち断片として、DVという問題もあるのである。

さて、僕がここで提起したいのは、DVのことではなく、その根源的な問題としてのジェンダーである。男性らしさ、女性らしさといった社会的形成物に対して、甚だ懐疑的なのだ。例えば個性尊重を訴える者が、ジェンダーに対して、敷居を設けた場合、そこに欺瞞を感じずにはいられない。もちろんジェンダーのうちにも社会的にまだ峻別する必然性を持ったものはある。しかし、その他の部分についての区別に果たして何らの意味があるのか?それは個性の否定となんの違いがあるのだろう?セックス(体格)に男女違いがあるのは当然である。だが、その精神において、男女はさほどの違いがあるものなのか?
仕種やものの言い方などの部分のジェンダーはある程度男女間の区別もあるだろう(これもさほど必要だとは思わないが)。しかしもっと根源的な精神において、例えば、涙もろい男性、しおらしい男性、たくましい女性、そのような個々の違いがあってもそれは当然ではないのか。人間的に精神が弱い強いというのはあるだろう。しかし精神(根源的な)における男らしさとは、女らしさとはいったいなんなのか?
現代においてそんなものの区別はありはしないのではないだろうか。
「みっともない」や「情けない」などの言葉を使う場合注意しなければならないのは、それがひとりの人間としてみた場合によるものなのか、根源的なジェンダーの差別に拠るものなのか、ということである。前者であるなら、それが人間としての社会的価値観の必要性を勘案した上で、まだ、許容できる余地がある。しかし、後者である場合どうだろうか。

「雄雄しい」を辞書で調べると、男らしい、勇ましい、健気だ、という意味らしい。一方「女々しい」は柔弱である、いくじがない、未練がましいとある。
このように、「女々しい」という言葉を男性に使う場合にしても、既にして、男尊女卑的な社会的な概念の縛りが含まれていることを忘れてはならない。
男らしく、女らしくではなく、人間らしくあればよい。

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