あの日に戻っても同じ道を選ぶのかー選択とか後悔とか

最近、親友が仕事を辞めた。そんな選択をした友達を、他人ながら誇りに思う。結果がどうとかじゃなく手、「大きな選択を、自身で決めた」 そんな事実が尊いと思うんだ。だから、選択することについて書きたい。

僕は、嵐の「Oh  Yeah!」という曲が好きだ。この曲の次の歌詞がすごい好きだ。

「もう一度 あの日に戻れるとしても 同じ路(みち)を選ぶだろう」

僕たちは、日々色んな選択している。朝何時に起きようとか、何を食べようみたい選択から、どんな仕事をしよう、だれと結婚しようみたいな人生に数回しかない大きな選択まで、色んな選択をしている。その選択を誇りに思うこともあれば、それを後悔することもある。良い選択をしたと思っても、振り返るともっと良い選択があったかなと思ったりする。逆もしかりで、直後に後悔しても、振り返ってみると、その選択をした自分を誇りに思えたりする。

結局は、その選択を正解にできるか、そんな風にとらえることができるか、できるように努力できるか、なのかもしれない。そうすれば、(選択をした)あの日に戻っても、同じ路を選ぶのかもしれない。

そんな出来すぎて、参考にもならないようなスーパーマンみたいな人が言いそうなことを一歩進めたい。いや、後退させるかもしれない。でも、人生に希望をもって生きるべきみたいな、息苦しさについて考えたい。


後悔はないけど、あの日に戻って、違う道を選ぶ

よくある「当時は○○だったけど、✖✖したら成功した」的な話を聞くとほんとかよって思う。悩んでいたことが良かったみたいなこと言うけど、悩む当時の自分に今言っているアドバイスをして、心に刺さるのかと言っている人に質問したい。

そりゃ、振り返れば、結果としてつながっていたのかもしれないけれど、悩んでいた時は、そんなことわからなくて、フィーリングで偶然選択したことがたまたま正解だったみたいな感じじゃないか。なんかかっこつけたくて、言いたい気持ちもわかるけれど、きっと謙虚にならないといけないと思う。

だから、いつも思う。きっと別の選択をしていたとしても、後でテキトーにロジックを組んで、成功したとか、それを成功とするみたいな感じなんだと思う。
きっと別の選択をしても、今とは違う成功の意味を知って、調子こいて、偉そうなことをいっているんだと思う。でも、それって素敵だと思う。色んな意味の成功とか、良かったの定義が、気が付いていないだけで、実は広がっているんだから。
僕は、良い大学に行ったと思う。でも、もし別の大学に行っていたらとも想像する。きっと、良かったとか言っているんだと思う。でも、その「良い」
の意味は違くて、違う素敵な世界を生きているのかもしれない。


色んな選択をして、どんな世界を生きていても、それを肯定できるのかもしれない。そんな心の余裕とか、感性を大切にしたい。そうすればきっと他人の世界も素敵に見えるから。苦手な人の世界も否定しなくても大丈夫になるから。何より、色んな可能性の中から、今の世界を選択した自分を好きになれるかもしれないから。そして別の路がある世界にドキドキできるから。


後悔しかないから、あの日に戻って、絶対違う道を選ぶ

上みたいに思える選択は、そう多くない。どうせ、あの日に戻れないから、妥協的に自分を納得させるために、そう思っているのかもしれない。

「あんなこと言わなければ」「あんなことしなければ」

そんな後悔を、拗らせまくって、人は執筆やら、作曲までして、世に発表する。そして、そんなものを金を払って消費して、その選択は正しかったとか無理に思い込んで、さらに後悔を拗らせていく。

そんな後悔の拗らせ無限ループの中で、生きていかないといけないんだと思う。苦しいし、絶望的だ。しかし、過去は変わらない。だから、拗らせながら生きていくしかないのかもしれない。でも、自分が、そんな拗らせ系の人間であることだけは、見つめきらないといけない。時に開き直ってみても、どこかで、拗らせ系を自覚すること。それができれば同程度の拗らせ系が、一緒にお互いの傷をなめてくれる。事実は変わらなくても、ちょっとはましではないか。そんな弱さを認められるくらいの強さを僕は持ちたい。

後悔を成功に変えられるだけが強さじゃないと思う。苦しみをちゃんと苦しみ続けられるのも、強さだと思う。そんな強さがないなら、だれかと一緒に苦しめばよい。そんな強さというか、むしろ素直さは、なんとか持てるんじゃないかと思う。そして、その一緒にいてくれる人を、想う気持ちは弱くても持っていたい。それが痛みとか後悔と共に生きることだと思うから。

違う選択をしたいと思っても、できない世の中で、ちょっとはマシに生きていければと、僕は思う。

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