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1964年の父の記憶、そして練馬駐屯地

世界的なコロナウィルスとの戦いによって延期を余儀なくされた東京オリンピック。前回大会開催から55年も経過していること、そして当時、まだ幼かった自分も全てを正確に記憶しているわけもないのだが、ひとつだけ明確に覚えていることがある。それは父が自衛官としてこの大会に関わったことと、当時は練馬駐屯地向かいの官舎に住んでいたということだ。災害派遣や平和維持活動への参加など、国民の自衛隊に対する見方はここ10年で大きく変化した。特に東日本大震災以降、災害派遣活動によって多くの国民が救われていること、そして今も、コロナウィルスとの戦いの最前線に自衛隊の存在が不可欠であることが広く知られるようになったのはすばらしいことだが、1964年当時(そしてその後も長い間)「自衛隊=違憲」「自衛隊=軍隊」と目の敵にされていたことを知る人はもう少ないのかもしれない。

詳しい事情については私もよくわからない(何分にも父も90歳を超え、昨年長年連れ添った母に先立たれてからは認知の症状が進行しているので話を聞こうにも会話が成立しなくなりつつある)のだが、実家を追い出されて母と生まれたばかりの兄を連れて東京にやってきた父が頼れるのは当時陸幕勤務だった伯父しかおらず、そして創立以来一度も定数を満たしたことのない自衛隊にとって「旧軍経験者(父は陸軍士官学校学生として終戦を迎えているので厳密には違う気もするのだが)」「医師免許持ってる」父はどうも格好の人材だったようで、1962年に二等陸尉として任官し、第一師団配属となったようだ。「ようだ」と書いたのは、現在の第一師団の組織図を見ると衛生隊的なものが見当たらず、そして幼い頃父に見せてもらった部隊章は第一師団、東部方面総監部(今の東部方面隊)、防衛庁長官直轄部隊(今の防衛大臣直轄部隊)と3種類あったので正直なところ「どの部隊に所属していたのか?」がわからないのだ。ただ、練馬駐屯地配属となったことは「希望通り」だったことと、旧軍だと中尉相当となる職位に任官したのが余程うれしかったのだろう、初任給も出る前に制服をオーダーメイドして母を激怒させたことだけは事実関係として理解している(このあたりの経緯を母が生前何度も話していたので)。

入隊後程なくして、私が生まれた。聞くと前夜、日本武道館で開催された「自衛隊音楽まつり」を家族三人で聴きに行った後母が産気づき、三宿の自衛隊中央病院で生まれたのだという。朝早い出産だったようだ。出生届(=命名)はまだ母がベッドで休んでいる内に父が太子堂出張所で提出したようで「命名の相談がひと言もなかった」ことを母はずっと私に愚痴っていたが、出生届を世田谷区で出したことが戸籍に記載され、自衛隊中央病院を退院する際の写真が残っていることで自分のルーツを知ることができるのは今でもありがたいと思っている。

父は、医官という少し特殊な立場にいたためか(あるいは練馬駐屯地には上官にあたる人がいなかったのか?)、いつもギリギリのタイミングで駐屯地に入るのを常としていた。当時の練馬駐屯地は毎朝9時に国旗掲揚とらっぱが鳴るのが常で、そのときは全ての自衛官が国旗に向かい敬礼するのだが、官舎のベランダから見ていると、正門を通ったところでらっぱが鳴りだし直立不動で敬礼している父の姿を何度も見たことは鮮明に記憶している。当時の練馬駐屯地は営内の建物も平屋が多く、官舎からは丘の向こうに停止している戦車(年代的に61式?)や、軽機関銃を搭載したジープが普通に見えた。ある程度大きくなってからは、当時父が働いていた医務室に兄と私を連れて行ってくれた。医務室にやってくる隊員の皆さんは、総じて私たちに優しく、子供心に「いい人達なんだな」と思ったことを覚えている。それだけにその後「自衛隊=憲法違反」「自衛隊=人殺し」みたいにやり玉に挙げる風潮があることを知ると「なんなんだろう」と軽く混乱したのも無理のない話だろう。近年、防衛省も組織全体による広報体制が充実し、昨今は部隊独自のSNS運用も広がっているが国民の前に出てくる絵面はどうしても「精強なる」姿が多く、時代が違うとはいえ「普段の営内」を見ることができたこと、そこで働く人々に少しでも触れる機会があったことは今でも貴重な経験だと思っている。ただ残念なことは、退官後父があまり練馬時代のことを語りたがらなかったことと、59年連れ添った母が先に逝ってしまったことで、この当時のことを知る機会が失われてしまったことだ。(タイトル画像は現在の練馬駐屯地内にある史料館にて2020年1月撮影)

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