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消した痕跡

オリンピックが終わった2年後の昭和41年暮れ、父は退官し官舎からも退去することになった。「衛生学校の教官に」という話もあったようだが「開業した方が稼げる」と思ったのか、あるいは当時は継子扱いだった自衛隊に長く勤めるつもりもなかったのか、あるいは旧軍経験者が自衛隊に対し感じるギャップがどうしても解消できなかったのか、とにかくやめた。乗っていたクルマも売り、貴重品だった電話は同じ官舎内の方に売った。階級社会ゆえ、電話を引き取りに来た方(当時一曹)が「**一曹、御電話頂戴いたします!」と直立不動で母に敬礼した姿は「メダリストの人に敬礼されてしまったわ」という言葉と共に今でも覚えている。そういえば、官舎を去る少し前「駐屯地にメダリストが来る」というのでベランダからその様子を見ていたこともあった。「あの人がマラソンでメダルを取った人よ」と母が指さしたその人も、正門前で父と同じように直立不動で国旗に敬礼していた姿を今でも鮮明に覚えている。円谷幸吉という名前と、電話をお譲りした一曹の名前は幼心に「オリンピックで活躍した人」としてその後も長く記憶することになった。

父が退官した後も、伯父は自衛隊にいたため時折制服姿のまま我が家に現れることがあった。また依然として医官不足だったのだろう、伯父の勤務する小平駐屯地の分屯地である立川分屯地(現在の東立川駐屯地)に医官補助的な仕事で通っていたことも覚えている。ある日父に「どうして制服を着ないの?」と聞いたところ「もう自衛官じゃないから着なくていいんだよ」と言われ、少しガッカリしたのはやはり、子供心に制服姿の父の方がカッコイイと思っていたのだろう。そう書いていて思いだしたのだが、伯父の家はどうも三宿地区にあった官舎だったのではないかという気がしている。一度だけ父に連れられ遊びに行ったことがあるのだが、練馬ではない、神奈川でもない(母方の伯父が海上自衛隊勤務だったので、京急追浜駅から官舎に行ったことは覚えている)ので消去法での推測に過ぎないのだが、伯父の車が品川ナンバーだったことだけは覚えているので。

ひとつ前のnoteにも書いたが、退官した父は制服も伯父に譲り、そして当然官品は返納しているため在籍時の衣服等は全く残っていない。わずかに残された部隊章3枚と、オリンピック支援集団参加時に作成された名札をもらったが、子どもに与えたということは、本人的にはどうでもいいものだったのだろう。陸軍士官学校時代の軍隊手帳は後生大事に持っているのに、不思議だ。(写真は練馬駐屯地内の史料館に展示されているM24軽戦車。2020年1月撮影)

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