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「殺人者たち」ドン・シーゲル

 締め切りギリギリまで脚本を書いた翌日、特にすることもなくダラダラしていると哲学者から連絡が。

「ドン・シーゲルの殺人者たちを観てくれ!!!」

 熱量に押された私は、初の菊川strangerへ。途中入場できないだの上映中トイレに行けないだの、二郎ラーメン並にルールの厳しい(最近はそうでもないらしいが)と噂のこの映画館。私はしっかり10分前に到着しトイレを済ませ、左奥側の座席についた。椅子は若干チープな感触だが、その上にベロア生地を貼り付けて上品さを保っていた。私はベロア生地が好きだ。指でなぞると線が描かれるので、昔よくベロア生地に絵を描いていた。
 平日昼間だが最終回とのこともあって混み合っている。私の座席から、一つ席をあけた隣の座席に大学生が座った。そして自分の荷物を空いてる席に置いた。彼のパーソナルスペースがグワっと広がった。あぁ、広がっちゃったなぁ〜、そんな私の機嫌を察したのか、彼は少しだけ荷物を自分側に寄せた。

左:リー・マーヴィン 右:ノーマン・フェル

 初ドン・シーゲル。あぁなんて良くできた非の打ち所がない映画なのだろう。物語は二人の殺し屋が盲目学校に入ろうとするサングラス反射のエスタブリッシュメントカットからスタートする。もうこの絵面だけで「あぁこいつはすげぇや」と感嘆した。依頼を受けた2人はターゲットのジョンカサヴェテスを射殺し任務を遂行するが、ジワジワと違和感を覚え始めていく。それは、報酬が良すぎること、彼に関する強盗事件、そして「銃を向けられたのに、奴はなぜ逃げなかった???」。カサヴェテスの軌跡を探偵さながらに辿っていく彼らのプロットをベースに、知人たちの回想がクロスカッティングされていく。この構造はいささか安っぽく感じるものの、回想の内容自体が非常に面白いので、そんな穿った見方は徐々にどーでも良くなっていった。(回想形式を嫌ってる訳ではない)

ゴーカートで遊ぶカサヴェテス。投影による合成が一周して新しい。

 色気ムンムンレーサーのカサヴェテスがファムファタールに骨抜きにされて、あーあそりゃそうだよという話運びなのだが、シーゲルはこの二人の様子をすごく丁寧に描いている。フィルマークスを見ると、ここが冗長すぎるというせっかちさんが多いように見受けられるが、私はどちらかというと、殺し屋二人のことなどどーでも良いから、この二人の姿をダラァっと見ていたいと思った。頭じゃわかってるぜ?こいつ絶対美人局やんけ、でもこいつやっぱすっきゃねん、、、という人間臭さ。でも二人一緒にいた時間とその時感じた感情は真実なのですよ。そんなことを、相対的に浮き彫るためにクライムサスペンスと等しくイチャイチャカットを長くとっているのだとしたら、あぁ素敵な試みだなぁと思わされたのだった。私はドン・シーゲルが大衆にどう認知されていた・いる、のか知らなかった。が、どうやらB級映画の名手という言われ方から、観客のバイアスが作品を曇らせているのかもしれないと感じた。まぁジャンル映画という括りは良くないという話だ。

左:ボスのレーガン元大統領 右:アンジー・ディキンソン

 ネタバレすると、登場人物みんな死ぬ。いや、ごめん嘘。カサヴェテスの相棒と、レーガンの部下は生きてる。どーせならこいつら二人も死ねば、観客の僕らだけが知る物語として神秘性が出たのに。いや、それをするほどの物語でもないか。二人の愛には真実があったなどというクセェ話でもないしな。つまるところ、ドン・シーゲル監督は恥ずかしがり屋さんなのかもしれない。

 ここで少し、印象に残ったカットを記しておきたい。老練殺し屋と若き殺し屋がアンジーを尋問する場面、アンジーはカサヴェテスがレーガンを殴って車から突き落とし、そのまま金を持って逃走したと告白するのだが、その発言に対し若い殺し屋が突然アンジーを殴りつける。そして「こんな感じか?」と言い放つ。いやぁ、このコミュニケーションの緊張感、とてもワクワクする。殺し屋とは暴力性の象徴。かつて南條範夫は「男性とは本来残酷性を持った生き物である」とシグルイの巻末コメントで語っていたが、言葉という中性的コミュニケーション上で行われてしまう、、人倫に反するマスキュリンさに少し血が踊った。

 観終わったあと、思わず「ほわぉ」と感嘆のため息を漏らしてしまった。隣の大学生も「ほわぉ」と言っていた。なるほど、映画館で観てよかったなと思った。

<了>

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