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小説家と名乗るには早い。

 カクヨムで「サポーターズパスポート」なるものが始まった。推しの作家にギフト(スパチャみたいなもんかな)を贈れるし限定コンテンツを読むこともできますよ〜というやつだ。早速ギフトをひとついただいた。大変ありがたい。以前からメルマガっぽいものをやろうかなと考えていて、noteのほうで有料のマガジンを作ろうと思っていたのだけれど、カクヨムの限定近況ノートにメルマガっぽいもの、を書いていこうと思う。不定期更新です(でも月に二回は更新するつもり)ふとなにか読みたいな、と思ったときにまとめて読んでいただけるよう、書いていきます。

https://kakuyomu.jp/users/kitahararara/news/16816927860858283106

 僕はnoteで「西国三十三所巡礼」の記録を書いている。noteではたくさんの人がエッセイを書いているし読んでいる。読者の方は、読んだよ、とハートをつけてくれる。タイムラインにあなたにおすすめ! と出てくるのは創作についてのことが多い。どれどれ〜と読んでみる。人の創作姿勢を読むのが好きなので。

 で、傾向みたいなものがあるなあ、と気づいた。「自分はいまうまくいっていない(評価されていない)けど、目標に向かって頑張っていきます」という流れのものだ。そういう定型があるのか? エッセイ教室で褒められそうである。とにかくたくさんあった、そして多くの支持を集めている。たしかに応援したくなるかもしれない。僕も「読みましたよ〜!」と気軽にハートをつけようかなと一瞬思う。が、なんとなく踏みとどまってしまう。これはどういうことなんだろうか。喫茶店でPCとにらめっこしながら考えた。僕は創作姿勢は読みたいけど創作の悩みにそんなに興味がないんだな、ということがわかった(気がした)。もちろん「同じように悩んでいる人いるんだな!」と思うことができるけど、そういうエッセイよりももっと語り口にセンスがあるやつとか新しい知恵を得るようなもののほうが楽しい。

 書籍を出した方がその後で悩んでいる、というエッセイもたくさんある。そうだろうな、と思う。売上とか話題になったか、とかで「次」が決まるものだから、話題作りだってないなら自分で考えなくてはならない。僕もそうだ。素直に吐露されているものを見て、素直すぎやしない? とは思いつつ、我が事のように思う。一冊出したから作家だ、じゃなく、書き続けているのが作家なんだろう。ベタすぎて書くのも嫌だが。
 以前純文の作家さんのサイン会に行った時、ちょうど他に人がいなかったので少し話したことがあった。「三千人のコアなファンを作ることが大事だ」とその人は言った。なるほど、三千人ってどういうとこから出た数字なんだろ、と思ったけど、サインしている本の初版部数なのかもしれない。たしかに三千人、本を買ってくださる人がいたなら、心強い。そんなお話を伺いながら、正直まったく現実味を感じられず、「ほえ〜」と口を開いていた僕は世間知らずのぼんくらである。危機感が足りないのかもしれない。

 焦る気持ちを文にする。きっとエネルギーがあっていい文章になると思う。と同時にあやうい。エッセイではしたくない。
 僕は須永朝彦さんの小説が好きなんだけど、須永さんのように博識でなければ「読者百人の文学」を標榜もしていない。僕が書くのは、あくまで隣にいそうな人の話だ。なんてこともなさそうな人の波瀾万丈とか、を書きたい。あなたの書くものは美男美女が多いですね、と言われるけど、美男美女が好き、というのはおいといて、美しい瞬間が好きなだけです。美しい瞬間を描くことで美男美女になる。心情吐露は極力小説のほうでしたいので、エッセイはぶっきらぼうだったりする。これじゃPRにも承認欲求の解消にもならないなあ、と思いながら、結局僕は小説のことしか考えていない。小説のことを考えていたら、今の不遇を嘆く時間はない。
 きっとみんな、器用すぎるのだ。器用すぎるから、悩んで傷つく。器用な文章を書く。そう考えると、自分はただの小説好きな人、で小説家ではないのかもしれない。もう少し小説を書いて、よりうまく書けるようになったと思ったら、名乗ろう、のちの楽しみにとっておきたい。
(とかいいつつ、SNSの自己紹介ではしれっと自分のことを小説家、と書く。それしかなさすぎて。ちょっと申し訳なさそうに書いています)

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