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【元祖名作エッセイ】徒然草

先日の人間塾の課題本は「徒然草」だった。古典から学ぶというのが趣旨だが、古典文学が取り上げられることはあまりなく、徒然草もちゃんと読んだことがなかったので良い機会だった。吉田兼好と習った記憶もあるのだが、それは不適当らしく兼好法師が正しいとのこと。

奇しくも、NHKの「知恵泉」でおひとりさまのお手本として取り上げられていた。フリーランスの先駆者としても取り扱われていて、ビジネス書としても読み解いている。出家をすることで身分の違いも超えて人付き合いをしてきたようだ。極楽往生を目指す世の中にあって、今この一瞬を楽しんで生きていくことを説いている。こういった普遍性が書かれていることが長く読み継がれている一因だろう。

読書会の中では三大随筆として残っている理由として、鎌倉時代から建武新政、南北朝時代と動乱の時代にバランスが取れた生き方をしていたり、江戸時代への単純美に繋がる内容であることも挙げられていた。

特に印象に残った章句が二つある。

第七段
もし、化野(あだしの)に置く露が散らず、鳥部山の火葬の煙も消えず、そして我々も永久にこの世に生き続ける習わしであるならば、情緒というものが、どんなに失せてしまうであろうか。この世は不定であるからこそ価値があるのである。(略)人間がたとえ一年間つくねんと過ごすだけでも、それはこの上なく長くて安楽な生と言えるではないか。それでも寿命に満足せず名残惜しいと思うならば、たとえ千年を過ごしても、一夜の夢のようにはかない気持ちがするだろう。
第一五〇段
技能や藝能を身につけようとする人は、「上手にできないうちは、うかつに人に知られまい。ひそかに学んで十分熟達してから、人前に出るようにすれば、たいへん奥ゆかしく見えるであろう」などとよく言うようであるが、こんなふうに言う人が一藝も習得したためしはない。
 まだまったく未熟なうちから、名人の中に入って、貶されたり笑われたりしても悪びれず、平気な顔で通して稽古に励む人が、生まれつきの素質はなくとも、倦まず弛まず勝手をせず年月を過ごすと、才能はあるが稽古に励まない者よりも、けっきょくは名人の地位に達し、貫禄もつき他人からも認められて並ぶ者のない名声を得ることになる。

特に二つ目は、私自身が人の眼を気にしすぎる性分で、最近新しいことを初めたこともあって、心がけたいことであり、励まされる言葉でもある。

私は不勉強なので冒頭の「つれづれなるままに~」しか知らなかったが、いくつか有名な章句があるようだ。会の中では二つ出てきた。

第五十一段
亀山殿の御池に大堰川の水を引き入れなさりたいということで、土地の住人に命じて、水車を作らせなさったことがあった。多額の資金を下されて、かなりの日数をかけて作り出して、川の流れに懸けたところ、一向に回転しなかったので、いろいろと修理したけれども、とうとう回転せず、何の役も果たさず立っていたのであった。
 そこで宇治の里の住人を召して、作らせなさったところ、やすやすと組み立てて進上したものが、思った通りに回転し、水を汲み上げる様子は見事であった。
 何事につけその分野に通じたものは大したものである。
第九十二段
ある人が、弓を射ることを習う際、二本の矢を手にして的に向かった。弓の師範が言うには、「初心の人は、二本の矢を持ってはならない。二本目をあてにして、最初の矢をおろそかにする心が起きる。いつも二本目の矢はなく、ただこの一本で決まるのだと思え」とのことである。立った二本の矢、しかも師範の前で、一本をおろそかにしようと思うであろうか。怠けようとする気持ちは、自分自身は気付かなくとも、師範にはそれがよく分かる。この教訓は、あらゆる事柄に通ずるはずである。
上記すべて『新版徒然草 兼好法師、小川剛生訳注 角川ソフィア文庫』より引用

歴史的な背景をわからずに読んだが、皮肉やユーモアなんだろうなと思うことや、どうしてこんなことが書いてあるのだろうという内容もあって、時代背景、兼好法師のおかれた立場、登場人物や寺社との関係などを知って読むと、もっと楽しめるのだろう。また、噂話や知ったかぶりの愚かさ、年配者のふるまいかた、果てはキラキラネームの無益なことまで書かれていて、700年も前から今と変わらないのだなと興味深かった。


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