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『暗殺刀』肥前忠広の物語~かなり牽強付会
奈良・平安オタクの幕末にわかが、にわかなりに学んでいるという記録です。
点を見つけて勝手に他の点との線を結びたがるクセがあるようです。
奇兵隊隊士と『閔妃暗殺事件』
Xの歴史関係の方をフォローしていると、時折『推し人物』のプレゼンが流れてきます。
先日もその一環として三浦梧楼のイラストプレゼンを拝見しました。
名前かっこいいな……と思いつつ添えられた文章を読んだところ、『萩出身で奇兵隊に加わり、維新後は陸軍で活躍して李氏朝鮮王妃・閔妃暗殺の首謀者になった』とのこと。
閔妃知ってる! 浅田次郎先生が書いてた! と反射的に思ったものの、浅田先生の方は清の珍妃でした……これだから未読は。
閔妃暗殺事件についてうっすら調べると、舅の興宣大院君との対立による朝鮮国内の不和や、閔妃サイドが日本の支援下にあった活動家・金玉均を暗殺したことへの日本側の報復など、様々な思惑が絡んだ結果起こったものとのことです。
まだまだ知らないことばっかり……向上心を持とう……。
暗殺に使われた『肥前刀』
と思っていたら、意外な記述を発見。
閔妃暗殺に用いられたとされる『肥前刀』が、福岡の櫛田神社に祀られていると言うのです。
それをよしとしない韓国の『肥前刀還収委員会』という団体が、『肥前刀』を引き渡すよう運動を起こしているようです。
刀匠・肥前忠吉の襲名ルール
ここで『肥前刀』と呼ばれているのは、佐賀藩で活躍していた刀匠の名跡・肥前忠吉、あるいは忠広の打った刀であると思われます。
この名跡を継ぐ刀匠ははじめ忠広を名乗り、先代の忠吉が亡くなってから忠吉の名を襲名したようです(例外は、終生忠広を名乗り続けた2代目)。
近代に入ってからは、忠吉あるいは忠広の打った刀を総じて『肥前刀』と呼ぶようになりました。
『刀剣乱舞』では肥前忠広くんを推しているのに、今まで学ぼうとしていなかった……ダメなオタク……。
頑張って勉強します。
『人斬り以蔵』の肥前忠広
『肥前忠広』を持っていたとして有名な人物が、土佐勤王党に属して『人斬り以蔵』と呼ばれていた岡田以蔵です。
以蔵と肥前忠広には、いくつもの逸話があります。
・忠広はもともと坂本龍馬の家の家宝で、龍馬が脱藩する際に蔵から持ち出した。
・龍馬は京へ着くまでの間、忠広の豪華な装飾を路銀に替えた。
・上洛後、忠広はいつの間にか以蔵の手に渡った。
・本間精一郎の暗殺の際に忠広の切っ先が折れ、脇差に研ぎ直された。
・脇差の忠広を用いて、以蔵は『天誅』と称する暗殺を繰り返した。
などの話が知られています。
史実のバイアスとフィクションのロマン
これらの逸話は、幕末当時の一次史料には記載されていません。
明治維新後に、宮内大臣として知られる田中光顕を中心としてまとめられた『維新土佐勤王史』や、五十嵐幾之助の回顧談など、元・土佐勤王党党員の記録に残されています。
彼ら元党員の証言を見る時、党首の武市半平太や龍馬を敬い、『天誅』で党の名を汚した上に拷問による自白で党の壊滅を招いた以蔵を疎んじていた、ということを念頭に入れる必要はあるでしょう。
物語を楽しむ後世の歴史ファンには、「『維新の英雄・龍馬』の刀が『人斬り以蔵』に渡って、『志のない天誅』に用いられた」というストーリーに美しさやロマンを感じる人も多いです。
よくフィクションで龍馬と以蔵が友人になっているのも、考え方や行動の違い、また運命の落差が作劇上魅力的に映るから、という面が大いにあります。
(龍馬と以蔵が友人で『あった』史料も、『なかった』史料も、現在はまだ見つかっていません)
以蔵の佩刀・肥前忠広の行方
五十嵐の回顧談には、「以蔵の肥前忠広は、一時期靖国神社の遊就館に保存されていた」とあります。
以蔵は土佐勤王党を脱走して京の商家から押し借りを働き、無宿人として捕縛されて土佐に護送されました。
勤王党員が粛清された時も、武市は武士として切腹、他の党員も罪の軽重により裁かれましたが、以蔵は無宿人の身分のまま斬首されました。
明治維新後も、靖国神社や高知縣護国神社へ合祀される勤王党員から外される、という憂き目に遭っています。
なお、護国神社には1983年に合祀され、2019年に境内の顕彰碑・『南海忠烈碑』に名を刻まれました。
(以蔵の名が彫られていなかった頃の碑の写真。左下に注目)
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実際の碑に触れると、彫られた字の鮮やかさだけでなく彫り口の鋭さも顕著で、「今まで正当に扱われていなかったんだなぁ……」としみじみつらくなりました。
遠い将来、碑が雨風にさらされて、字の色などに他のメンバーとの違いがなくなるところを見てみたいですね……。
ともあれ、祀られてもいない人物の佩刀が遊就館に置かれていた、というのも不思議な話ではあります。
その後の忠広は長年行方不明とされてきましたが、現在、高知市立龍馬の生まれたまち記念館に『伝・肥前忠広』という刀の一部が収蔵されています。
とはいえ、銘も残っていない部位なので、館としては慎重に扱っているとのことです。
つい感じてしまう『暗殺刀』の因縁
閔妃暗殺には佐賀の隣の福岡に拠点のあった右翼政治団体・玄洋社が関与しています。
玄洋社は金玉均が日本に亡命した際に保護していて、櫛田神社へ『肥前刀』を奉納したのも玄洋社の藤勝顕です。
また、土佐の住人が立地的に肥前の刀を求めやすかったであろうことは容易に想像できます。
そもそも、『坂本家に肥前忠広があった』ことも『以蔵が肥前忠広を持っていた』ことも一次史料にはありません。
手に入れやすさ、また銘刀として知られていたことを考えると、二振りの肥前刀にことさらの繋がりを求めるのは軽率ではあります。
それでも、
「『暗殺』かぁ……」
と、何か二振りの間に運命のゆかりがあるようには思ってしまいます。
『刀剣乱舞』の刀剣男士は刀自身や元の持ち主のミームから姿かたちをふくらませてデザインされています。
肥前忠広くんはほぼ全身が『人斬り以蔵』ミームでできているのですが、密かに『閔妃暗殺』ミームも加わっていたらロマンがあるな……と一瞬思いました。
ですが、やっぱり肥前くんの厄介オタクとしては、余計なものを背負わないでおいしいごはんを食べて適温のお風呂に入ってあったかくして寝てほしいです……。
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好きなことをより知るために
私がフィクションの岡田以蔵を好きになったのは22年2月のことなので、まだまだ史実の勉強は手探りのままです。
幕末という時代は十数年という短い間に数多くの人物が現れ、それぞれ思惑を持って活動しました。
結果、志士たちは日本という国をひとつにして明治維新を成し遂げます。
この濃密な時代を学ぶには、個々の志士についてはもちろん、水戸学などの思想的バックボーンも知る必要があります。
生き残った志士が明治以降どんな活躍をしたのかを念頭に入れることも、理解を深めるには重要です。
勉強することが本当に大変めちゃくちゃ多いのですが、同時にやりがいも感じます。
奈良や平安の、悪霊が跋扈する時代も大好きなのですが、新しい趣味も少しずつ覚えたいです。
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