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【光る君へ】公任と実資は従兄弟だった!小野宮流衰亡記(前編)

 タイトルに『光る君へ』と書いてあるこのnoteをお読みの方は、大河ドラマ視聴者が多いでしょう。
 平安オタク以外には『ドキッ! 藤原だらけの陰謀大会』状態だったドラマも十話を越え、視聴者も各キャラの顔と名前と役柄が一致してきた頃かと思います。

 その中で、順当に光っている君・藤原公任きんとうと、と黒光りして異彩を放つ君・藤原実資さねすけを真っ先に覚えた人も少なくないのではないでしょうか。
 町田啓太さんとロバート秋山竜次さんという顔の大きさから違う二人ですが、実は従兄弟同士なのをご存知でしたか?
 二人は本来の藤原氏の嫡流ちゃくりゅう小野宮おののみや流の公達きんだちなのです。

 小野宮流は血筋も申し分なく文学の素養に満ちた一族でしたが、不運が重なり道長の九条流の後塵を拝することになってしまいます。
(正確には『小野宮流』『九条流』というのは宮中での行事やしきたり(有職故実ゆうそくこじつ)の流儀なのですが、本稿では枝分かれした家系の意味で使っています)

 どうしてそんな結果になってしまったのか、知っていればより『光る君へ』を楽しめるかと思います。

小野宮流系図

『光る君へ』が始まるまで

①初代:実頼(900-970)~藤原家・皇族・菅原家のサラブレッド

 小野宮流の祖・藤原実頼さねよりは、忠平ただひらと源順子じゅんしの間に生まれました。
 順子は天皇と菅原家の女性の間に生まれた皇女で『菅原の君』と呼ばれ、臣籍降嫁しんせきこうかして忠平の嫡妻ちゃくさいになりました。
 順子には残された資料が乏しく、父が宇多天皇か光孝天皇か、母が菅原道真の娘か妹かというのははっきりわかっていないのですが、実頼は皇族と菅原氏の血を引いています。
 孫の公任や実資が文化的活躍をするのは、祖先からの遺伝かもしれません。

 実頼は母方の血統も申し分ないサラブレッドとして生まれました。
 ですが、この時代で権力を掴むには、娘を天皇の後宮に入内じゅだいさせて、生まれた次の天皇の祖父(外戚)にならなければいけません。
 母の身分が違う異母弟・師輔もろすけらと争うように、実頼は娘を後宮に入内じゅだいさせて将来皇位を継ぐ皇子を生ませようとします。

 しかし、結論から言うと実頼の娘は皇子を生むことができませんでした。
 対照的に、師輔の娘・安子あんしは冷泉天皇と円融天皇を生みます。

 本来嫡流であった小野宮流は、後に道長へ繋がる師輔の家・九条流に一歩遅れを取ることになりました。

②二代目・頼忠(924-989)~従兄弟の喧嘩に巻き込まれました

『光る君へ』では橋爪淳さんが演じる頼忠よりただは、声の小ささが印象的でした。この役作りも決して根拠のないものではありません。
 頼忠もやはり小野宮流に栄光をもたらすことができませんでした。

 頼忠もまた円融・花山の両天皇に娘を入内させますが、皇子に恵まれませんでした。
 ですが、頼忠は関白になります。
 これは外戚になったからでも、ましてや政治力を評価されたからでもありません。
 九条流の師輔の息子(頼忠のいとこ)・兼通かねみちと兼家の争いに巻き込まれたせいでした。

 兼通と兼家は同母兄弟でしたが、大変に不仲でした。
 後世の我々は『異母兄弟は仲が悪く、同母兄弟は協力し合う』という理解をしますが、実際は母親の身分でランク分けされる異母兄弟だけでなく、地位にそこまでの差のない同母兄弟が子孫の栄達を巡って戦うことが多くありました。
 懐かしいアスキーアートコピペの『戦いは同じレベルの者同士でしか発生しない!!』というやつです。

 兼通はどうしても関白の座を兼家に譲りたくなく、危篤の身を押して参内さんだいして最期の除目じもく(人事異動)を行い、血筋はいいけれど外戚ではなく己に都合のいい頼忠を関白にしました。

 関白になっても、頼忠は円融・花山と親戚関係の薄い天皇たちとの関係に苦慮することになります。それは声も小さくなりますよね。

 一方、兄・兼通の死で自由になった兼家は権謀術数を働かせて花山天皇から外孫がいそんの一条天皇へと天皇をすげ替えます。
 摂政になった兼家から名誉職の太政大臣だいじょうだいじんに祭り上げられた頼忠は、地位とは裏腹の敗北感にまみれて引退したに違いありません。

 兼通と兼家の仲の悪さについては、兼通の息子・顕光あきみつの一生を紹介する中でも触れたので、ご興味のある方はこちらもご覧ください。

『光る君へ』には出てこない実頼と、もう亡くなってしまった頼忠の話で、小野宮流のバックボーンが少しご理解いただけたかと存じます。
 次は、孫世代の公任と実資について詳しくご紹介いたします。

 この辺から『光る君へ』のネタバレになります。
 史実をご存知ない方はご注意ください。

③三代目・公任(966-1041))~才能は徒花のように

 三人目に紹介するのは、まさしく『光る君』というたたずまいの公任です。
『光る君へ』で公任を演じる町田啓太さんの顔面が液晶画面から美の暴力を振るってきて、毎週「顔がいい……」と言っています。
 しかしそんな公任は、小野宮流が嫡流であったことすら手放してしまいます。

生まれの尊さと文学の才能

 公任は頼忠と醍醐天皇の孫・厳子がんし女王の間に生まれました。
 兼家の息子・道長と同い年で、道隆・道兼を含めた三兄弟とは政治的ライバルでしたが、三兄弟の母は中下級貴族である受領ずりょうの娘で、身分は話にならないほど違います。
 幼い頃から「自分こそが藤原氏の嫡流である」という意識を強く持っていたことでしょう。

 同時に公任は祖先譲りの才能を持っていました。
 学識深く、『和漢朗詠集』という古今東西の和歌や漢詩を集めたアンソロジーを編んでいます。
 もちろん、詠む方も巧みでした。
『大鏡』によると、ある時道長が大堰おおい川で船遊びをした際、三隻の船に和歌・漢詩・管弦の巧みな者を分乗させました。
 この際道長は公任に「どの船に乗る?」と聞きました。公任は三つの才のいずれもに恵まれていたので、選ばれる側ではなくどの船に乗るか自ら選ぶ側だったのです。
 後世で『三舟さんしゅうの才』と呼ばれた逸話です。
 和歌の船に乗った公任は、

 小倉山嵐の風の寒ければ 紅葉の錦着ぬ人ぞなき
(小倉山や嵐山から吹きつける風が寒いので、みな紅葉が散りかかって紅の錦の着物を着ているように見えるよ)

 という和歌をうたって大変評判になりました。
『光る君へ』の漢詩の会でも、F4の他の3人(道長・斉信ただのぶ行成ゆきなり)が白居易の作品を引用していたのに公任だけは自作の詩を披露していましたね。

プライドが高すぎて舌禍

 家柄と才能の両方に恵まれていた公任は、しかしと言うべきか、だからこそと言うべきか、プライドが高すぎて才に溺れるところがありました。
『今それを言わなくていいのに』ということを言ってしまう舌禍の記録が、いくつか残っています。

 例えば上の『三舟の才』の逸話の際にも、「漢詩の船に乗っていたら同じくらいいい詩を詠んで、もっと評判を集めていたかもしれないなぁ」と言っています。今で言う自虐風自慢です。
 また皇子を生んだ詮子よりも、姉の遵子が先に立后されたことを誇って、詮子の住む東三条殿の前を通りかかった時、
「ここの女御はいつ后になるんでしょうね?」
 と、これ見よがしに言い放ちました。詮子の周りは歯噛みして悔しがったといいます。
 なお、後に詮子は一条天皇の即位に合わせて皇太后になります。
 詮子に侍っていた公任は、詮子の女房から、
「姉の素腹の后(子を生めなかった后)は何をしていますか?」
 と言い返されて、ぐうの音も出ませんでした。
 優位だと思うと人は好きなことを言ってしまいがちですが、そういう時こそ抑制した方がいいですよね。

サラブレッドの挫折

 嫡流の誇りを持っていた公任でしたが、叔母や姉妹に皇子が生まれないのはどうしようもありません。
 道長たち三兄弟は伯母も姉妹も天皇を生み、道隆は一条天皇の後宮に娘の定子ていしを入れます。
 格下だと思っていた道長だけではなく、道隆の嫡男の伊周にまで官位を抜かされ、公任の苛立ちは募っていたことでしょう。
『光る君へ』では頼忠の遺訓として道兼に接触するよう言われていましたが、史実でも二人は道隆への反感のために近づき、公任は道兼の養女(村上天皇の孫)と結婚しました。
 しかし道隆の死後、関白を継いだ道兼は『七日関白』と呼ばれるほど早く(実際は1ヶ月未満)で亡くなったため、人脈を活かすことはできませんでした。

 母だけではなく妻も皇族ということで、公任のエリート意識は更に高まりましたが、入内させるための娘が生まれません。
 道長が二人の妻(倫子りんし明子めいし)との間に六人の娘を儲けていたのとは対照的です。
 初めての娘が生まれたのは1000(長和2)年で、娘が成人する頃にはすでに後宮を道長が独占していて、他の家の娘が新しく入内できる雰囲気ではなくなっていました。

 こうなると公任は権大納言として停滞せざるを得ず、有職故実に通じた実資だけでなく、無能と笑われていた顕光すら追い抜くことができませんでした。
 その後、公任は斉信・行成・源俊賢としかたとともに『一条朝の四納言』と呼ばれます。
 早くに父と祖父を亡くして身寄りのなかった行成や、罪人の子の俊賢にとっては名誉な称号でも、公任にとっては敗北を表す呼び名でした。

子どもたちもまた不遇

 公任の子もなかなかいい逸話がありません。

 嫡男の定頼さだよりは、ある時宮中で小式部内侍こしきぶのないしを、
「お母さんからの手紙は届いていませんか」
 とからかいました。
 当時小式部内侍は若いのに優れた歌詠みだと賞賛されていましたが、母の和泉式部いずみしきぶが和歌を代作をしているという噂もありました。定頼は、「夫に従って丹後国に下っていた母から連絡がなければ和歌のひとつも詠めないだろう」と言っているのです。
 しかし小式部内侍は、

 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立
(丹後国へ向かう、大江山の手前の生野へ行く道も遠いので、まだ天橋立に足を踏み入れていないし、文も届いていません)

 と、即興で詠みました。
 丹後国への道行きを、『行く』と『生野』、『踏み』と『文』という掛詞を用いて詠んだ和歌にはライブ感があり、前もって用意されていた代作ではありえません。
 定頼の侮りを軽妙に打ち返す名歌で、小式部内侍の評判はますます高まりました。
 噛ませ犬となった定頼は何も言い返すことができず、立ち去るしかありませんでした。
 この和歌は百人一首にも収録されていて、定頼の軽率さを未来へ伝えています。
 舌禍癖は遺伝したようです。

 また、入内できなかった公任の娘は、道長と倫子の次男(道長の子としては五男)の教通のりみちと結婚しました。
 娘は14歳から10年の間に7人の子を儲け、24歳で産褥死しました。
 深い愛情を注がれていたのか、『子を生む機械』として扱われていたのか、後世の人間にはうまく判断ができません。
 そこまでして生まれた教通の7人の子のうち、生子せいしは後朱雀天皇に、歓子かんしは後冷泉天皇に入内しましたが、皇子を生むことはできませんでした。
 教通の嫡男の信長は摂関の座を争ううちに駄々をこねて政務をボイコットし、名誉職の太政大臣に祭り上げられる形で失脚しました。
 以後、信長の子孫は公卿を輩出していません。

 公任は残念な結果に終わりましたが、その従兄・実資も別ベクトルで残念さをさらけ出します。
 長くなったので一度区切って、後編で改めて実資の生涯や蛇足をご紹介いたします。


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