【光る君へ】公任と実資は従兄弟だった!小野宮流衰亡記(後編)
才にあふれながら不運で嫡流の座を失った公任に続いては、人間的な振る舞いで子孫に影響を与えた実資の紹介です。
こちらも『光る君へ』のネタバレがありますのでご注意ください。
④公任の従兄・実資(957-1046)~堅物日記おじさん、晩年に跡を濁す
今まで知らない人の方が圧倒的に多かったであろう実資は、『光る君へ』ではロバート秋山さんの顔面と演技で絶大なインパクトを与えています。
『光る君へ』では怪しげな立ち居振る舞いが目立つ実資ですが、実は若い頃から辛辣な日記を残し、政界のご意見番として名を残す大物政治家なのです。
『みんな藤原ばっかりでわからない!』と言っている人も、実資は覚えている確率が高いはずです。
実際にXで「道長、道兼、ナントカ……秋山……」と認識している人を見かけました。
鍾愛の孫
実資は実頼の次男・斉敏の四男として生まれ、祖父・実頼の養子となりました。
この時代には蔭位という制度があり、父の官位に応じて息子の官位のスタートラインが決まりました。
父の官位が高いほど子が有利になるので、祖父が孫を養子にすることは珍しくありませんでした。
実頼は実資の才能を見抜いて、たいそう可愛がっていたと言います。
『光る君へ』でも描かれていたように、実資は長く蔵人頭を勤めていました。
蔵人は天皇の命令を公卿たちへ伝達したり、事務を担当したりと、現在で言う秘書的な役割を担う職でした。蔵人頭はそのトップです。
円融天皇から花山天皇に代替わりする際に、本来は蔵人を入れ替えるものなのに有能だからと留め置かれ、一条天皇が即位した時は一度退職させられますが再度蔵人頭に任命されます。
天皇が側に置きたいほど才能が重宝されていたのは確かですが、公卿に出世できないことともイコールなので、ドラマのように愚痴のひとつも言いたくなるでしょう。
『小右記』の意義と虚実
実資の功績といえば、『光る君へ』でも描かれているように日記『小右記』を残したことです。
『小野宮右大臣日記』の略である『小右記』は、宮中の儀礼やしきたりである有職故実から個人の評判、食事の内容など日常のちょっとしたことまでが50年以上に渡り書かれています。
当時の男性の日記は自分のためのものでなく、子孫や周囲に有職故実を伝えるために書かれるものだったので、盛んに書写・回し読みされました。
道長が三人の娘を后にした際に詠んだ『この世をば』の和歌が残っているのも、『小右記』が記録していたからです(道長の日記『御堂関白記』には書き残されていません)。
『小右記』は同時に、藤原道綱へは「自分の名前の漢字しか書けない」、顕光へは「とにかく無能」と、大きな風評被害を与えました。
11世紀の性の常識
ところでまったく話は逸れますが、『小右記』からは、現代の我々の常識とは少し違う価値観もうかがえます。
道長の嫡男・頼通は、父のライバルだった実資を政治の師として慕っていました。実資も悪い気はしていなかったようです。
73歳のある日、実資は頼通と同衾する夢を見ます。
二人は烏帽子を脱いでいて、実資の『玉茎』は木のように硬くなっていました。
『烏帽子を脱ぐ』のが大変にプライベートなことだったというのは、『光る君へ』の視聴者ならご存知だと思います。
『光る君へ』でも実資は案外好色な人物として描かれていますが、みんなが見ることを前提にした日記に性的な事項を残すというのは、ちょっと令和では考えられません。
しかし、源平時代の頼通の子孫・頼長も日記『台記』に赤裸々な男性関係を残しているので、11~12世紀は性的なことをつまびらかに語るのが普通だったのかもしれません。
待望の『かぐや姫』
実資の悩みは、なかなか子ができないことでした。
源惟正の娘(『光る君へ』では桐子)とは986(寛和2)年に死別。その間にできた娘は満5歳で逝去。
その後、花山天皇の女御だった婉子女王(村上天皇の孫)と結婚するものの、子に恵まれません。
『光る君へ』では、実資が桐子を亡くしたと聞いた宣孝からまひろとの縁談を持ち込まれ、「鼻くそのような女」と『小右記』で一蹴したのが描かれましたが、後に後に子を生めることを証明した紫式部を顧みなかったことは残念です。
しかし本人は「高貴な女が好き」(14話)らしいのでしかたないかな…?
兄の子・資平を養子にしたものの、実子をあきらめられなかった実資でしたが、50歳を過ぎてついに念願が叶います。
1011(寛弘8)年頃、娘の千古が生まれました。
その名前には千年生きるようにとの願いが込められています
母は婉子女王の弟・源頼定の乳母の娘。婉子付きの女房(この時代では女性の使用人のこと)で、父の名すら伝わっていません。
子どもの母の身分は大変重要です。
そのことは、道長の妻の中でも成功者の父を持つ倫子の子の方が、(無実の)罪人の父を持つ明子の子よりも重んじられていたことからもわかります。
妻の女房が生んだ娘などは、本来なら軽んじられてもしかたない存在です。
しかし実資にとっては待望のわが子で、何にも増した宝物でした。『かぐや姫』と呼んで可愛がっていたことが『大鏡』にも残っています。
娘を入内させられない現実
上級貴族としては、やはり娘を后にしたいと望みます。自分が亡くなった後のことを考えるとしても、つまらない身分の男とは一緒にさせたくありません。
千古が裳着(女子の成人の儀式)をした1024(万寿元)年の実資は右大臣までに出世していました。
道長が覇権を握るまでなら、右大臣の娘は女御として入内できるのはもちろん、立后すら夢ではありませんでした。
しかし、その頃はもうすっかり時代が変わっていました。
すでに最高権力者の道長が倫子の生んだ女子を四人とも天皇と東宮(敦良親王・後の後朱雀天皇)に入内させた後で、他の家の娘が入内できる隙間はありません。
道長の娘である東宮妃・嬉子を産褥で失った後朱雀天皇が新たに迎えた女御も4人中3人が道長の孫、もう1人も頼通の養女です。
道長と頼通はなんとか実資をなだめすかし、千古を道長の孫である兼頼の妻にさせました。
ここで、実資の愛情が暴走します。
小野宮流の財産や記録の大半を、養子の資平ではなく千古に相続させました。
それらは自然と、夫の兼頼とその子のものになります。
せっかく初代の実頼から受け継いで来たものを、みすみすライバルの九条流に譲り渡すことになりました。
財産を目減りさせた資平の子孫はすっかり衰亡し、やがて公卿も出せなくなります。
後には、摂関を独占する九条流のライバルだったことさえ忘れ去られてしまいました。
遅くにできた子、しかも長年の待望だった子はとても可愛く、現代でも親の人生を狂わせてしまうことがままありますが、『賢人右府』と呼ばれた実資も例外にはなれませんでした。
小野宮流と紫式部
ところで、『光る君へ』で公任はまひろを「地味」「身分が低い」、実資は「鼻くそのような女」と酷評していましたが、その後の小野宮流と紫式部との関わりを見ると結構面白いです。
まず公任は、1005(寛弘2)年頃には『源氏物語』の読者になっていました。
『源氏物語』の熱心なファンだった一条天皇と話を合わせるために読んでいたのでしょうが、頭のいい公任なら紫式部が描いた教養や人の心の機微を感じ取っていてもおかしくありません。
1008(寛弘5)年に、道長の娘・中宮彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を儲けた祝いの宴がありました。
その席で公任は、彰子の女房だった紫式部に、
「ここに若紫はいませんか?」
と語りかけました。紫式部が初めて『紫』の名で呼ばれた例として、『紫式部日記』に残されています。
もっとも紫式部は、「光源氏のような公達がいないのに、どうして若紫がいるだろうか」と冷徹な対応を見せていましたが。
実資は、彰子に用事がある時は女房の『越前守為時の娘』を主な伝言役にしていました。
『光る君へ』で明らかな通り、為時の娘=紫式部ですね。
入内当初の彰子の女房は、主に家柄を重視した人選がなされていました。女房たちは上品でしたが機知に乏しく、全盛期の定子サロンを描いた『枕草子』に触れた貴族たちには物足りないものでした(ここでも、定子を怨霊にしないための清少納言の努力が報われています)。
これでは定子サロンを愛していた一条天皇の心を掴めない、と気づいた道長は紫式部や赤染衛門、和泉式部といった才媛を女房として雇います。
その中でも、実資には真面目な紫式部が一番気安かったのが伺えます。
「二人ともあれだけ酷いことを言っといてどの面で!」と視聴者に思わせるであろう後の展開が、今から楽しみです。
おわりに
まったくの私事なのですが、ここ2年ほどFate/Grand Order(FGO)というゲームの影響で幕末を好きになっています。平安オタクが土佐勤王党や新選組のことを初めて調べて、フムフムと感慨にふける毎日です。
まさか自分が岡田以蔵や武市半平太のことを学ぶ日が来るとは……という驚きを感じています。
長く生きているといろいろあります。
『光る君へ』で頼忠役の橋爪淳さんは『徳川慶喜』で、公任役の町田啓太さんは『青天を衝け』で、それぞれ土方歳三を演じています。
新選組という組織にはファンが多いですが、人々を惹きつける理由のひとつには『滅びの美学』があるかと思います。
肩で風を切って京の都を歩いていた浅葱だんだらの集団が薩長にしてやられて逆賊の汚名をこうむり、仲間を失いながら北へ北へと転戦する様には、盛者必衰の趣があります。
新選組の副長として辣腕を振るい、近藤勇亡き後はリーダーとして残党を率いた土方を演じた役者さんが今回親子役として共演しているのはまったくの偶然でしょうが、運悪く時流に乗れなかった小野宮流の一族にも『滅び』の切なさが詰まっているように感じてしまいます。
もっとも、百姓の身分からスタートして函館政府で『陸軍奉行並』の称号を得るに至った土方なら、嫡流の座をみすみす手放して滑り落ちてしまった小野宮流の貴族たちを甘いと断じるかもしれません。
まったくの脱線でしたが、長い大河ドラマの歴史を紐解けばそんなメタ的な楽しみ方もできます。
史実としての平安時代も、ドラマとしての『光る君へ』も、知れば知るほど楽しみを得られるのには間違いありません。
まずはドラマで気になった人物の周りから少し調べてみるのも、つらい日常の中の潤いになるかと思います。
参考文献
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