バウムクーヘンのような人生

人の誕生日がなかなか覚えられない質である。

仕事相手などからサラッと聞いた誕生日などは覚えている。なぜならそれによってほんの少しでも仕事が少しでも円滑に進めば、という損得勘定が働くからである。

家族や親しい親戚の誕生日をようやく覚えたのもほんの2、3年前の話であるし、数年来の友人の誕生日も時折間違える。いつも大変申し訳ないと思っている。

では自分の誕生日はというと、これは忘れたことは無い。

誰かに祝って欲しいから覚えているとかそういう訳ではなく、日付を超えて誕生日を迎えた時、自分という木の幹の年輪が1つ増えることがなんだか不思議だなという感覚を毎年味わうためである。

果たして誕生日前日の23:59の私と、誕生日を迎えた00:01の私は何が変わったのだろうと、毎年考えている。

その次に、去年の誕生日を迎えた時の私と、今年の誕生日を迎えた私の何が変わったのかを、考える。

私も、これを読んでいるあなたも、政治家も、ホームレスも、男も、女も、生まれながらにして平等なのは時間の進み方だけである。

それ以外に平等なものは何一つないと思っている。

生まれた環境、容姿、能力、どれをとっても時間の進み方以外に平等なものなど無い。

殆ど全ての物事が不平等な中で、それを覆せるのも、逆に落魄れるのも、皮肉なことにたった一つ、時間の使い方の結果でしかないのだ。

何年か前に楽器を習っていた時に言われて、大変納得した言葉がある。

「野球の天才に野球を1時間習っても劇的に上手くなることは無い、上手くなるとしたらその後自分が時間をかけて練習するかどうか」

こんな感じだった気がする。

今思えば私の価値観はこの時形成されたのだった。

来年はどんな女になっているのか、今年もきっとソワソワしながら誕生日を迎えることになると思う。

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