【モチーフとしてのジェンダー論】コロナ禍で浮き上がったもの「非等価性」

10分のムービーから見て感じた事を結論から云えば、生命体としての人間は「自立」する事ができないので、今まで見えてこなかった、「誰か」や「仕組み」や「環境」や「自然」など、諸々によって「ケア」されてきたのだという事。その見えない(もしくはみようとしてこなかった)存在について、自らや見えている何かとの関係について、改めて「等価性」を回復しうるのか?という事ではないか。それは経済概念でかたずけられないのだろう。


それを、特に大航海時代、産業革命、日本で云えば明治以降、明らかにその辺りの社会のコモンセンスの下地にある価値観のバランスが偏っている事に異議を持つ人がいてもおかしくはないだろう。と思うのだ。というかそうなるべきでもある。


まずは、「価値」とその基準のようなものから見直して再構成する機会が「コロナ禍」だったのではなかろうか?「非等価性」を内部的に人類は持っているのはこのムービーでもよく理解できることだと感じる。


ようやく、ヒントのちょっといい感じのものを捉えたかもしれない。等価性の表現は、写真では「ベッヒャーシューレ」の得意技のような感じもするが、それも踏まえて次の一歩に役立てたい。

そのような「仕事」とは、自分の為でもあるが、それ以上に社会の未来に寄与するべきだと考えている。