探偵助手依存症・ロミオの誤算

霧雨52号
テーマ「依存」
作者:槌野こるり
分類:テーマ作品

 卒業の日、あの人は「クジラが唄い、謎が満ちたらまた会おう」と私に告げた。
 昨日、クジラが大口を開けた。
 そして今、私の目の前には遺体が転がっている。
 川の途中の少し幅が広くなった、「池」と呼ばれている場所。水がほとんど無く短い草が目立つ浅瀬で、男の人と女の人が倒れている。女の人は男の人の半袖シャツの腰を掴み、男の人は女の人の頭に手を回している。シャツの袖から剥き出しになった男の人の腕には、擦れたような痕が幾筋か残っていた。女の人の綺麗にネイルが施された指先は泥で汚れ、酷く傷が付いている。その姿勢は何処か抱き合っているようにも見えた。二人とも全身ずぶ濡れで、足元は未だ濁った水中に隠れている。
 カシャン。
 三分前に買って二分前に飲み干したミネラルウォーターのペットボトルが私の左手を離れ、雑草が生い茂る湿った地面に落ちた。その音が私を現実に引き戻す。
 まずするべきは――。
 私は地面に屈みこんで、パーカーのポケットに手を突っ込む。そしてその中をまさぐる。目的のものはすぐに見つかった。
「もしもし、警察ですか。あの、人が倒れていて――」
 善良な市民の義務として、警察への通報だろう。
 
***
 
 風が吹いて、舞い落ちた桜の花びらが私の前を横切った。
 前髪に乗った花弁を取ろうとする間にも横から腕が伸びてきて、どこかのサークルのチラシが差し出される。肩から下げた黒いトートバッグにちらりと目をやると、集まったチラシがバッグの中身を埋め尽くすほどに増殖していた。新しいチラシが入る余地はなさそうだ。
 軽く会釈してその場を去っても、喧騒は止まない。新歓の時期だからか、大学全体がピンクや黄色やらの甘く浮ついた空気で覆われているような感じがする。
 その空気感にうんざりしつつ、ふと晴れた空を見上げると、クジラもこの春の陽気に中てられたのか、口を閉じたまま幸せそうな表情を浮かべていた。
 その様子を見て、新入生たちが一斉に歓声を上げる。
「あ、すごーい! 本当に空にクジラが浮かんでる」
「やば、こんなの初めて見た!」
「あれって本物? 何でクジラ?」
 無邪気にクジラを見て喜んでいるのは、きっと他の街からの新入生だろう。スマホを取り出して何とか写真に収めようとしている。だがそもそもクジラは写真に収められるような代物ではないのかもしれない。SNSで「空に浮かぶクジラ」がバズって水都(すいと)に人が押し寄せたなんて話、私は聞いたことがない。案の定、スマホをポケットに戻す顔は皆無念そうだった。
 その光景を何処か冷めた目で見ているのは、私と同じように、ここ水都で生まれ育った人たちだ。私たちにとって、クジラが空に浮かんでいるのは当たり前で、別に不思議でも何ともない。ただ気が付いたらそうだった、というだけのこと。だからなぜクジラなのか、なぜ水都なのか、なんてことは誰も知らないし気にも留めない。
 それにきっと、それを知る権利があるのはただ一人、あの人だけなのだろうから。
「てかさ、なんであのクジラは口閉じてるの?」
 一人の言葉に、おそらく水都出身であろう者たちは、皆息を呑んだ。誰も何も言わない。私も含めてだ。あのことを軽々しく口にするのは憚られた。あんな事件からまだ二週間しか経っていないのだから、余計に。
 そのときだった。まるでこの話を聞いていたかのように、周囲の空気が変わる。
 来た。来てしまった。
 浮ついた喧騒も、パステルカラーの甘い雰囲気も、全てを掻き消すかのように強い風が吹いて――。
「――――――」
 クジラが唄った。「誰にも聞こえない」声で。
「クジラが『誰にも聞こえない』声で唄うと人が死ぬ――」
 どこからともなく、そんな呟きが聞こえた。
 
 未だざわめきの止まない人ごみを離れ、私は腕時計を確かめる。現在時刻は午前十時四十五分。そろそろカフェテリアが開く時間だ。お昼どきのカフェテリアの込み具合は尋常ではない。昼食には少し早いが、朝は軽めだったし丁度良い頃だろう。何よりずっとここにいると、あの異様な雰囲気に酔ってしまいそうだった。
 先程は突然のことで動揺したが、考えてみるとあれは、水都に初めて来た人たちへのクジラなりのサービスなのかもしれない。そういえば昨年もこのくらいの時期にクジラが大口を開けて、皆何事かと騒いでいたのだが、結局特段変わったことは起きなかった。「実はただあくびしているだけ」のときもあるのだとあの人は言っていたから、あのクジラは存外適当なのだろう。それに、まだ謎は満ちていない。今のところは神経質になりすぎる必要もない、と結論付けて、私はカフェテリアに向かった。
 途中見つけた自販機でミネラルウォーターを二本買う。あまり買いすぎるとチラシで埋まったトートバッグには入りきらない。本当はあと一本欲しかったが仕方がない。
 二限目の時間帯だからか、カフェテリアは入学式の日の込み具合が嘘のように空いていた。私は窓際の眺めの良い席を選んで座る。四人掛けの席を独り占めだ。大きな窓から差し込むうららかな春の日差しが心地よい。
 しかし日差しが当たる場所の所為で、その分普段よりも水を飲まないといけないことに気が付いた。しかもこの前見ていたドラマの影響で「あつあつふわとろオムライス」なるものを頼んでしまったので、先程買ったミネラルウォーターは二本とも、あっという間に空になった。こんなことなら、チラシが潰れてももう一本買っておくべきだった。ため息を吐いて、水を追加しようと私が席を立とうとしたときだった。
 スーツを折り目正しく着こなした背の高い男の人が、私の席の前で立ち止まった。その懐から手帳を取り出して、それを事務的に見せながら言う。
「雫沢雫さん、だね? 少しお話を伺いたいのですが――」
 私に声を掛けてきたのは、水都の警察署の刑事さんだった。確か名前は抜ノ目――抜ノ目伊佐(ぬくのめ いさ)さん、だったか。何度も遭遇した所為で、この珍しい名字にも慣れてきた。おそらくまたあの男女の遺体の件だろう。こう何度も同じことを聞きに来られると、さすがに少し嫌になってくる。この人はどうやら私の生活パターンを把握しているようで、行く先々に出没しては事情聴取を繰り返していた。あまりにも会っているから、もはや顔見知りと言えるレベルだ。
「お友達と一緒の方が良かったかな」と尋ねた抜ノ目刑事に、私は首を横に振る。元々所属する学部に女子が少ないというのもあるのだが、学籍番号の関係で新入生ガイダンスの前後左右全て男子という悲劇に見舞われた所為で、私には未だに友達と呼べるような存在は出来ていないのだ。だがそれよりも。
「どうしたの?」
 私の視線が空になったペットボトルに注がれているのを気にしてか、抜ノ目刑事が声を掛けてくる。鼓動が早まり、口内に唾が溢れていくのを感じながら、私はやっとのことで「水を取ってきていいですか」と口にした。
 
 水依存症。四六時中水を口にしていないと禁断症状が出てくる。本来あまり飲みすぎると血液が希釈されてしまうため、できるだけ常識的な範囲内に収まるようには努力している。けれども近くに自販機や水道がないと、水を求めてときには川や運河、水路の水を飲んでしまうこともある――。
 そう説明すると、抜ノ目刑事は驚きつつも一応は納得したようだった。「なるほど」と呟いて忙しなく額の汗をハンカチで拭いている。
「川や運河、水路と言っても――」
 おそらく引かれたであろうことを気にして、私は慌てて言い添える。
「水都は水が綺麗で、それに豊富にありますから」
「ああ、まあ確かに。水都くらい水が溢れていたら、そこまで気にすることはないだろうからね」
 そこで会話が途切れた。私はあまり人付き合いが器用な方ではないし、抜ノ目刑事もこれ以上何をコメントすればいいのか戸惑っているようだ。しばしの沈黙のあと、わざとらしい咳ばらいをして抜ノ目刑事が切り出した。
「何度もお聞きして悪いんだけど、ご遺体を見つけたときのことを教えてくれないかな? 最初から」
 口調こそ丁寧だが、その瞳にはこちらを射抜くような鋭さがある。有無を言わせない雰囲気だ。私は水がなみなみと入ったコップを目にしながら、大人しく二週間前のことを話し始めた。
 
 ――二週間前
 早朝五時、私はいつものように家を出た。母も貴詞さんもまだ寝ている時間帯だが、鍵とスマホは持って出ているから心配はない。物音を立てないように静かに玄関のドアを閉め、家の近くの川に向かう。
 私は水都の出身だ。幼稚園、中学校、高校、そしてこの前入学した大学、と全て水都。一度くらい外の世界は見てみたいと思いつつも、なかなかどうして水都からは離れられない。それは水都で生まれ育った者は皆、多かれ少なかれ感じていることだろう。
 パステルカラーで塗られた住宅、街中に張り巡らされた水路や運河、そして空に浮かぶ巨大なクジラ。
 この街は「スコシ・フシギ」で、だからこそ他の街は色褪せて見える。住宅の奇妙な色味は私が生まれた頃に就任した首長の趣味で、それ以前はもう少し古びた街だったらしい。今でもその人の後継者が首長をやっているから、細い路地に並ぶ量産型の住宅は、ときどき塗り替えられながらもずっとこの、瓦屋根には似合わないおとぎ話のような色味を保っていた。
 その首長のもう一つの功績は、大規模な健康プロジェクトを進めたことだとよく言われる。そのおかげで住民は健康づくりに親しむこととなり、患者が来ないと商売にならないと病院から苦情が来た、なんて話もあった。私がこうして朝早く起きて河川敷を歩く日課なのも、学校でやってきた活動のことが頭に残っている所為だ。早朝なのは単に私の趣味だが、母も貴詞さんもずっと水都の人だから、休日には二人でテニスコートに行ったりマラソンをしたりと精力的に活動していて、年を感じさせない程若々しい。
 貴詞さんというのは編集者の母の再婚相手で、実の父は私が小学生のときに亡くなった。「雫沢雫」というこの奇妙な名前も、貴詞さんの名字が雫沢だったからだ。貴詞さんは朗らかで優しく、昔気質で寡黙だった父とは全く違う。背は高いが細身で色白だし、作家という内向的な職業も相まって、全般的にどこか頼りない印象を受ける。年も母より十も若い所為で、よく私とは年の離れた兄妹に間違われた。だから母が再婚してから五年ほどになるが、未だに私は貴詞さんを「お父さん」と呼んだことがない。
 夜明け前の暗い道を五分ほど歩くと、川に辿り着く。小学校はこの近所で、私たちの世代は授業の一環で川の環境を整えたことがあるほど身近な場所だ。昔はそこら中をホタルが飛び交うほど綺麗な川だったが、今では何とか水中の様子がわかるという程度になってしまった。綺麗かと言われると微妙だが、顔を背けたくなるほど汚くもない。場所によっては藻や水草が増えすぎて、小さな子供は遊べないと言われることもある。だが私が生まれる前には、水都は水が豊富な割に環境が整っておらず、この川の水質汚濁ももっと酷かったらしい。その所為かは不明だが、原因不明の体調不良が大流行し、健康増進を掲げた首長が誕生したのはそれがきっかけだ、と聞いたことがあった。
 四月でも朝五時だとさすがに暗い。犬の散歩をしている人もいなかった。河川敷を一人でとぼとぼと歩き、同じようにぽつんと佇んでいる自販機でミネラルウォーターを買う。それを片手に持って飲みながら進む。
 川沿いの景色は特に代わり映えしない、ごくありふれたものだ。けれども幼い頃からよく来ていた所為か、川にいるとどことなく安心する。もしも世界が滅びても、この川がある限り私はちゃんと生きられると思えるからかもしれない。街中の運河や水路の周りにも休日は多くの人が集まるから、水都の人は水が好きな人が多いのだろう。若しくは生まれたときから身近に水があるから、好きになるのかもしれない。
 そんなことを考えながら歩いていると、蓋を開けてから一分ほどでペットボトルの水が尽きた。先程ミネラルウォーターを買った自販機はそれなりの距離があるが、その次の自販機の方がもっと遠い。一旦先程の自販機にまで戻ろうかと足を動かしかけた、そのときだった。
 視界の端に妙なものが映った。
 ここら辺の人たちは皆、川の途中で幅が少し広くなった場所を「池」と呼んでいる。池の周りは特に木々が生い茂っていて見通しが悪く、変質者が出たという話もあるから、普段はほとんど人が来ない。
 その池の辺りに何かがあった。木々の合間からしか見えない所為で大体の輪郭しかわからないが、少なくとも二メートルはあろうかという大きさだ。
 流木だろうか? それとも何かの動物だろうか? 私は好奇心につられて池に近寄った。普段なら、早朝に女子大生が一人で池に近づくなんて、危険すぎて絶対にしない。そもそも池の辺りは足場が悪く、昔あった事故の教訓を説いた、謎の悲恋話が語られているくらいだ。けれども私は衝動を抑えられなかった。ネッシー的な何かだったら大発見だな、なんて期待をしていた所為もあった。そしてその直後、私は数十秒前の自分の行動を猛烈に後悔する羽目になる。
 悲鳴が出なかったのが我ながら不思議なくらいだ。
 木々の合間から顔を出すと、私の目の前には遺体が転がっていた。
 水がほとんど無く短い草が目立つ浅瀬に、男の人と女の人が倒れている。女の人は男の人の半袖シャツの腰を掴み、男の人は女の人の頭に手を回している。シャツの袖から?き出しになった男の人の腕には、擦れたような痕が幾筋か残っていた。女の人の綺麗にネイルが施された指先は泥で汚れ、酷く傷が付いている。その姿勢は何処か抱き合っているようにも見えた。二人とも全身ずぶ濡れで、足元は未だ濁った水中に隠れている。
 カシャン。
 三分前に買って二分前に飲み干したミネラルウォーターのペットボトルが私の左手を離れ、雑草が生い茂る湿った地面に落ちた。その音が私を現実に引き戻す。
 まずするべきは――。
 私は地面に屈みこんで、パーカーのポケットに手を突っ込む。そしてその中をまさぐる。目的のものはすぐに見つかった。
「もしもし、警察ですか。あの、人が倒れていて――」
 善良な市民の義務として、警察への通報だろう。
 
 そこから先の出来事は、推理小説や刑事ドラマなんかでもよくある通りだ。私は警察署まで連れて行かれ、遺体の第一発見者として事情を聴かれた。そのついでに若い女性が早朝に一人であんな場所にいたことを咎められた。それから心配した貴詞さんが警察署まで車で迎えに来て、ゴシップ好きの母は興奮して私に様々な質問をしてきた。
 そして今、数える気も無くすほど繰り返した話を、私は抜ノ目刑事を前にまた語っている。
 
 「――こんな感じです」
 語り終えた私に、抜ノ目刑事が小さく頷く。
「他に何か覚えていることはない?」
 優しいが鋭い声が問いかけた。私は黙って首を横に振る。何度問われても、私が覚えていることはこれで全部だ。
「そうか、ありがとう。……また話を聞きに来るかもしれないから、そのときはよろしく」
「待ってください」
 少し残念そうな口調で礼を言って抜ノ目刑事が立ち去ろうとするのを、私は引き留めた。怪訝そうな顔をしながらも椅子に戻った抜ノ目刑事と目を合わせて言う。
「事件のこと、教えていただけませんか」
 抜ノ目刑事は少しの間逡巡しているようだったが、やがて低い声で告げた。
「そういえば、伝えていなかったね。被害者の御遺族たちの了承が得られずに、事件のことや被害者たちのことは伏せていたんだが……、君は第一発見者ということだし、特別に教えようと思う」
 それから人差し指を唇に当てて、シーというジェスチャーをする。誰にも言うな、ということらしい。私は黙って首を縦に振る。それを見てひとつ頷いた抜ノ目刑事が、懐から手帳を取り出して広げる。
 ――あれ、なんだろう。
 私はふと、その首元に何かが下げられていることに気が付いた。あれは、御守り袋か? 角度の所為で見づらいが、ペンダントよりは大きそうなことは確かだ。危険な職業だし、御守りくらい身に付けていても不思議ではない。家族か誰かからのプレゼントだろうか。
 そんな視線を知ってか知らずか、抜ノ目刑事は声を潜めて話し始めようとする。
「じゃあまず――」
「あれ伊佐叔父じゃん」
 何やってんのこんなところで、と抜ノ目刑事に気さくに話しかける少女の姿には見覚えがあるが、肝心の名前が出てこない。ピンクブラウンに染めたボブヘアにストリート系のファッションはガイダンスの際に見かけたのだが、確か――。
「わたし抜ノ目円(ぬくのめ まど)。伊佐叔父はわたしの母の弟。それでええと確か……雫沢さん、だっけ。 どうして伊佐叔父と一緒にいるの?」
「え、ええと……」
 突然陽キャな円さんに話し掛けられて、しばらく人と話していなかった口が回らない。私がまごまごしていると、抜ノ目刑事が助け舟を出してくれた。
「雫沢さんは例の事件の第一発見者なんだよ。――その概要を雫沢さんに話そうとしてたところなんだけど、円ちゃんも聞いていくかい?」
 「うん」と嬉しそうに言って、円さんが私の隣に座る。ふわりと揺れた髪から良い香りがして、少し戸惑う。ちらりと見えた可愛らしい顔にはしっかりメイクが施されていて、大学生ってこんなものなのか、と少し憂鬱になった。着古した古いパーカーに申し訳程度の日焼け止めを塗った私とは天と地ほども違いがある。
「じゃ、話してよ伊佐叔父。話せることなら、何でもね」
「了解」
 居住まいを正した抜ノ目刑事が気さくな笑顔を浮かべる。円さん相手だと、身内相手だからか声が随分と優しい。まるで別人を見ているみたいだ。
「じゃあまずは被害者たちのことから。男性の方は南清隆、この大学の修士課程の学生で、所属サークルは演劇部。そして女性の方は――」
 そこで抜ノ目刑事は一旦言葉を切った。気遣うようにこちらを見てから続ける。
「川添遥、この大学の新入生」
「えっ」
 思わず横を向いた私と円さんの視線がかち合った。円さんの睫が長くて、こんな状況だというのに思わず見とれてしまう。
「知り合いかい?」
 「川添遥」という名前には聞き覚えがなかった。交友関係が広そうな円さんも首をひねっているから、少なくともうちの学部の新入生ではなさそうだ。この大学は地方都市の大学といえどもそれなりの規模のはずなのに、知り合いではないかと気を遣ってくれるのだから、抜ノ目刑事は見かけとは違って案外優しい人なのかもしれない。
「――で、亡くなったのは雫沢さんが御遺体を発見した日の午前零時頃だろうと推定されている。死因は溺死で、川添さんの方は多量の睡眠薬を飲んだ痕跡があった。南くんの方からもごく僅かだが睡眠薬の成分が検出されている。現時点では第三者の関わった形跡はなし、との見立てだ」
「第三者が関わっていない、って……本当なんですか。私が見つけたとき、二人とも見えるところに傷があったのに……」
 抜ノ目刑事が私をじっと見る。その眼は猛禽類のように鋭い。黒目の縁ははっきりしていて、案外瞳は澄んでいる。
「ああ、本当だよ。確かに、川添さんの指先と南くんの腕には傷があったけれど――これは池の縁や浅瀬の石で傷付けたものと見られている。それと、川添さんの頭皮にも強く押された痕があったんだが、これは南くんの爪に川添さんの皮膚片が残っていた。……個人的には、南くんの腕の方は入水の恐怖で錯乱した川添さんが引っ掻いたもので、南くんの爪に川添さんの皮膚片が残ったのはそれを必死に押し留めたから。そして死への恐怖を和らげるために、川添さんだけが睡眠薬を多く飲んで身を沈めることになったんだと推理――ああいや推測しているんだけれどね」
 最後は少し苦笑混じりの声だった。けれどもその口ぶりからすると、これは――。
「「心中……」」
 二人の声が重なってしまい、私は慌てて円さんに謝った。にこにこ笑いながら手を振った円さんの表情が真剣なものに変わり、抜ノ目刑事に問いかける。
「二人の関係性は?」
「……」
 先程までは饒舌だった抜ノ目刑事が言い渋った。何か私たちにはあまり知られたくないようなことがあるのかもしれない。それでも円さんは食い下がる。
「遺族が被害者情報の報道を拒んだのは何故? 赤の他人同士ならば、秘密の繋がり(ミッシングリンク)がわかるまでは報道されたくないかもしれない。何かヤバい関係性があるかもしれないからね。でもそれよりも遺族が拒みそうなのが――」
 挑むように、円さんの大きな瞳が抜ノ目刑事を見据える。少したじろいだそぶりを見せた抜ノ目刑事に、円さんは畳みかけるように言う。
「既にヤバい関係性がはっきりしている場合。女の子はわたしたちと同学年で、男の人は先輩に当たる。ならば繋がりは何処? 小学校が同じだとかきょうだいが同級生だったとか色々考えられるけど、それだけならヤバい関係性だとは言えない。もっと『禁断の恋』的な――『ロミオとジュリエット』みたいなものだったら、遺族は報道を渋るよね。例えば――」
 円さんが息を吸い込む。その上下する喉元から、好奇心の光が宿る理知的な瞳から、私は目が離せなかった。これは、同じだ。あの人と同じ、「名探偵」の姿だ。
「先生と生徒、とか」
 瞬間、抜ノ目刑事が息を呑んだのがわかった。私も思わず呼吸を忘れる。
「……正解、だよ」
 ややあって、抜ノ目刑事がひとつため息を吐いてから、諦めたように口を開いた。
「川添さんは浪人経験者で、年で言うと円ちゃんの一つ上。高校時代に通っていた塾でバイトをしていたのが南くんだった。川添さんは浪人により塾を辞めて他の予備校に通い出したんだが、二人の関係は続いていたらしい。遺族は二人が時折会っていたのを知っていたが、まさか恋愛関係にあったとは思わなかった、とのことだ」
「じゃあ、あの、動機は何なんですか」
 素人が口を出して良いのか戸惑いながらも、私は内心気になっていたことをぶつけた。心中はなぜ行われたのだろうか? そもそも提案はどちらからだったのだろうか?
 だが期待に反して、抜ノ目刑事の表情は冴えない。大儀そうに手帳のページを捲っている。
「動機、動機か……」
「何か推測されていることはありませんか」
 円さんに習って食い下がると、抜ノ目刑事は無言で窓の外を指さした。その視線の先に浮かんでいるのは、あの巨大なクジラ。相変わらず口を閉じて、のんびりと日向ぼっこをしている。
「上の人らはな、動機なんて『クジラが唄った』からで十分だって言うんだよ。クジラが唄えば人が死ぬ、あのクジラに影響されたんだろう、ってな」
「それは違うと思います」
 口から飛び出た言葉は止められない。私は強い口調で言い切る。円さんが少し驚いた表情をしたのがわかった。
「全てをクジラの所為にして、本当の問題から目を背けてしまうのは、間違っていると思います。もしもクジラの唄に影響されたとしても、そこにはその人たちの想いがちゃんとあったはずです。クジラだけが理由なはずはありません」
 全部あの人の受け売りだ。こんなことを言われたら、あの人ならこう言い返すだろうという予感があった。それに私自身もそう思っている。クジラは水都の大切な一部だけれど、クジラが水都の全てではない。私たちが自分の意志を見つける余地を、クジラはちゃんと残してくれているのだ。
 ここまで長く人と話すのが久しぶりすぎて、いつもよりも喉が渇いた。私は注ぎ足した水を一気に飲み干す。顔を上げると、呆気にとられた表情の抜ノ目刑事と目が合った。
 出しゃばったことを言った気がして、途端に申し訳ない気持ちが襲ってくる。物凄く恥ずかしくなって、私は赤くなった顔を伏せた。
 沈黙の時間が続いた後、ふいに笑い声が聞こえてきて、私は顔を上げる。
「ははは……。いや、雫沢さん、意外と面白いな」
 抜ノ目刑事が笑っていた。しかも、とても嬉しそうに。この刑事さんでも笑うことがあるのか。こんなにも心からの笑顔で。だがそれを引き起こしたのが自分の発言だというのが解せない。私は狐につままれたような表情で抜ノ目刑事を見つめる。
「伊佐叔父、『意外と』は余計」
 円さんがたしなめたことで、抜ノ目刑事は冷静さを取り戻したらしい。笑顔が消され、元の厳しい表情に一瞬で戻ってしまった。
「いや、済まない。……友人と同じことを言うものだと思って」
 私には抜ノ目刑事が言った「友人」の心当たりがあった。椅子から身を乗り出すようにして問いかける。
「あの、もしかしてその御友人って……」
「失礼、そろそろ署に戻らないと。――君たちも講義があるだろう?」
 はっとして時計を見ると、いつの間にか十二時半を回っていた。もう一時間近くもここで話していた計算になる。上手くけむに巻かれた格好だが、講義の時間が迫っているとなっては仕方がない。
 けれど、謎はちゃんと満ちた。これで、私はあの人に会いに行くことが出来る。
 久白春路(くじら はるみち)先生に。
 
***
 
 久白先生は、私が卒業した高校の地学教師だ。
 そして、世界で唯一、あの空に浮かぶ巨大なクジラの唄を聞くことのできる存在でもある。「誰にも聞こえない」はずの唄に耳を傾けられる存在。「クジラの唄」が生み出す謎に手が届く存在。
 そしてこの人が、私にとってのカミサマだった。
 
 私が久白先生と出逢ったのは、高校二年生の初夏のことだ。
 その頃、私は端的に言うといじめを受けていた。きっかけは些細なことだ。授業中でも休み時間でも四六時中水の入ったペットボトルを持って、誰とも話さない奇異なクラスメイト。それで私は異端児扱いされ、目を付けられた。直接何か暴力的なことを受けた訳ではない。精神的なことをされた訳でもない。ターゲットにされたのは、私がいつも肌身離さず持ち歩いている「水」だった。
 ペットボトルの中身を隙を見てトイレの汚水にすり替える。それを飲んでいるのを見て物陰からくすくす笑う。わざと私に聞こえるように「あれ中身トイレの水でしょ?」なんて仲間内で言ってくる。
 そんなことが二、三度繰り返され、何度目かの昼休み。遂に耐えきれなくなった私は、汚水の入ったペットボトルを窓から投げ捨てて、泣きながら屋上に走った。そんな状況でさえ目についた自販機でミネラルウォーターを買った自分が恨めしく、屋上に誰もいなければいっそ発作的に飛び降りてしまおうかと思うほどのことだった。そのときには、一瞬で楽になれるであろう提案は魅力的に思えた。
 泣きすぎた所為で息も絶え絶えになりながら四階半階段を昇り、私は屋上へと続く扉に手を掛けた。後から考えてみると、屋上への立ち入りは禁止ではないものの、最後の扉を開くための鍵は職員室で貸し出されることになっていた。それをすっかり失念して勢いで屋上までやってきた私の前で、あの扉が開いたのはだから、運命的で幸運だったとしか言いようがない。
 この出逢いが、私の人生を変えてしまったのだから。
 
 扉を開けると、風が吹き込んできた。汗ばむほどの陽気だったにも関わらず、その風は何故かひんやりとしていて、一瞬港にでもいるような錯覚を覚えた。
 雲一つない空にはクジラが浮かんでいる。のんびりと、幸せそうに、何の悩みもなさそうに、クジラはただそこにいた。
 その前に佇む人影がこちらを振り向く。瞬間、私の息は詰まりそうになった。
 ボサボサの短い黒髪に眼鏡、風になびく白衣と、手に持っているのは煙草か。流れてくる煙は、やけに変わった匂いをしていた。その薄い唇の端がわずかに吊り上がり、まるで神託でも告げるかのように言葉が紡がれてゆく。
「ようこそ、二年三組雫沢雫。クジラを眺めに来たんだろう? まだ特等席が空いてるよ」
 私がここに来ることも予感していたような口ぶりだった。そうやって差し出された手に縋るようにして、私は屋上の端まで辿り着く。そのとき初めて、私はクジラが高校の斜め上あたりに浮いていたことを知った。
クジラは綺麗だった。全身が空に紛れ込んだような色をしていて、けれども確かにそこにいると感じさせる。間近で見ると想像よりも大きく、長方形型をした校舎の長辺くらいはあるのではないかと思えた。水都の外の人からすると、クジラは非現実じみた存在だろう。水都の中にいても、間近で目にする機会はそうそうないと言われていた。だが目の前で見たクジラは、何故クジラなのかとか何故水都なのかといった疑問をすべて超越していくような、奇妙な存在感があった。
「どうだすごいだろう。皆あまり見に来ないもんで、大抵は俺が独り占めしてる」
 もったいないだろう、と言って笑った声が存外低くて、黙っていたら高校生にも見えるような印象に反して少し驚く。近くで見ると、眼鏡越しに笑い皺が見えるから、三十代半ばくらいだろうか。
「まあ地学教師の癖にサボってる俺が偉そうに言えたもんじゃないがな」
そこで初めて、私はこの人の正体を知った。見覚えはあったが、よく理科職員室に荷物を運び入れていたのと万年白衣だった所為で、どこかの業者の人だと勝手に思い込んでたのだ。
「えっ、と……先生は、どうしてクジラを眺めてるんですか?」
 咄嗟に名前が出て来なかったのを誤魔化すように尋ねる。するとその人は私の心中を見透かしたかのように笑って、
「久白春路」
 と名前だけを答えた。それからはぐらかすように煙草の火を消す。生徒の前だからと配慮したのか、煙草自体が随分と短くなっていたからなのかは判別のしようがなかった。虹色のクジラが描かれた煙草の箱をからからと振って、まるでお手玉でもするかのように弄んでいる指は長くて細い。思わず見惚れてしまうほどだった。
 顔を上げると、久白先生の瞳と視線がかち合った。にやり、と音がするような笑みが唇に浮かび、それから一瞬で表情を消して低い声で尋ねてきた。
「それで、雫沢はどうして此処に? ……泣いていただろう、お前。俺で良ければ、話は聞くよ」
 その真剣な声につられて、私は此処に来るまでにあったことを話した。水をすり替えられたこと、笑われたこと、教師からも避けられていたことも、全て。それを久白先生は黙って聞いていた。次第に感情が抑えきれなくなって、自然と涙が溢れてきた私の頭に、すっと手のひらが乗せられる。一瞬躊躇したような間があってから、ぎこちない手が私の髪を撫でた。その手にちゃんと体温が感じられたのが救いだった。
 いつの間にか昼休みは終わっていたようで、泣き疲れた私の耳に聞こえてきたのは、五時間目終了を告げるチャイムだった。慌てて頭を上げて、久白先生に向き直る。私はともかくこの人は授業があるはずだろう。すると久白先生はまたもや、私の心を読んだかのように
「今年、地学選択生はいないから。基礎の方も今日は授業が無いし」
 と淡々と言った。久白先生がこちらを見透かしたかのような言動をするとき、その瞳が一瞬無機物にでもなったかのように感じられることに、私は気が付いた。けれどその無機質な瞳はすぐに柔和な笑い皺が見える瞳に変わって、
「さっきは済まない」
 と心底申し訳なさそうに謝られた。無論謝られるようなことでは無い。こちらとしては話を聞いてもらえただけでも嬉しかった。お母さんも貴詞さんも、私の学校での様子を知ったら親身になって話を聞いてくれるだろう。けれども誰かに知られることはとても恥ずかしく思えたし、何より大ごとになるのが嫌だった。本当は友達なんかと共有して昇華したいものだが、残念ながら私にそんな存在はいない。先生にすら知られたくはないことだったが、何故だかこの人になら話せると思ったのだ。
 この旨を時折つっかえながらも伝えると、久白先生は
「俺には聞くことしか能がない。だけどほら、あのクジラの声だって聞ける」
 と空にゆったりと浮かんでいるクジラを指さしながら答えた。冗談でしょう、と少し笑って私は返したが、そっぽを向いた先生からは返事が無かった。
 放課後が迫って来たので、二人で教室まで向かった。別れ際、「また会いに行ってもいいですか」と尋ねた私に、先生は心底嬉しそうに答えた。
「謎が満ちたらまたおいで」と。
 
 その言葉の意味がわかったのは、それから随分と後の、高校三年生になる春休みのことだ。それまでも私は、暇を見つけては屋上でクジラを眺め、いつ授業をしているのかわからない久白先生とお喋りをしていた。本来友達と話すような他愛もない話をするだけではなく、ときには、最近屋根瓦の窃盗犯が出没していることや、薬局のキャラクターが勝手に動いたらしいこと、雨が降らない所為で水都なのに川の水が干上がってしまったことなんていう、地元の話題で盛り上がることもあった。
 けれどその、クジラが唄った翌日は違った。
「先生助けてください、雫沢家が家庭崩壊の危機なんです!」
 開口一番、興奮気味で言い放った私に、久白先生は目を白黒させた。「ちょっと落ち着け」との声も聞かずに、私は勢いよく話し出す。
「この前、貴詞さんが出版関係のパーティーに参加したときのことです。貴詞さんはお酒苦手なんですけど、編集者の母と出逢ったときみたいに『良い出逢い』があるかもしれないって言って……毎回行ってしまうんですよ」
「女好きの発言だな」と揶揄う先生を睨む。これは冗談では済まないのだ。
「笑い事じゃありません! 案の定、貴詞さんはお酒を飲む羽目になって、酔っぱらったんですよ。べろんべろんだったけれど一応、今から帰るって連絡があって。けれどいつまで経っても貴詞さんは帰らない。流石に私も母も心配してたんですけど、そしたら、そしたらですよ!?」
 徐々にそのときのことが蘇ってきて、声が裏返ってしまったが気にならない。「頼むから少し落ち着いてくれ」と制止する先生の手を掴む勢いで話し続ける。
「寝てたんですよ、他人の家で! うちからワンブロック離れたところにある家から、貴詞さんが玄関先に寝てました、って連絡があって。そこは母の親友の家で、その人も酷く酔っていて、玄関の鍵を閉め忘れたみたいで、その夜の記憶が曖昧だって言ってるんです。私のことも貴詞さんのこともよく知っている人だから、仰天したものの母への連絡を先にして、警察を呼びはしなかったんですけど。何かしたとかじゃなくて、ただ寝ていただけでしたし。
 けれど母は、貴詞さんが親友と浮気してたんじゃないか、って疑って。貴詞さんともその女性ともギスギスした険悪な雰囲気で。今うちの空気感最悪なんですよ!? どうにかしてください、久白先生!」
「どうにかしろ……って言われても、俺は部外者だしな」
 顎に手を当てて久白先生はぼやいた。眼鏡の奥の瞳には呆れたような色が見える。けれども先生はすぐに口角を上げて、愉快そうな声色になって言った。
「家を間違えるって……そりゃ貴詞さんは相当に酔ってたんだな」
「酔ってたには酔ってたんですけど……。本人は、『絶対に間違えてない。ちゃんとうちの通りを入った』って言い張ってるんです。うちの近く、住宅が全部同じ大きさに同じ形で。パステルカラーも夜は見えないから、結構帰りとか通りを間違えそうになるんですけど……。でも、貴詞さんは他にも変なことを言っていて」
「へえ?」
 先生の眼がすうっと細められる。まるで獲物を見つけた猛禽類のようだ。私はその視線に鳥肌が立つのを感じつつ、一音一音をはっきりと発音することを意識した。先生にこの奇妙さがちゃんと伝わるように。
「貴詞さんは『トラックが停まっていた通りの次の通りを入った』って言ってるんです。
 そのとき、ワンブロック手前の一番端の御宅――貴詞さんが通る道に一番近い御宅なんですけど――が引越しをするって話があったんですよ。けれど実際には、その引っ越しは翌日に延期されることになって。だから、『うちのワンブロック手前の路地の入口にトラックが停まっていた』なんてこと、あり得ないんですよ」
 先生は少し考えこんでいたが、ふいに顔を上げて尋ねた。
「……お前の家のあるブロックの一番手前の家で、何か変わったことは無かったか?」
「何で……知っているんですか」
 自分の声が震えているのがわかった。この人は一体何者だ。目の前に佇む先生が、急に空の向こうにいるかのように遠く感じられた。私はまだ震えが収まらない声で、つっかえながら言う。
「……その家の人が、夜中の、丁度貴詞さんが帰った時間帯くらいに、ガチャンっていう大きな音と振動がした、って言ってるんです。地震かと思ったらしいんですけど、その時間に地震なんてなかったから、不思議なこともあるもんだ、って」
「なるほどな」
 先生は何処か納得した様子で目を閉じる。吹き抜けた風に誘われるようにして、先生が再び目を開いたとき、その口元には心底嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「『答え合わせ』を始めようか」
 『答え合わせ』とは何かと聞き返す気力も無い。私はただ、先生の一種異様とも言える雰囲気に呑み込まれていた。クジラを背景にするようにして屋上の縁にもたれかかった先生が、低い声で話し始める。その声は意外にも澄んでいた。
「――最初に言っておくが、貴詞さんは嘘を吐いていないし、浮気もしていない。貴詞さんの感覚では、本当に家に帰ったつもりだったんだよ」
「でも引っ越し作業のトラックなんて――」
 口を挟みかけた私を、先生が視線だけで押し留める。全てを見透かしたかのような鋭い瞳に射抜かれて、私は何も言えなくなった。
「その話は今は止めだ。後で大事になってくることなんだ。
 とにかく、貴詞さんは嘘を言っていない。そう考えると、真相は至極簡単じゃないか? ――トラックが停まっていた路地を、貴詞さんはワンブロック手前の路地だと思い込み、その一つ向こうの路地を自分の家がある通りだと考えた。だが実際にトラックが停まっていたのは自分の家がある路地のところで、だからワンブロック向こうの家に入り込んでしまった」
 確かに単純なことだ。気が付かなかったのが馬鹿らしいと思えるほどに。
「ではお待ちかね、トラックの謎についてだ。
 引っ越し作業は無かった。けれどもトラックは停まっていた。引っ越し作業の予定があった家のワンブロック向こうの路地の入口に。家や日程を間違えたのか? 引っ越し業者ならば、そこの住民に確認もせずにやって来て立ち去るなんてこと、あり得ない。だからこの説は棄却できる。
 ここでヒントとなるのが、住民が言っていた『大きな音と振動』だ。お前の住んでいる住宅の辺りは皆、同じような外見と大きさの家が並んでいる。そしてその屋根は全て『瓦屋根』だ。――もう、判っただろう」
「もしかして……屋根瓦の窃盗犯、ですか」
 私の脳裏に、先生と交わした他愛もない会話のことが浮かぶ。確かに私は、「最近屋根瓦の窃盗犯が近所で出没している」と先生に話した。
「そう、正解。屋根瓦を盗むんだから、相当大きなトラックを用意して、その上に梯子なんかも立て掛けて犯行に及んだんだろうな。その様子を貴詞さんは引っ越し作業だと勘違いした。そしてワンブロック間違えて他人の家の玄関に上がり込んだ。
 ――さて、窃盗犯からしてみるとどうだろう。貴詞さんに屋根瓦を盗んでいるところを見られた、とでも思ったんじゃないかな。いくら酔っ払いだとは言え、警察に通報されでもしたら大変だ。窃盗犯は急いで梯子を片付けて逃げようとする。そのときに慌てて梯子を何処かにぶつけるか、自分が屋根にぶち当たりでもしたんだろうな。――それが住民が気が付いた『大きな音と振動』の正体だよ」
 そこで、私にも一つ思い当たることがあった。帰って来ない貴詞さんが心配で、ベッドの中でうとうとしていたときに、トラックが動き出す音を聞いた気がしたのだ。引っ越し作業が行われなかったと言われたから、あれは気の所為だったと思っていたのだが……。
 その旨を久白先生に伝えると、先生は満足そうに頷いた。
「これは俺の想像に過ぎないが、そのトラックが停まっていた家の屋根を調べたら、何かしらの証拠が出てくるんじゃないかな。例えば――梯子が当たった跡とか、ひょっとしたら窃盗犯の指紋やDNAが」
 
 屋根瓦の僅かに剥げた塗装と、近所の工務店の梯子に付いた塗料が一致したというニュースが流れたのは、それから三日後のことだった。動機は仕事が欲しかったから、だった。屋根の修復や瓦の塗り直しに、皆その店を利用していたのだ。
 私は先生にお礼を言うため、放課後屋上を訪れた。陽が傾きかけたどこか物悲しい空気の中で久白先生は、クジラをぼんやりと眺めながら変わった匂いのする煙草を吸っていた。
「先生、この前はありがとうございました」
 私が恭しくお辞儀をすると、先生は大したことはしていない、とでも言うように手を振った。その姿には、ミステリに出てくる探偵の如くに謎を解いていた三日前とは似ても似つかない、何処か壊れてしまいそうな危うさがあった。
 気が付くと、踵を返しかけた足とは裏腹に、私の唇は勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「先生はどうして、謎を解くんですか」
 先生はこちらをちらりと見て、まだ半分ほど残っていた煙草の火を消した。
「そりゃ可愛い生徒の頼みだから、な」
「真面目に答えてください」
 私が言うと、先生は顔を伏せて、少し悲しそうな声で答えた。
「……俺にはな、『クジラの唄』が聞こえるんだ。つまり、『人が死ぬ』ということが判る」
 初めて会ったときにも、先生はそんなことを言っていた。私はそれを冗談だと笑い飛ばしたものだ。けれども今の先生の真剣な口ぶりは、それが真実であることを何よりも示していた。
「その特異な体質の所為で、俺は昔『カミサマ』と呼ばれていた。破滅を預言することのできる存在だと――。親は真っ当な人で、そんな俺を理解しつつも普通の子と同じように育ててくれた。だから俺は周囲の人間の醜さやら愚かさやらに呑み込まれてしまう前に、『人間』に戻ることが出来た」
 けれどな、と先生は言った。迷子になった幼い子供のような、泣きそうな声に聞こえた。
「『カミサマ』だったときに、ほんの僅かな時間だったが、俺は周囲の人間が抱えるもの――闇、と言ったら良いのかな。それを目の当たりにする羽目になった。
 ……それ以来、俺は『誰かに依存されること』や『誰かの人生に影響を及ぼすこと』が怖いんだ。だから進路指導も担任もやらない。やりたくない。けれど――」
 久白先生はそこで顔を上げた。その瞳にはもう、怯えの色も恐怖も含まれていない。ただ前だけを見据えるその佇まいは、私には「探偵」のそれに思えた。
「俺にはクジラの唄が聞こえる。クジラの唄は『謎』を生み出す。だとすると、その謎を解くのが俺の使命――俺にしかできないことだよ」
 そう言ってかち合った視線と、沈みゆく夕陽に照らされた横顔を、私は生涯忘れることはできないだろう。この瞬間、私の世界に色が付いた。
「もう遅い。気を付けて帰れよ」と告げる声は、泣きたくなるくらいにあたたかかった。
 
 それからも私は熱心に屋上に通い、久白先生に様々な謎を持ち込んだ。先生はたちどころにそれを解いてみせ、私はいつもその探偵ぶりに驚嘆した。
 数ある謎の中でも特に、先生は「動機当て」を好んだ。私がその理由を尋ねると、
「この街では人が死ぬと、クジラの唄の所為にされてしまう。本当は別の理由があったとしても、だ。……俺は、それじゃいけないと思っている。全てをクジラの所為にして、本当の問題から目を背けるのは間違っている、と思う」
 と先生は答えた。そしてそれはそっくりそのまま、私が謎に関わる動機にもなった。クジラはいつも、私たちの上空に浮かんで、そのやり取りを楽しそうに聞いているように見えた。晴れの日も雨の日も、屋上には謎とクジラと私たちがいた。大学の合格発表のときですらも、私は屋上でその結果を知った。
 そして卒業の日、いつものように屋上を訪ねた私に、久白先生は
「クジラが唄い、謎が満ちたらまた会おう」
 と告げた。それは、私が何よりも待ち望んでいた言葉だった。
 そして今。クジラは大口を開け、私は心中遺体を見つけた。
 ならば時は来た。今こそ先生に会いに行くときだ。
 
***
 
 私は高校時代のことを思い出しながら、一か月ぶりに校門の前に立った。意外と卒業から時間が経っていなかった所為か、感慨らしきものは特に感じなかった。私の存在を他の教師たちに悟られないように、息を潜めて四階半を一気に登る。目の前に屋上へと続くドアが現れた。
 謎は満ちた。
 だから私は、初めて会った日のようにこうして屋上へとやって来ている。
 ひとつ大きく呼吸をして、そしてドアノブに手を掛ける。
 ふわり。
 あの日のように風が吹いて、けれどもそれはあたたかい春の風で、ちゃんとあの人はクジラを見上げるようにして煙草を吸っていた。お久しぶりです。私は心の中だけで呟く。
 私の存在に気が付いた久白先生が煙草を消した。私はその瞳を見据えて言う。
「久白先生、謎が満ちました」
 視線をかち合わせた先生が、にやりと笑って答えた。
「クジラが唄ったからな」
 
 「――という訳で、心中の動機がわからないんです」
 私は久白先生に、自分が経験したこと、抜ノ目刑事から聞いたことを伝えた。何度も刑事さんたちに話した所為で内容を覚えてしまい、抜ノ目刑事に伝えたことと一言一句違わないことをよどみなく話すことが出来た。私はミネラルウォーターが入ったペットボトルの蓋を開け、半分ほどを喉に流し込む。
 先生はしばらく何かを考え込んでいる様子だったが、やがてすっと目を細め、静かだが鋭い声で、まるで預言者のごとく言い放った。
「問題なのは、『知っていたか』『知らなかったか』だ」
 
 先生から出される謎かけじみた言葉――私は「宿題」と呼んでいたが――はいつも難解だ。その答えを考えながらの帰り際、階段の途中でふいに先生が立ち止まった。見下ろす先には、肩まで伸ばした髪が、光を受けて淡い空色に見えるほど色素の薄い少女。かなり小柄で、黙っていれば小学生くらいに見えるだろう。制服の上にねずみ色のパーカーを羽織り、そのポケットからはイヤホンのコードらしきものが伸びていた。
「淡路、お前授業は――」
 淡路と呼ばれた少女が表情を変えることは無かった。先生の言葉を無視して、すたすたと階段を登ってゆく。
 少女が立ちすくむ私たちの横を通り過ぎるとき、こんな声が聞こえた気がして、呼吸を忘れそうになる。
「オウサマの仰せのままに」
 そのまま少女は振り返らなかった。屋上へと続く扉のドアノブが回る音が聞こえる。
「先生……あの子、は」
 自分でも声が震えているのがわかった。久白先生はそれを気にするふうでもなく、ただ淡々と答えた。
「一年の淡路蒼良(あわじ そら)。この前入って来ただけなのに、授業に出ずに屋上にばっかり行ってる」
 先生と同じですね、なんて軽口を叩く余裕は無かった。先生は動揺する私を意図的に無視して話し続ける。
「雫沢、お前『クジラのカミサマ』って判るか。あの新興宗教団体」
 私は先生と目を合わせずに小さく頷く。久白先生の声は酷く不機嫌そうなものに変わっていた。学校内にも関わらず、白衣のポケットから取り出した煙草の箱を、手慰みにか振っている。
「あの団体が『カミサマ』として崇めてるのがあのクジラ。団体の中心は水都だけれど、いつの間にか終末論者なんかが集まってきて、規模は徐々に大きくなってきている。思想は何か、キリスト教的な『ノアの方舟』とかそういうのも混ざってて、それも人を惹き付ける要因になってるらしい。……で、淡路はあの団体の信者なんだよ」
 いつの間にか、先生の視線は窓の外を向いていた。まるでそこに見えないクジラが浮かんでいるかのように。
「家族で、ですか」
「いや違う。両親は――」
 そこで先生は周りをちらりと見てから、気遣うようにして声を潜めた。
「淡路に関心がないらしい。ああいった目立つ容姿なのが気に食わないんだとよ」
「……先生は、淡路さんの話を聞くんですか」
 そこで、初めて先生の表情が少し崩れた。全く予期していなかったことを聞かれたようにも見えて、珍しいこともあるものだと内心思う。少し間が空いた後、久白先生はばつの悪そうな声で、
「……あいつは教師にも生徒にも関わろうとしてこないから」
 と答えた。けれども、と私の頭に疑問符が浮かぶ。確かに相手から求められない限り、先生が謎を解くことや誰かの問題に首を突っ込むことはない。それは「人間は自分の人生だけで手いっぱいで、他者の人生を背負い込む暇はない」という先生のモットーからしてもわかることだ。担任やら進路指導やらの仕事から逃げて、ヒラの地学教師として屋上でサボっているのも、「誰かの人生を背負う」責任から逃れたいがためだと言っていた。ならば。
 ――どうして久白先生は、淡路さんのことをあそこまで詳しく知っていたのだろう。
「雫沢、俺は理科職に一旦戻るから、ここまででいいか」
 先生の声が聞こえて、私ははっとして顔を上げる。何となく先生と目を合わせたくはなくて視線を彷徨わせると、先生が手に持ったままの煙草の箱が目に入った。虹色のクジラに、お洒落な書体で「52Hz」の文字が踊っている。
 そこでふいに思い出す。「クジラのカミサマ」の教祖は「オウサマ」と呼ばれる人物だという話を。そして、「オウサマ」は「クジラの唄を伝える者」だという話も。「世界で最も孤独なクジラ」とも呼ばれる「52Hzのクジラ」と、「世界で唯一、空に浮かぶ巨大なクジラの唄を聞くことができる存在」である久白先生が重なって見えた。
 淡路さんが「オウサマ」と呼んだのは、先生のことだったのだろうか。
「雫沢? どうかしたか」
「いえ……」
 心配そうに私の顔を覗き込んできた久白先生に微笑んで、「また来ます」と答える。
「宿題の期限は守れよ」と言う先生の方を振り返らずに、元来た廊下を戻った。
 ――先生が、「オウサマ」なんですか。
 この問いは心の中に仕舞っておこう、と思った。私の話を聞いて、それに答えを出してくれる人がいるという、今の関係性を壊したくはなかった。
 水魚の交わり、という言葉の通り、私は魚のような人間だ。水が無くては生きていけない。そして久白先生も、私にとっての水だった。だから先生が「オウサマ」だとしても、さして変わりはない。先生は私のカミサマなのだから。
 
***
 
 「『知っていたか』『知らなかったか』か……」
「あ、雫沢さん」
 カフェテリアで先生の「宿題」の意味について悩んでいると、円さんに声を掛けられた。抜ノ目刑事が事件のことを教えてくれて以来、私は時折円さんと話すようになった。円さんは友達が多く、よく講義の後などに遊びの予定を立てている姿があるが、そんなときに親しく話し掛ける度胸はない。私などただのクラスメイトに過ぎないだろうが、こうして昼休みや空コマに声を掛けてもらえるだけでも嬉しかった。
 「ここいい?」と尋ねられたので素直に頷く。円さんは私の向かいの席に座った。見るとそのプレートの上にはお洒落なサラダボウルとカルボナーラが載っていて、何も考えずに鯵の開きを選んだ私は、つくづく垢抜けとは程遠いなと実感する。服装も今日は大人びたデニムジャケットに鮮やかなオレンジのロングスカートで、地味なブラウスとジーンズの私とは雲泥の差だ。
 円さんはスプーンで分けたサラダを口に運んで、優雅に咀嚼する。備え付けのペーパーナプキンで口元を拭った後、大きな眼が私を見据えてきた。
「で、『知っていたか』『知らなかったか』って、どういう意味?」
「あ、それは、ええと……」
 久白先生のことをどう説明するべきか迷って言いよどむ私の目の前に、円さんが何かを突き付けてきた。突然のことで焦点が合わず、ぱちぱちと瞬きをしてからそれを見返す。
「これって……」
「そう、あの心中事件の資料だよ」
 伊佐叔父に貰ったんだ、と言って、円さんはフォークに巻き付けたカルボナーラを口に運ぶ。美味しそうに頬を緩める表情と、先程私を見据えた瞳の真っ直ぐさが噛み合わない。
「で、ええと……。どうして?」
 それから言葉が足りなかったことに気が付いて、「どうして、私にこれを?」と言い添える。
「第一発見者だから」
 それ以上の言葉はなかった。私は円さんから受け取った資料をぱらぱらと捲る。部屋の写真、発見現場、友人や家族の証言……。一見して部外秘のようなものばかりが載っていて、私が見ても大丈夫なのかと不安になってくる。一応は最後のページまで見終えると、円さんはそれを待ち構えていたかのようにフォークの先を私に向けて、言った。
「ねえ雫沢さん、わたしと一緒にこの事件を推理してみない?」
 
 「推、理……」
 私は余程驚いた顔をしていたのだろう。円さんが困ったように眉根を寄せて、「駄目、かなぁ……」と笑う。その愛らしい表情に、不覚にもきゅんとしてしまった。
「あ、えっと、その、別に、嫌とかじゃなくて、いきなりで驚いたというか、その、私でいいのかなぁって、思って……」
 しどろもどろに切り返した勢いで、私は久白先生のことや出された「宿題」のことも話してしまう。
「久白先生っていう、うちの高校の地学の先生がいるんだけど、その人も『探偵』みたいなことをしてて……。それで、高校のときから先生に色んな謎を持ち込んでて、だからその、そういう推理みたいなのには興味があるし……。
 あ、それで、そう。前に久白先生に心中事件のことを話したときにね、問題なのは、『知っていたか』『知らなかったか』だって言われたの」
「『知っていたか』『知らなかったか』……って、何を?」
「わからない」と私は首を横に振る。そこで私は、自分がぺらぺらと色々なことを捲し立ててしまったことに気が付いた。謝らないといけないと円さんを見ると、円さんは真剣に何かを考え込んでいるようだった。そして、ぽつりと呟く。
「すごく気になる……」
「え?」
「ねえ、それすごく気になる! 二人で考えようよ、その言葉の意味。その答えがわかったら、あの事件の動機がわかるかも!」
 興奮しているのか、円さんは私の両手を握ってぶんぶんと振ってくる。その勢いに押されつつも、私は気になったことを尋ねた。
「動機、まだわからないんだ……」
「わからないって言うか、皆動機に興味がないみたい。状況は完全に心中で、第三者の関与も疑われないから、下手に騒ぎ立てるよりこのままでいいって……」
「それって――」
 私が反論しようとすると、円さんが手だけでそれを留める。椅子から身を乗り出しかけた私は、大人しく椅子に座り直した。
「でもまあ、気持ちはわからないでもないよ。――あ、警察のじゃなくて、遺族の。心中だってことになって、不謹慎だけどいわば『結論は出ている』じゃない? それを今さらどちらから誘ったのかとか、本当に合意の上だったのかだなんて掘り返すのは、しかも好奇心からっていうのは……色々な人のことを軽んじてるのかもしれないな、って……」
 少し諦めたような声色だった。先程までの覇気は何処へやら、円さんはすっかりしゅんとしてしまっている。確かに、それはある意味では正しいのかもしれない。今更真実なんて知ったって、良いことなんてないのかもしれない。けれどもこのままだと二人は、「クジラの唄」の所為で死んでしまったことになってしまう。少なくとも、そう思う人はきっと出てきてしまう。
「……それは違うよ」
 私の呟きに、円さんが顔を上げた。
「それは、調べてみてから考えるべきだと思う。推理をするのってきっと、知りもしないのに勝手なこと言っている人よりずっと身になることだよ。調べてみて、知ってみて、考えてみてから、それをどこまで伝えるか決めたら良いんじゃないかって、私は思う。少なくとも、知らないよりはずっと」
「……ふふっ」
 一瞬の沈黙の後、円さんが突然笑い出した。その仕草が抜ノ目刑事とそっくりで、さすが叔父と姪だなと場違いにも思う。だが私は何か、変なことを言ってしまったのだろうか。
「あ、あの、円さん? さっきのは私の個人的な意見と言うか、その、だからあんまり気にしないで欲しいっていうか……」
「ううん」
 笑いすぎたのか涙を拭った円さんが、大きな瞳でまっすぐに私を見た。
「雫沢さんの言う通りだなって思った。何も考えてないうちからあれこれ悩むなんて、ただ自分を誤魔化してるだけだよね。『知りたい』って思うからこそ見えてくるものはきっとある。――だから改めて」
 すうっと息を吸った円さんが、私に手を差し出す。
「雫沢さん、わたしと一緒に『動機』を推理してくれない?」
 私は迷わずその手を取った。縋るのではない、共に歩むのだという覚悟を込めて。
 
 「じゃあ早速、事件のことを整理しようか」
「その前に円さん、メイク直した方がいいんじゃ……」
 先程目元を拭った所為か、アイラインが擦れて滲んでいる。リュックサックの中のメイクポーチから、英字のロゴがあしらわれた手鏡を取り出した円さんが、
「ごめん、ちょっとメイク直してくるね」
 とポーチを持って席を離れた。その間に私は我慢していた水を一気に飲み干す。潰したペットボトルが数本、トートバッグに無造作に突っ込まれていた。これで五本目くらいだろうか。
 同級生たちには、私の水依存症のことは話していない。円さんはもしかしたら抜ノ目刑事から聞いているかもしれないけれど、常に水を飲んでいる変な人だと思われるのは嫌だった。だから私はいつも、人目を避けて水分を摂るようにしている。いじめられていた高校時代からの癖だ。遺体を見つけたあの川も、人目を気にする必要のない場所の一つだった。
「ごめんお待たせ」
 メイクをばっちり直してきた円さんに曖昧に微笑む。こういうとき、どう返したら良いのだろう。
「それでは改めて、だね」
「ですね。えっと、よろしくお願いします」
 「敬語じゃなくていいよ」と円さんが言ってくれた。私は小さく頷いて、テーブルの上の資料を捲る。
 部屋の写真だ。キッチンや冷蔵庫がないから、実家だろうか。レースの付いたくすみピンクのカーテンに、ナチュラルベージュのフレームのシングルベッド。ベッドの上にはうさぎとペンギンのぬいぐるみ。赤いハート形のラグの上には白いローテーブルが置かれていて、これも白の目覚まし時計とティッシュボックスが乗せられていた。部屋の隅には大きく育った観葉植物が置いてあった。
「これは川添遥さんの部屋の写真だね」
「……物語、好きだったのかな」
 ナチュラルベージュの背の低い本棚の中には、高校時代の教科書と共に豪華な装丁の童話集が収められていた。一番手前の藍色の本は『白鳥の湖』だろうか。著者別に並べられた文庫本の中には、『シェイクスピア傑作選』の文字が見える。
「そうみたい。南清隆さんと話すようになったのも、劇の話がきっかけだって、塾が一緒だった人の証言がある。図書館にもよく通って古新聞のコピーを取るような、真面目で熱中しやすいタイプ――悪く言えば依存体質のふしがあると言うか――みたいだよ」
 次のページを捲ると、殺風景な部屋の写真が現れた。南清隆さんの部屋だろう。綺麗に片付けられた部屋は、先程の川添さんの部屋とは対照的にグレー一色で無機質な感じがした。パイプベッドに地味なカーテン、焦げ茶色の大きなテーブルと申し訳程度の冷蔵庫。部屋を唯一彩っていたのは本棚で、教科書以外にも何かの芝居の台本から『ロミオとジュリエット』まで、古今東西の様々な書物が並んでいる。演劇をしていたとあって、手描きらしき台本がいくつか納められてた。
 警察の上の人たちは動機を「クジラの唄の所為」だと考えているらしいから、追加で何かを調べるほどの心意気は無い。ならばこれらは抜ノ目刑事が個人的にまとめたことなのだろう。けれどどうしてそこまでしているのだろうか。私の疑問に答えるかのように円さんは、
「伊佐叔父はね、遺体の状況からこれは本当に合意の上なのかって思ったらしくて……。それで個人的に調べた資料を私に送ってくれたんだ」
「合意の上じゃない……ってことは、無理心中かもしれないってこと!?」
「そう。まだ推測にしか過ぎないけれどね」
 円さんはあくまで淡々と言う。けれどもそれはありそうな考えに思えた。遺体を発見したときには気が付かなかったが、後になってみると少し不審を覚えた点もいくつかあったのだ。たとえば、遺体に残った傷――。それに、二人が会っていたことを親が知っていたのにも関わらず、恋愛関係を気が付かれていなかったのも不自然に思える。川添さんは実家暮らしだ。こっそり交際するなんて芸当が果たして可能だったのだろうか。
それにね、と円さんはページを捲る。親、友人、教師……。様々な人たちの証言が現れた。私はその証言の中の一つに目を留める。
「職員……って?」
「南さんはね、高校卒業まで児童養護施設にいたの。そこの職員さんの証言」
 円さんはまるでマーカーでアンダーラインを引くように、人差し指で活字をなぞった。私はそれを目で追って行く。
「『清隆くんはカナヅチで泳げなかった。そもそも水が苦手だった』……!?」
「そう。この証言も、『入水による心中』と矛盾しているでしょ?」
「けれど、睡眠薬のこともあるし、それに大学生になってから練習して泳げるようになったのかも」
 だってほら、と今度は私が人差し指で文字をなぞる。
「『この前の春休みに室内プールに遊びに行きました』って友達の証言があるよ」
「確かにね。その可能性もあるか。その証言で言うと、わたしここが気になってるんだけど」
 円さんが指差したのは、『南は先生たちからは気に入られていたけれど、俺様的に振る舞うから疎ましがられていた』『芝居が好きで、観劇したり舞台で演じたりするだけならともかく普段から芝居みたいな言動が目立ち、辟易していた』という部分だった。
「先生たちとか、周囲の大人から気に入られていたってことが、この――『見合い話』に繋がってるんだろうね、きっと」
 南さんにはバイト先の上司の娘さんとの見合い話があったらしい。けれども彼は乗り気ではなかったようだ。『何かと話を付けて断っていた』という同僚の証言があった。
「『見合い話』って、心中の動機にならないかな?」
「どうだろう。『乗り気じゃなかった』って証言が出てきてるくらいだし、相手の身分もそれなり……って言っていいのかな。少なくとも、断れないことはないと思うけれど」
「なるほど。保留……かな、なら」
 円さんは頷いた。私は数ページを戻して、南さんの部屋の写真を指差す。
「『芝居が好き』で『演劇部』っていうのが部屋の本棚に繋がってるんだね、きっと」
「『ロミオとジュリエット』とかね」
 そこで会話が途切れた。何か言い出そうとしても話題が思いつかない。ただ時間だけが過ぎて行っているような感覚に陥る。
「そういえば、こういう資料って部外秘……になるんじゃなかったっけ。私たちが見ても大丈夫?」
「うん。伊佐叔父から許可は出てるから」
 私はその言葉に引っ掛かりを覚えた。抜ノ目刑事は優秀で熱意がありそうな刑事だけれど、だからといって事件解決のために姪っ子に部外秘の捜査資料を渡すだろうか。
 その疑問に答えるかのように、大きな瞳が逸らされ、円さんがぽつりと呟いた。
「……わたしね、警察官になることが決まってるの」
「え?」
 私は怪訝に思って聞き返す。円さんは少し寂しそうに笑って答える。
「伊佐叔父がわたしに捜査情報を教えてくれるのは、わたしが将来『警察官になること』が条件なの。本来は流してはいけない情報なんだけど、伊佐叔父は黙認してくれてて……」
 けれどね、と円さんは慌てて付け加えた。必死さすらも感じられる口ぶりだった。
「わたし、事件に関わること自体は嫌じゃないって言うか――興味はあるんだよね。……わたし、小さい頃は身体が弱くて、しばらく外へ出られなかった時期があったの」
 私は内心驚きで目を見張った。今の円さんはスポーティーなファッションから想像していたように、活発でフットワークの軽いイメージがあったのだ。同級生に誘われて巨大テーマパークから動物園に新作パフェと、忙しく遊びの計画を立てている姿をよく見かけていた。
「そのときに、推理小説にハマって。わたし、今でも推理小説が大好きで。推理作家の赤澤綴花(あかざわ つづか)さんが推しなんだよね。あの独特の文体と退廃的な世界観が癖になるっていうか――あ、でね、実際の事件にも興味を持つようになったのは、推理小説がきっかけなの。それで、伊佐叔父が警察官だから無理を言って――色々教えてもらうようになったんだ」
 「だから覚悟はある」と円さんは静かな、けれども凛とした声で言った。その決意は私にも感じられた。謎を解く覚悟。真実を知る覚悟。いつ何時でも強くある覚悟。将来のことを全て捧げる覚悟。円さんにはきっと、それがある。だから彼女は探偵に相応しい。
「そういえば、雫沢さんっていつもお水飲んでるよね。理由とか……聞いても大丈夫なやつ?」
 居心地の悪い間を埋めるように、今度は円さんが尋ねてきた。何でもないような口ぶりだけれど、たぶんずっと気になっていたのだろう。私は手元の空になったペットボトルに目を落として答える。
「えっと、『水依存症』って言うのかな。常に水を飲んでいないと不安になるっていうか、止められないっていうか……」
 私は水を欲するようになったあの夏の日を思い出すように、そっと目を閉じて話し出す。
 
 私の父は、今の父である貴詞さんとは全く違って、昔気質で頑固な人だった。高校時代に控えのキャッチャーだったけれど甲子園に出たのが自慢で、私が通っていた小学校の少年野球チームのコーチとして指導をしていた。
 小学校三年生の、ある酷く暑い夏の日だった。まだその頃はエアコンもないような古い畳敷きの一軒家に住んでいて、夏休み真っただ中の私は、再放送のアニメを扇風機の前で見ながらアイスを齧っていた。
 ふいに固定電話が鳴って、いつもと同じように母が出た。電話をしている母の顔が、真夏だというのに蒼白になってゆく。私はただならぬ雰囲気を感じて、テレビを消して残っていたアイスを食べた。一気食べしたアイスの所為で頭痛に苦しんでいると、無理に貼り付けたような笑顔の母が、「お父さんが病院に行ったからついて行くね」と言った。その手が震えていたのを覚えている。
 何も知らない無邪気な私は無論、「私も連れて行って」とでも言ったのだろう。すると母は突然泣き崩れ、絶対に来ないでお留守番していてと何度も繰り返した。後にも先にも、気丈な母が取り乱したのを見たのはあのときだけだった。
 父は亡くなった。熱中症により脱水症状を起こして。少年野球チームのコーチとして、対外試合を観戦していたときのことだった。流石に自身のチームの児童たちには禁じていなかったが、かつてのスパルタ指導の下で甲子園に出場した父は、試合中に水を飲むのを良しとしていなかった。
 水が豊富なはずの水都で、水を失って父が亡くなった。その事実は、小学生の私を恐怖させるのには十分だったように思える。それ以来、私は水を失うのが怖くなり、ペットボトルの水が手放せなくなった。最初は常識的な量に留まっていたが、飲み続けるうちにどんどん水が不足しているような気がして、中学校に入る頃には四六時中水を飲んでいないと気が済まなくなっていた。水依存症だと医師には言われた――。
 
 話し終え、顔を上げる。円さんは戸惑ったような、泣きそうな顔をしていた。私は慌てて付け加える。
「その後新しい父……っていうか、どちらかというと年の離れたお兄さんみたいな、貴詞さんって人と母が再婚して、それで『雫沢雫』っていう奇妙な名前になったの。貴詞さんは小説家で、母はその担当編集者で、それで――」
「あの、ごめんね、なんか。その……嫌なこと、聞いちゃって」
 申し訳なさそうに言われて、私の方が狼狽してしまう。「ううん、気にしてないよ」と言うだけで、何回か舌を噛みそうになった。
 再び沈黙が訪れた。話題のストックなんてものは、自他ともに認めるであろうコミュ障気味の私にはない。丁度良い話題も咄嗟には思いつかなかった。
「ねえ雫沢さん、時間大丈夫?」
「あ……ちょっと、ヤバいかも」
 円さんに言われて腕時計を見ると、三限開始の十分前になっていた。慌てて食器を戻しに行こうとする私を押し留めて、円さんがスマホを手にする。
「雫沢さん、もしよかったらなんだけど……LINE交換しておかない? また『推理』のことで話すこともあるだろうから」
「あ、うん、そうだね。できたら……お願いしたいです」
 「了解」と答えて、円さんが慣れた手つきでスマホを操作する。まごつきながら画面を操作する私をにこにこと待ってくれていた。
「はい、どうぞ。雫沢さん、改めてよろしくね」
「あ、ありがとう。こちらこそよろしくね……円さん」
 LINEを誰かと交換するのも久しぶりだし、こうして人と長時間話したのも久しぶりだ。私はちらちらと円さんに目をやりながらカフェテリアを出る。入り口付近で一度振り返ると、彼女は真剣な面持ちで抜ノ目刑事から貰った資料を読んでいた。
 友達ってどこから友達なんだろう。そもそも友達の定義って何? 前に誰かを名前で呼ぶようになったときは、どうやって呼び始めたんだっけ。私の頭の中を、そんな疑問がぐるぐる回っている。
 
 交換したばかりのLINEに円さんからのメッセージが届いたのは、その日の夜のことだった。
『聞いて聞いて!』と妙にはしゃいだ猫のスタンプに続いて、『明日とか時間ある? 会って話したいことがあるんだ』と真面目な文面が送られてくる。
 私と円さんに共通の話題と言ったら、あの事件のことくらいしか思いつかない。『事件のこと?』と問いかけると案の定『そう』と返事が来た。明日は土曜日、つまり休日。事件が絡んでいるとはいえ、母や貴詞さん以外の人と休日に会うのは実に久しぶりのことだった。
「あれ、雫ちゃん、もしかしてデート?」
 クローゼットをひっくり返してお洒落な服を探し始めた私を、貴詞さんが揶揄う。貴詞さんは頼りないし余計な事も多いが、その何処か浮世離れした雰囲気が久白先生に似ている気がして憎めない。けれども今回の介入は本当に余計だ。反抗期を本格的に始めてやろうか、と思うくらいに。
 違う、と素っ気なく返して、私はまた服の山を漁る。
 だが、初デートに臨む人の気持ちが今ならわかるというのも事実だった。
 どうしよう、どんな顔をして彼女に会えば良いのだろうか。
 
***
 
 待ち合わせ場所に指定されたのは、レトロな佇まいをした喫茶店だった。コーヒーゼリーが有名だというその店はいかにも洒落ていて、自分一人では絶対に入れない。しかも緊張しすぎた所為で指定の時間より三十分も前に着いてしまい、どことなく居心地の悪さを感じてしまう。水を何度も注いでもらって、ウェイトレスさんにも申し訳ない気持ちになった。
「ごめん、待ったよね!」
 時間ぴったりに円さんが息を切らせて駆け込んでくる。今日のファッションは大きな襟の目立つレトロなワンピースで、ウェリントン型の伊達眼鏡が喫茶店の雰囲気にもよく合っていた。「私が早く来ただけ」と言うついでにそのことを伝えると、円さんは本当に嬉しそうに笑った。邪気の無い笑顔は、見ているだけで心が浄化されそうになる。
 注文したコーヒーゼリーとケーキセットを前に、しばらく二人で他愛もないおしゃべりをしていた。コーヒーゼリーは名物だというだけあって絶品で、ケーキセットのティラミスを頬張る円さんも、幸せそうに頬に手を当てている。
「それで、『話したいこと』って……?」
 コーヒーゼリーを食べ終え、私は恐る恐る話を切り出した。先程までの甘い時間と心中事件の落差はあまりにも大きく、こんなにお洒落な喫茶店で話しても良いのかと不安になってくる。
「新事実がわかったの」
 ストローでミックスジュースをかき混ぜていた円さんが表情を引き締め、静かに口を開いた。
「心中した二人は、実の兄妹だったんだって」
 
 「二人の両親は十九年前に起こった鉄砲水で亡くなって、生き残った幼い兄妹は児童養護施設に引き取られた。川添さんは幼い頃に里親に引き取られて、南さんはそのまま高校卒業まで施設で育った」
 告げられていく事実は、にわかには信じがたいものだった。対立する家に生まれた男女が恋に落ち、最期には些細なすれ違いから共に命を落とす――二人はモンタギューとキャピュレットではなく実の兄妹だが、これではまるで『ロミオとジュリエット』の下手な焼き直しではないか。
「二人は自分たちが実の兄妹だったことを『知っていたか』『知らなかったか』……」
 ふいに口から言葉が漏れる。久白先生は、このことを判っていたとしか思えなかった。「クジラの唄」がそう伝えたのだろうか。先生が「クジラのカミサマ」の教祖「オウサマ」なのだろうか――。
「パターンは四つ考えられる」
 円さんの声で顔を上げると、彼女はリュックサックからルーズリーフとペンケースを取り出した。可愛らしい丸文字で、ルーズリーフの上半分が埋まっていく。
「①二人とも自分たちが兄妹であることを『知っていた』
 ②二人とも自分たちが兄妹であることを『知らなかった』
 ③南清隆さんだけが自分たちが兄妹であることを『知っていた』
 ④川添遥さんだけが自分たちが兄妹であることを『知っていた』」
 円さんはそこに「(1)南さんから心中を提案」「(2)川添さんから心中を提案」とそれぞれの下に付け加えた。
「十九年前なら、南さんは五歳前後。彼が水が苦手だったのはきっと、両親を亡くしたときの記憶が残っていたからだろうね。――だとすると、だよ」
 だとすると、と円さんは繰り返した。ドラマにでも出てきそうな言い回しだ。
「水がトラウマみたいになっていた彼が、妹の存在を果たして忘れると思う? ――少なくとも、南さんは川添さんが自分の妹であることを『知っていた』んじゃないかな」
 そう言って円さんは「②二人とも自分たちが兄妹であることを『知らなかった』」と「④川添遥さんだけが自分たちが兄妹であることを『知っていた』」に線を引いて消そうとした。私はそれを手だけで押し留めて、反論しようと口を開く。一つ思い至ったことがあったのだ。
「十五年くらいは会っていないわけだよね、川添さんはすぐに養子に引き取られたわけだから。だったら、南さんは妹の顔を覚えていなかった可能性もあるんじゃない?
『川添遥』という名前は確かに珍しいけれど、同姓同名が一人もいないって感じではない。別れたときからお互い成長しているし、女の子ならお化粧で大分雰囲気は変わる。だから④は無視できないんじゃないかな」
 それに、と私は窓の外を見上げる。雲一つない空に、クジラがのんきに浮かんでいるのが見えた。
「むしろ、②の場合だと動機が存在しなくなっちゃう。南さんはお見合い話に乗り気ではなかったし、既に『先生と生徒』という関係ではなくなったのだから、普通なら付き合うことに何の障害も無い。心中する道理はどこにも無い。
 ならば、警察の偉い人が言っているように、『クジラが唄ったから』という理由くらいしか考えつかないけれど、二人とも水都で育った人だから、クジラが唄ったくらいで今更何かあるわけじゃないってのは知っている。それに二人とも『クジラのカミサマ』の信者でもない――少なくとも抜ノ目刑事はそんなことを言っていない――から、終末論に影響されて、っていうことも無い。それにね、ええと、そう――だから、②は棄却できる」
 一気に言い終えると無性に水が欲しくなって、悪いとは思いつつも自前のペットボトルをこっそりと開けた。半分ほどを飲んでから向き直ると、円さんの表情が見えない。顔を伏せているのだ。
「あ、あの、円さん……? さっきのはその、私の個人的な意見っていうか、素人の意見だから……」
「……すごいよ」
「え?」
「すごいよ雫沢さん、なんか推理してるって感じがする! 推理小説みたい!」
 わあわあと身振り手振りを交えて話す円さんの瞳は、きらきらと輝いていた。ミステリマニアだと言っていたことを思い出して、そういえば、と苦笑する。
「あ、ありがとう……。ええと、なら、残った可能性を全パターン検証していこうか」
「そうだね」と落ち着きを取り戻したらしき円さんが、再びシャーペンを手にしてルーズリーフに向き直り、話し出す。
「まず、①二人とも自分たちが兄妹であることを『知っていた』パターン。
 (1)南さんから心中を提案
 (2)川添さんから心中を提案
 のどちらの場合にしても、心中の動機は明白だよね。――『実の兄妹なのに愛し合ってしまった』から。二人の遺体の状態から考えると、伊佐叔父の推理みたいなこと――入水に恐怖を感じた川添さんが南さんに縋り付いた――があったんだろうね。それで多めの睡眠薬を飲んで意識を失った川添さんを抱きかかえるような格好で、南さんも入水した――ってことになるのかな」
「次に、③南清隆さんだけが自分たちが兄妹であることを『知っていた』パターン。
 (1)南さんから心中を提案 した場合だと、南さんの動機は『実の兄妹なのに愛し合ってしまった』から。これは明らか。
 なら川添さんの動機はというと、川添さんは依存体質っぽい部分があったって言ったよね。これは想像なんだけど、この所為で川添さんは南さんの提案に同意したのかもしれない。ならばそれは合意の上での心中だったのか、若しくは――南さんの無理心中だったか」
「無理心中だった場合、睡眠薬の量の違いには違和感はないし、遺体に残った傷も、抵抗する川添さんを押さえるためのものだったのかもね」
 私の言葉に小さく頷いて、円さんが話を続ける。ルーズリーフの片面は埋まっていて、それを華奢な指がぺらりとひっくり返した。
「③の続き、(2)川添さんから心中を提案 した場合について考えてみようか。
 南さんの動機はさっきと同じ、『実の兄妹なのに愛し合ってしまった』から。
 川添さんの動機は何? これには南さんに舞い込んだ『お見合い話』と、川添さんの『依存体質』が鍵になるんじゃないかな。
 南さんのお見合いのことを知った川添さんは、南さんが遠くに行ってしまうと思い込んだ。自分のものにならないのならいっそ――そんな気持ちで川添さんは心中を提案する。南さんは実の妹を愛してしまった以上、どう足掻いても幸せにはなれない。だからその提案に同意する。ならばあれは、合意の上での心中だった。睡眠薬の量の違いは伊佐叔父が言った通り」
 ルーズリーフが二枚目に突入する。新しい紙を出してくる間も、円さんは話すのを止めない。
「最後に、④川添遥さんだけが自分たちが兄妹であることを『知っていた』 パターンについて。このときは、川添さんは自分たちが兄妹であることを新聞記事だとか週刊誌だとか、あとは親の会話を偶然聞いてしまったとかで知っていたことになる。
 (1)南さんから心中を提案 した場合、南さんの動機は――『お見合い話』のことを踏まえると――『愛する人と幸せになれないと思い込んだ』から。芝居がかった言動が目立っていたんだよね、南さんは。思い込んだら一直線、的な人だったんじゃないかな。お見合いの所為で川添さんともう一緒にはいられないと思い込んで心中を提案した。
 それで川添さんの方は、『実の兄妹なのに愛し合ってしまった』から心中の提案を受け入れた。
 (2)川添さんから心中を提案 した場合、南さんの動機は――『愛する人と幸せになれないと思い込んだ』から、かな。
 川添さんの動機は『実の兄妹なのに愛し合ってしまった』から、ということで明らかだよね。そうなると、あれは合意の上での心中だった可能性もあるけれど、南さんの動機がちょっと薄いような気もするから、それよりは――川添さんの無理心中ってことになる、のかな」
 話し終えた円さんが、残っていたミックスジュースを飲み干して私を見た。大きな瞳に見つめられて気恥ずかしさを感じつつ、私は口を開く。
「……気になったことがいくつかあるんだけど、いいかな?」
 円さんが頷いたのを確認して、私は慎重に言葉を選んでいく。
「まず、③の(1)『南清隆さんだけが自分たちが兄妹であることを知っていて、南さんが心中を提案した』パターンなんだけど……川添さんは、年上の愛する人から言われたからといって、いくらなんでも心中の提案に賛成してしまうかな? 自分の生死にかかわる問題だから、普通は躊躇する気がする。睡眠薬の量の違いも踏まえると、もし心中が合意の上だったとしても――実際は南さんの無理心中に近くなるんじゃないかな。
 次に、④の(1)『川添遥さんだけが自分たちが兄妹であることを知っていて、南さんが心中を提案した』パターンについて。南さんはお見合い話に乗り気じゃなかった。だとすると、『愛する人と幸せになれないと思い込んだ』っていう動機は矛盾していることになってしまう。
 最後に、④の(2)『川添遥さんだけが自分たちが兄妹であることを知っていて、川添さんが心中を提案した』パターンのことなんだけど、一見川添さんの無理心中だったというのは、動機的にもありそうに思える。けれどね、睡眠薬の量は川添さんが多くて、南さんが少ないんだよ。二人が睡眠薬を飲んだ順番はわからない。だから南さんが亡くなった後、川添さんが多量の睡眠薬を飲んで身を沈めた、というのは考えられる。ところが、だよ。男の人の意識を奪うのに、わざわざ警察の人が『ごく僅か』と言う程度の睡眠薬を使うかな。結果的に出来たのかもしれないけれど、リスキーすぎる。普通は南さんの方に多く睡眠薬を飲ませるんじゃない? そうするとこのパターンでは、睡眠薬の量の違いの説明がつけられないことになる。遺体の腕に残った傷は石とか池の縁とかで説明は付くけれど、南さんの爪から川添さんの皮膚片が検出されたことの説明が付かない。
 こういったことを全部考えたら、④川添遥さんだけが自分たちが兄妹であることを『知っていた』 っていうパターンは棄却できる、と思う……」
 話し続けるうちに自信が無くなってきて、最後には語尾が消えてしまった。伏せた視線をちらちらと上げて、円さんの表情を窺う。
「確かにね。言っているときは気が付かなかったな、ありがとう!」
 嬉しそうな円さんを見ていると、なんだか申し訳ない気持ちになって、私は慌てて謝る。
「あの、円さん、ごめんね。私、最初に④のパターンは残そうって言ったのに、結局棄却できる、っていう結論にしちゃって……」
 全然大丈夫、と手を振って円さんが笑う。少し微笑み返してから、私は今までの議論をまとめた。
「なら残ったのは、
 ①二人とも自分たちが兄妹であることを『知っていた』
 ③南清隆さんだけが自分たちが兄妹であることを『知っていた』
 のパターンだね。つまり、合意の上での心中だったのか、南さんの無理心中だったのか、ということになる。あとはここからどうやって絞り込むかだけど……」
「それは任せてよ。探偵の本領発揮、だからさ」
 シャーペンを片手に、円さんが自信満々で言い切った。それを見て、やはり彼女は探偵に相応しい、と思う。
「①の場合だと、状況は伊佐叔父の推理の通りだね。そして③の場合だと無理心中だから、川添さんの頭の傷は南さんが押さえ込んだときのものになる」
「……無理心中の方が自然に見えるんだけど、抜ノ目刑事の推理にも目立つ穴は無いよ」
「うん。現場の状況はどちらであっても矛盾は無い」
 けれどね、と円さんがシャーペンの先端を私に突き付けた。
「発想の転換、だよ」
「……って、どこを?」
 思わず聞き返した私に、円さんは微笑んだ。そうして唐突に尋ねる。
「南さんの好きなものは?」
「……お芝居?」
「そう、『ロミオとジュリエット』。
 なら、南さんの嫌いなものは?」
 先程からの質問の意図が判らない。私は怪訝に思いながらも「……水?」と答える。
「そう、水だね。――ところで、南さんと川添さんの出会いのきっかけは何だったっけ?」
「劇の話……でしょ?」
「うん。二人とも演劇好きだった」
 それがどういう話に繋がってくるのだろうか。訝し気に円さんを見やると、彼女は悪戯っぽく口角を上げて口を開いた。
「なら何故、二人は『ロミオとジュリエット』にならなかったの?」
「……え?」
「南さんは水が嫌いだった。けれども敢えて入水心中を選んだ。それはどうして? 『ロミオとジュリエット』の物語になぞらえたのなら、わざわざ入水心中なんてしなくてもよかった。ロミオは毒薬で、ジュリエットは短剣で自殺すればよかった。二人は『ロミオとジュリエット』で結び付いていたのに?」
「……」
 私は答えられない。この話の結論を理解してしまったからだ。円さんは静かに言う。
「これが合意の上での心中だったのなら、南さんは何の疑いも無く毒薬を呷ることが出来た。川添さんの裏切りは考えにくかったから。川添さんが短剣――実際使うのならナイフとかかな――で自殺するのを躊躇したのならば、南さんが手助けをしてしまえば良い。どうせ死ぬのなら、その決意が固いものだったら、『思い込んだら一直線』の南さんが戸惑うことは無い。でもそうはならなかった。それは、『ロミオとジュリエット』の再現が不可能だったから」
 円さんは一度ミックスジュースのストローに口を付けたが、中身が無いことを思い出したのか、気恥ずかしそうに笑って肩をすくめた。ウエイトレスさんに注いでもらった水で唇を潤してから、また口を開く。
「人間をナイフで刺し殺そうとしたら、きっと抵抗される。睡眠薬を飲ませて眠らせたとしても、上手く致命傷を負わせられるかは判らない。もし相手が亡くなっていないままに自分が毒薬を呷ってしまったら、無理心中の意味が無くなる。それよりもっと確実に相手を殺すためには――睡眠薬を飲ませた上での溺死が最も確実なんじゃないかな。眠ってしまった相手の顔を水に沈めて、自分も睡眠薬を飲んだ上で身を沈める。付け加えておくと、睡眠薬を飲ませて眠らせたと思っていた川添さんは、一度目を覚ましたんじゃないかな。それで抵抗して、南さんの腕を引っ掻いた。けれども南さんは川添さんの頭を押さえて溺死させた。そして自分も身を沈めた。そうなるとあれは合意の上での心中ではなく――」
「『実の兄妹なのに愛し合ってしまった』ことに苦しんだ南清隆さんによる無理心中……」
 結論は出たね、と円さんが笑った。
 
***
 
 「八十五点」
 鈍色の曇り空にクジラが浮かぶ屋上で、私たちの推理――伝えに来たのは私一人だが――を聞いた久白先生は言い放った。
「抜ノ目円さん……だったか? 彼女は良い探偵だ。特に『ロミオとジュリエット』の物語から、状況的に矛盾の無い二択を絞り込んだのは見事だった。――だが、いくつか見落としがあったな」
 もったいないもったいないと、先生は一人でうんうん頷いている。私はじれったい気持ちになって、思わず尋ねた。
「先生、『答え合わせ』をしてください。あの推理の何処が間違っているんですか?」
 先生はにやりと笑って煙草に火を付ける。途端、キャンディのような変わった匂いが辺りに広がった。
「南清隆は川添遥に交際を迫られ、『実の兄妹であること』を理由に断ろうとした。しかし川添は、『恋が叶わないのなら二人で死のう』と言い出す。
 だが南にとって川添はあくまで邪魔者だった。そこで南は、川添を殺害しつつ自身が悲劇の主人公となるような芝居じみたシナリオを考える。それはおそらくこういったものだ。二人で睡眠薬を飲んで身を沈める振りをして、多量の睡眠薬を飲んで意識を失った川添だけを殺害。後は自分も睡眠薬をあおって倒れる。――『実の妹を愛してしまい、苦悩の中で心中するも死にきれなかった哀れなロミオ』を演じているつもりだったんだろうな。
 けれどもここで誤算が生じた。殺したはずの川添が息を吹き返したんだ。縋りついてくる川添を振り切れず南は転倒。川添を再び水に沈めようとするも、元来苦手だった水と『死者の復活』という状況にパニックになった南は、水草や藻といった足場の悪さも相まって溺死した――」
 「な……」
 私は開いた口が塞がらない。にわかには信じがたい話だった。どうしてこんな結論に達するのだ。
「なら……それを証明してください!」
 私は半ば叫ぶようにして言う。
「可愛い生徒の頼みだ……いいだろう」
 久白先生は両手を広げ、神託でも告げるかのように厳かに口を開いた。強い風が屋上を通り過ぎ、今まで髪に覆われていた先生の左耳が露になる。そこには黒いものが嵌っているのが見えた。私は淡路蒼良が付けていたイヤホンを思い出す。けれど何故先生がそんなものを――。
 私の思考を断ち切るかのように、久白先生の低い声が言葉を紡いでいく。「名探偵」の本領発揮だ。
「まず、俺が疑問を持ったのは『二人の交際関係』を示す証拠が全くと言っていいほど無かったことだ。デートの記録でも、秘密の日記帳でも、二人で撮った写真なんかも一切が無い。実の兄妹だったから――という点を考慮に入れても、愛し合ってしまったことに苦しんで心中を選ぶような二人の交際関係を示す証拠が全く残っていない、というのは不自然だ。川添の親は二人が度々会っていたことまで知ってたんだぞ。それなのに、交際関係だけ隠していたなんて上手い話、あると思うか? 俺は思わなかった。そこではたと思いついたんだ。――二人が交際していた、っていう前提がそもそも違っていたんじゃないか、ってな。
 心中において主導権を握っていたのは南に違いない。川添が多量の睡眠薬を飲んだ若しくは飲まされた――そのどちらにしても、南を信頼していないと成り立たない行為だ。その分だと、心中を提案したのも南からだろう。ならば両親を奪った鉄砲水の所為で水にトラウマがある男が、わざわざ入水心中を選ぶ理由は何だ? 少なくとも俺には思いつかなかった。被害者の視点なら、な。だが犯人の視点で考えると――」
「自分から疑いを逸らすため。水を嫌う男が、自ら好んで入水するとは普通思えないから」
 思わず口を挟んだ私に、「その通り」と先生は満足そうに言った。
「ミステリの常套手段だ。南が心中の『犯人』だったとすると、彼は川添を溺死させるために水に慣れておく必要があった。そうなると、睡眠薬の量の違いは南が自分だけ生き残るつもりだったのだと判る。
 南が心中未遂を偽装するつもりだった――いわば『悲劇の主人公』になろうとしていたという証拠は、他にもある。芝居がかった言動が目立っていただとか、『ロミオとジュリエット』が部屋にあった、とかな」
 私は頷く。ここまでは円さんの推理に近い。ならば結論の違いは何故起こったのか。先生は淡々と続ける。
「ところが、本来殺すはずだった川添だけでなく、南本人までもが死んでしまった。これはどういうことだ? 俺は頭を抱えたが、その謎を解く鍵はお前の話の中にあったよ」
「私の話?」
 私は見たままをそのまま先生に語っただけだ。アンフェアな脚色を加えたつもりはなかった。
「ああそうだ。お前は『川添が南の半袖シャツの腰を掴み、南は川添の頭に手を回していた』『抱き合っているようにも見えた』と言った。『二人は抱き合っていた』と断言してはいない。――この二人の姿勢は、『川添が南に縋り付き』『南は川添を押さえ込もうとしている』状態だとも解釈できるよな? すると『縋り付いてくる川添を沈めようとした南も溺死した』という状況が浮かび上がってくる。遺体の外傷もその際に生じた」
「『縋り付いてくる川添を沈めようとした南も溺死した』という結論は何処から? 円さんの推理であっても、筋は通りますよね」
「二人の上半身は浅瀬にあった。抜ノ目円の推理が正しいと仮定すると、南の体勢が不自然だ。南は自殺したんだろう? 水の少ない浅瀬で横になって溺死するという面倒なことを、進んで選ぶ道理はない。もしそれを試みたのだとしても、南の睡眠薬の量は意識を失うのには少なすぎる。それに確実に死ぬ気ならば、浅瀬から顔だけ水に浸ければ良い話だろう? 川添と寄り添いたかったのであれば、彼女の死体を抱いて池にドボン、で済む話だし、いくら足場が悪いとはいえ一応は川の一部なんだから、流されても何処かで遺体は引っかかって見つかる。見つからないことを恐れたのならば、遺書を川べりにでも残しておけば良い。死に方なんかを書き留めていれば、警察が遺体を見つけてくれるだろうしな。 
 ――ここで、無理心中ではなく、南は死ぬつもりがなかったと仮定してみよう。南は川添だけを殺害するつもりだったのだ、と。すると、今度は川添の死に方が不自然になる。いくら睡眠薬を飲ませているとはいえ、無理に浅瀬で溺死させる必要は無い。普通に水が多くあるところで溺死させたら良いだけだ。――おっと、南が水恐怖症だったから深みを覗き込めなかった、なんて反論は無しだぜ? 『プールに行っていた』っていう同級生の証言があるんだから。ならば、死ぬはずのなかった男が死んだのは何故か? 何らかのアクシデントがあったんだ。川添の不自然な体勢を考慮すると、それは川添が取り縋ったからだと考えるしかない。川添の爪の泥はそのときに付いた。
 ――どうだ? いくら突飛な結論であったとしても、殺害計画が狂ったと考えた方が、無理心中だったと考えるよりも状況の不可解さは解消されるだろう?」
「……浅瀬で体勢を崩したからといって、そんなに上手いこと溺死するでしょうか。私が見たとき、精々五センチ程しか水はありませんでしたけど」
 子どもっぽい駄々の捏ね方だとは自覚していたが、反論する部分がもう見つからない。先生の論理の飛躍性を突こうと、苦し紛れに声を出す。
「顔が浸かってしまえば、人間は水深数センチでも溺死する。偽装工作のために自分も少量睡眠薬を飲んでおいたのが仇になったのかもな」
「では『水草や藻の所為で足場が悪い』っていうのは? 先生が小学生だった頃とは、あそこの川の環境は大分変わっていますよね」
 先生があそこの川によく行っていたであろう小学校のときからせいぜい中学時代――もちろん私が生まれる前だ――には、あの川の水質は今よりもずっと酷かった。そこから改善が成されて、やっと今のあの川になったのだ。
 「判っているくせに」と先生は少し笑った。短くなった煙草を革靴で踏み躙ってから、眼鏡の奥の鋭い眼でこちらを睨む。私はお手並み拝見、とでも言うような気持ちで久白先生を見つめ返した。
「俺はこれでも地学教師だ。授業の一環で行ったこともあるし、個人的な散歩だってする。あそこの川は近所だからな。けれどな、別にお前の話からでも、その事実は論理的に推理できるんだよ」
 先生は私が持っているミネラルウォーターのペットボトルをちらりと見た。この人はきっと、全てを見通しているのだろう。
「お前は話の中で、『場所によっては藻や水草が増えすぎて、小さな子供は遊べないと言われることもある』と言った。
 そして、これは俺くらいお前のことをよく知っていないと判らないことなんだが――お前は何故、わざわざミネラルウォーターを買いに戻ろうとした? そこに川があったのにも関わらず。お前は、本当に水が足りなくなったと感じたときには、川や水路、運河であってもそこにある水を飲んでしまう――その事実は間違ってないだろう?」
 全くその通りだ。抜ノ目刑事にも説明した通り、私は近くに自販機や水道がないと、水を求めてときには川や運河、水路の水を飲んでしまうことがあった。
 だが、と先生は長い指で私を指して続ける。
「お前はわざわざ来た道を戻って自販機に行こうとした。『それなりの距離がある』と言っていたのに? 目の前に川があるのに? その理由は、先程の『場所によっては藻や水草が増えすぎている』という発言と組み合わせると、簡単に推測できる。――『池』周辺は、水を汲むという発想も起こらないほど、水草や藻が増殖していて足場が悪い、ということがな」
 「証明終了」と久白先生は静かに言った。
 
 「昨日、南くんの部屋から『台本』と名付けられたノートが見つかった。内容は、心中計画を記したものだったよ。筆跡鑑定や状況から、第三者が事件後に関わった可能性は無く――南清隆本人のものだと確認された。……本当に、彼は芝居にの主人公にでもなったような気持ちだったんだろうね」
 先生と「答え合わせ」をしてから数週間後、私と円さんはカフェテリアの野外テラスで、抜ノ目刑事から話を聞いていた。
「なら結局、わたしの推理は全くの的外れだったわけか……」
 無念そうにため息を吐いた円さんに微笑んで、
「全くの的外れってわけじゃなかったと思うよ」
 と答える。「交際関係だった」という前提が覆されたとはいえ、円さんの「南清隆が川添遥を殺した」という推理の大本は間違っていなかった。二人の外傷が「南が縋り付く川添を押さえ込んだ際の傷」という見立てもだ。彼女は確かに「探偵」としての役目を果たしたのだ。
「警察はこれからどうするんですか? その、警察の不手際みたいなところもあるわけだから、報道とか……」
 私は抜ノ目刑事に恐る恐る尋ねる。先生の推理を聞いてから、ずっと気に掛かっていたところだった。すると彼は表情を引き締めて、
「報道はしない。遺族には伝えるしかなかったけれども……彼らは報道を拒んだ。それに、いくら南くんが人を殺したからといって、悪戯にその死を消費して良いわけじゃない、と思うんだ。罰が必要ならば、加熱した報道や本人の死で十分贖われているんだから、これ以上のことは望まない。……まあこれは私の個人的な信念で――上層部はまた別の理由で遺族の意志を受け入れたみたいだが」
 「うーわことなかれ主義」と棒読みした円さんが、アイスコーヒーを一気に飲み干す。警察のお偉方からしてみれば、遺族の報道拒否は渡りに船だったのだろう。不祥事になり得る捜査ミスが知れ渡らずに済むのだから。
 けれども警察とて一枚岩ではない。人のことを想いやって捜査に臨む、抜ノ目刑事のような警察官もいる。そしてそういう人がいる限り、クジラはあののんきな顔で唄うだろう。満ちた謎は、探偵が解き明かしてくれる。探偵でなくても、謎を見出す抜ノ目刑事のような人もいる。だからクジラはきっと、幸せなのだ。
 ふいに空を見上げた抜ノ目刑事が、静かに口を開く。
「クジラ、最近は唄わないね。まあ、あまり唄われても我々の商売が忙しくなるし――何より、不幸になる人が増えるわけだから」
 「伊佐叔父は優しすぎるんだよ」と円さんが言った。まったくその通りだ。私もうんうんと頷く。
 抜ノ目刑事は「そうかなあ」と頭を掻いている。その表情は柔らかく優しい。
「私だって、厳しいと言われることもあるんだからな」
「たとえば?」
「甘党の部下にブラックコーヒーを奢ったことがある」
「いやそれ普通に優しい上司じゃん! ……わたし伊佐叔父の部下さんからよく、『あんなに奢ってて抜ノ目さんの金銭感覚大丈夫ですか』って聞かれるんだけど!?」
 切れ味鋭い円さんの突っ込みと、いまいち腑に落ちていない表情の抜ノ目刑事が可笑しくて、思わず私も笑ってしまった。
「あ、そうだ。大事なことを伝え忘れていた」
 わざとらしく咳払いをして、抜ノ目刑事がスーツの懐から取り出したのは、一枚の古びた新聞記事だった。それを見て、思わず息が詰まる。
「二人が実の兄妹であることを示す新聞の記事だ。南くんは川添さんにこれを見せることで、彼女を自分の計画に引きずり込んだ」
 けれども、と抜ノ目刑事は加える。その顔にはもう、事情聴取のときのような厳しい表情が戻っていた。猛禽類のような瞳が私を真っ直ぐに見つめている。
「実はこれは川添さんが自分でコピーして持っていたものでね。『計画書』によると、南くんはこの新聞記事を心中現場に持ち込んだらしいんだが――その新聞記事が何処からも見つからないんだ。
 ――ねえ雫沢さん、何か知らないかな」
「知りません」
 喉がからからに渇いていた。絞り出した声は、力なく虚空に消えてゆく。私は抜ノ目刑事の鋭い視線から逃れるように目を逸らした。
 高まる緊張感を感じながら、私は「答え合わせ」のときに先生から言われたことを思い出していた。
 
***
 
 「……一つ、解せないことがある」
 雨が降り出した屋上で、私はコンクリートにできた暗い水溜まりを見つめながら、先生の話を聞いていた。
「南の計画のためには、『心中の理由』を示すものが必要だ。殺人計画を誤魔化すため、お前らみたいな推理を誘導する必要があったからな。本人が生き残ったにせよ、ぺらぺら事情なんて話しちゃ、逆に怪しまれちまう。だから南は何かしら用意をしていたはずだ。けれども現場に到着した警察官が、それらしきものを発見したという報告は無い。この事実が判明したのは、事件から数週間経ってからのことだった。
 ところで、お前の語りにはいくつか、明らかに不自然な点があった。――お前、本当はミステリマニアだろう? 確か雫沢貴詞のペンネームは、共通する文字である『し』を抜いて、『zukuzawa taka』のアルファベットを並び替えた――「zu」と「du」の読みの部分は無視するとして――赤澤綴花(あかざわ つづか)、だったよな。変則的なアナグラムだ。義理の父親が推理作家で、その担当編集者が母親ならば、お前がミステリマニアでもおかしくはない」
 そう、私はミステリマニアだ。おそらく円にも匹敵する程の。私が事件のことを説明する語りは、小説で言うと一人称の地の文に当たる。そこに嘘は含まれてはならない。けれどもそれは、言い換えると「嘘にならないのなら、どのような表現をしても良い」ということになる。
「お前は徹頭徹尾フェアプレイを意識していた。あの語りの何処にも嘘は含まれていない。けれどもお前は重要な事実を隠していた。――いわば叙述トリック的な手法だな。某女流作家の海外ミステリやら、ドラマ化もされた某国内ミステリでお馴染みの――あれは『信用できない語り手』に近いが」
「それを知っている先生も、相当なミステリマニアですよね?」
 答えは無い。けれども私には判っていた。久白先生のことは、私が一番知っているのだと自負していた。そしてそれは客観的に見ても正しいはずだ。
「――お前、何か『二人が兄妹であること』を示すものを隠したな? おそらくはパーカーのポケットに」
「……どうして、そこまで断言が出来るんですか?」
 往生際が悪いな、と先生は言った。煙草に火を付けようとするが、雨の所為で上手くできないようだった。先生はひとつ舌打ちをして、煙草を白衣のポケットに突っ込む。いつの間にか、土砂降りと言っていい程に雨が強まってきていた。雨に打たれているにも関わらず、クジラの巨体は身じろぎもしない。その泰然自若とした姿は、高校時代に感じたのと同じように、私たちの話を黙って聞いているようにも見えた。
「『地面に屈みこんで、パーカーのポケットに手を突っ込む。そしてその中をまさぐる』。この描写に続く部分を聞くと、お前がパーカーのポケットからスマホを取り出したことは、容易に推測できる。ならば『ポケットに手を突っ込む』描写と『スマホを見つける』描写の不自然な独立は何を意味しているのか? 答えは一つだ。お前は地面に落ちていた『何か』を屈みこんで拾い、パーカーのポケットに突っ込んだ。そしてスマホを取り出した。……実を言うと、俺が『偽装心中』ではないかと疑い出したそもそものきっかけは、お前の不自然な語りだったよ。世間的に考えられている真相と矛盾する『何か』がその場に落ちていたから、お前はそれを拾ったんじゃないか、って……。まあお前が犯人じゃなくて良かったが。
 それでその『何か』というのは――」
「新聞記事ですよ。南清隆と川添遥の両親の死の原因となった鉄砲水と、そこで生き残った幼い兄妹を報じた」
 私はジーンズのポケットから、折りたたんだ古い新聞記事を取り出した。あーあ、せっかく持って来たというのに、雨の所為でぐちゃぐちゃだ。
「何故隠した? 隠さなければ捜査はもっと楽になったはずだし、俺も余計な心配をせずに済んだ」
 久白先生の疑問はもっともだった。けれどもこれは先生に言うようなことではない。むしろ、先生はこのことを最も伝えてはいけない相手だった。それに、一つくらい解けない謎があった方が、先生も探偵として後戻りできなくなるだろう。ただでさえこの人は、「依存されることが苦手」と公言しながら、「何か」を隠した教え子が事件に関わっていることを本気で心配して、事件解決に乗り出すような人なのだから。探偵が解けない謎を用意していれば、きっと私は先生を繋ぎ留められる。逆もまたしかりだ。探偵の推理の所為で、私は先生に繋ぎ留められている。そんな気持ちを隠しながら、私は淡々と続けた。
「川添遥がコピーしていたものです。彼女は心中に乗り気だったんでしょうね、南に殺されるとも知らずに」
 円さんに話しそうになっちゃいましたよ、と私はおどける。そう、私はこの新聞記事の存在を知っていた。だから本来は小難しい理屈を捏ね繰り回さずとも、「二人とも自分たちが兄妹であることを『知らなかった』」という説は棄却できたのだ。
「だから自分を裏切った南を最後の最後で恨んだ。その執念が南の死に繋がったんだろうな」
 先生は吐き捨てる。どうやら私からの答えは諦めたようだった。もとより答えなんて期待していなかったのかもしれない。それでいい、この人はあくまで探偵だ。そして探偵でしかいられない。
「ええ。ロミオの最大の誤算がジュリエットだったなんて、本家本元と同じですね。あちらは純愛、こちらは我欲というのが全く皮肉なことですが」
 私はわざと冷たい声をつくって言い放つ。純愛と我欲は突き詰めれば同じことだと、先生が肯定してくれることを期待して。
 けれども先程のお返しなのか、先生は口を開かなかった。ただ寂しそうな表情で、だんだん大きくなっていく水溜まりを見ているだけだ。否、見ているのは水溜まりではなく、そこに映った自分の姿か。若しくはクジラかもしれない。それを見つめる私を、やるせない気持ちが襲う。
「ところで久白先生、私も一つ解せないことがあります」
 ナルキッソスのお話を御存じですか、と問う代わりだ。端的に言うと仕返し。子供っぽいことだが、問いたださずにはいられなかった。
「先生は私たちが『二人が実の兄妹であること』を知る前に、『知っていたか』『知らなかったか』が問題だと私に言いました。だとすると、先生は私たちよりも早く捜査情報を知っていた。ねえ先生――抜ノ目刑事とは、どういった繋がりなんですか?」
 久白先生は「オウサマ」ではない。それが私の結論だった。「オウサマの仰せのままに」と言った淡路蒼良は、先生に従わなかったからだ。ならば、先生は預言者ではない。にも関わらず、先生はどうして未来に起こるであろうことを知っていたのか? 答えは単純。協力者、或いはそれに準ずる存在がいたのだ。そしてそれは、私たちの情報源であり、先生との繋がりを示唆していた抜ノ目刑事以外には考えられない。
「ただの高校時代の友人だよ」
 先生はあくまで淡々と言う。
「今でもたまに一緒に酒を飲む程度の、な。伊佐は酒好きな割に下戸で、酔うと何をされても気にしないし覚えていないんだ。おまけに仕事熱心で、捜査資料を家でも四六時中見ている、と来ている。――酔ったあいつから捜査資料を盗み見するのは、赤子の手を捻るようなものだったよ」
 私は「……随分と仲がよろしいんですね」とだけ答えた。動揺を悟られないように必死だった。それを聞いた先生は、にやりと笑って飄々とした口調になる。揶揄うような口ぶりだった。
「お前、妬いてるのか」
 やっぱり、この人には全てお見通しだ。せめてものお返しにと、私も唇の端を吊り上げて答える。
「さあどうでしょう。『神のみぞ知る』ってことで」
 いつの間にか雨は止み、空には青みが戻ってきていた。クジラの背に虹の橋が架かって、生徒たちの歓声が聞こえる。「謎が満ちたらまた来いよ」という先生の声を背に、私は力任せに潰したペットボトルを持って屋上を後にした。
 屋上へと続くドアを閉める。ぎいっと音を立てて、切り取られていた空の色が消えた。光の差さない階段は、殺風景で無機質な灰色だった。何の面白みもない、ありふれた風景。
 本当に、自分も、世界も嫌になる。
 
***
 
 回想の中の灰色の光景に嫌気が差して、私は意識を光が眩しいカフェテリアへと戻した。怪訝そうな表情をした抜ノ目刑事の表情がふっと緩んで、柔らかな声になる。
「そうか、ありがとう」
 思わず安堵のため息が漏れる。この心の動きも全部、クジラにはお見通しなのだと思うと何だか腹立たしくなって、私はきっと頭上のクジラを睨んだ。
 
 まだ仕事が残っているのだという抜ノ目刑事と別れて、私たちは次の講義の教室へ向かって歩き始める。この時期になると、カップルらしき二人連れの姿がそこかしこで目に付くようになった。……もしものことだが、私はどうしても考えてしまう。少しでも何かが違っていたのならば、あそこに南清隆と川添遥の姿もあったのだろうか。少し感傷的に過ぎるかもな、と思って驚く。今までの私なら、考えもしなかったことだ。これは円さんや抜ノ目刑事の影響だろうか。久白先生が偽善者というわけでは決してないけれど、やはり「高校」という場所を出たことで、私にも何か変化があったのだろうか。
「……人間ってきっと、誰もが何かに依存しているんだろうね」
「依存?」
 ふと思いついたことを口にすると、円さんは腑に落ちないといった顔をした。けれど共に事件に関わった彼女にも、この気持ちを理解してもらいたい。私はゆっくりと、自分の想いを伝えていく。
「南清隆さんは自分が『悲劇の主人公』になることを望んだし、川添遥さんは南さんがいなければ生きていけなかった。それはもう、二人が『悲劇の主人公であること』と『南清隆の存在』に依存していたと言えるんじゃないかな。……『人は一人では生きられない』ってよく言うけれど、本当にそう思う。家族や友達がもしいなくなったら――なんて、考えるだけでも怖いから。きっと、それが依存なんだろうな、って」
 つい視線が右手に持ったペットボトルに動く。それからトートバッグに無造作に突っ込まれた空のペットボトルたちにも。けれども私が依存しているのはきっと、それだけでは無い。
 円さんは唇に指を当てて、私が言ったことを考えている様子だった。そしてぱっと顔を上げると、大きな瞳を私に向けて口角を上げた。
「確かに、二人の動機って突き詰めれば『依存』だった、とも言えるよね。……わたしだったら、何だろうな。ミステリとか、謎とか、かな」
 最後は独り言だったのだろう。その声は私以外に届くことなく、木々の合間に消えていった。家族や友達、といった発想が出て来なかったのがいかにも円さんらしい。けれども、彼女が謎への依存を自覚しているという事実は、私の背中を押すのには十分だった。
「どうしたの?」
 急に立ち止まった私に、円さんが怪訝そうに尋ねる。緊張で強張る顔を上げて、私は覚悟を決めて口を開く。
「あの、実は、円さんに言いたいことがあって……。その、ええと……な、名前で呼んでもいいですか!?」
 驚いたようにぱちぱちと瞬きをした円さんが、ふいににこりと笑った。
「伊佐叔父がいたからとはいえ……、もう名前呼びみたいなもんじゃなかったっけ、雫?」
「……ありがとう、円!」
 興奮した私は、自分史上最高の笑顔で彼女に抱き付いた。突然のことで目を白黒させた円が、苦笑いで私の背中に手を回す。
「ねえ雫、今度はわたしも久白先生のところに連れて行ってよ!」
「もちろん!」
 そう答えながら、私はふと先生の問いを思い出す。何故、私は心中の動機を示す新聞記事を隠したのか?
 答えは決まっている。その方が面白くなると思ったからだ。
 あの日、あの屋上で久白先生の推理を聞いたとき、私の退屈だった日常は――それが幾分か奇妙なこの街でのことであったとしても――、一瞬にして鮮やかに塗り替えられた。まるで推理小説の解決編を読んでいるときのような、世界ががらっと反転する、あの強烈なカタルシス。
 けれども私はごく普通の、ミステリが好きなただの大学生だ。全てを見抜く超人的な推理力なんてものはない。名探偵になんてなれっこない。
 だから、私は謎を複雑化する。本来の事件の意味も、私の行為がもたらす結果も判らないままに。作為を加えた私自身も知らない真実を、名探偵が解き明かす姿がただ見たいから。それに、水が溢れクジラが浮かぶ、「スコシ・フシギ」なこの水都はまさしく、名探偵が活躍する舞台に相応しい。その証拠に、名探偵はちゃんと現れたじゃないか。円も久白先生も、私にとって最高の探偵だった。この先も、ずっと傍にいたいと思えるほどに。
 ああまったく、推理小説の世界に迷い込んだかのような「スコシ・フシギ」な日常なんて、一度経験したらもう止められそうにない。罪深いことに、一度味わった欲望はその後増すばかりだ。驚天動地の大トリックはますます大掛かりに。出来ることなら物理トリックだけでなく心理トリックだって欲しい。めくるめく名探偵の華麗な推理は二転三転。そのどれもが没にするには惜しい魅力的な推理で。そして私は「助手」という特等席に座って、それらを鑑賞する。
 
 今まではそうだった。それでよかった。
 けれども今、初めてそれではいけないのだと思える。今の私のような人間には、きっと助手の資格は無い。孤独な存在にもなり得る探偵の手を取って、たとえ推理の点では及ばずとも、その人間的な理解者となるのが真の「助手」なのだ。
 本当に、探偵たちの助けになりたい。
 そう思って、すぐさま自答する。これは一見純粋な想いのように感じられる。けれども実は、これは私の身勝手な欲望なのではないか? 純愛と我欲が一緒だという考えが、今になって自分を縛る。
 今判る、確かなことは一つだけだった。それが純愛からであろうと我欲からであろうと、私はきっと、これからも探偵たちに関わっていく。関わることを止められない。
 私のこの症状に名前を付けるとするならば、それはきっと――。
「探偵助手依存症」
 ふいに漏れた呟きは、「誰にも聞こえない」クジラの唄のように、初夏の風に紛れて消えていった。

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