よるのおさんぽ

霧雨51号
作者:鎚野こるり
分類:自由作品

――むかーしむかし、にんげんたちは地上で暮らしていました。あらそいが起こったり病気がはやったりして、にんげんたちが困ることもありましたが、なんとかみんなで生活していました。けれどあるとき、おおきな石が地面にぶつかって、世界が真っ暗闇につつまれました。夜の世界はどうぶつたちの世界です。にんげんたちはどうぶつたちを怖がって、みーんな地下に行ってしまいました。そんな世界のおはなしです。

 人間はみんな、「昼」というものが大好きです。満員電車に揺られて仕事に行ったり、お昼休み後の授業で居眠りしたり。休みの日にはバスや電車に乗ってどこかに旅行して……。人間はどうしてそんなに昼が好きなのでしょう? ぽかぽかのお日様やきらきらの草花は確かに素敵だけれど、ひんやりしたお月様や静かな風が吹く夜だって同じぐらい素敵です。
 だから砧(キヌタ)は思いました。夜のお散歩だって案外悪くないものだ、と。
「ねえ、ここはどこ? もう四国に着いた?」
 砧は傍らの男を見やります。お月様と同じ色の長めの髪に薄く色付いた眼鏡。芥子色をした薄手のジャケットだってきれいに着こなしているはずなのに、どこか不信感が拭えません。どうしてこんな胡散臭い、月音(ツキネ)みたいな男が名前も髪もあの大きなお月様とおそろいなのでしょう。それが砧はどうも腑に落ちません。月音はにやりと笑って、軽薄な声で返しました。
「嬢ちゃん、ここは名古屋だぜ。ほら、しゃちほこだ。名古屋ってのは、日本のちょうど真ん中ぐらいの場所だよ。だから四国はまだまだだな。――ま、嬢ちゃんが方向音痴でいろんなとこぐるぐるまわってたから、こんなもんか」
 月音が撫でていたのが、『しゃちほこ』と言うのでしょうか。剥げかけた金色の、魚のような犬のようなとても不思議な像です。
 「方向音痴じゃないもん」と頬を膨らませて抗議する砧を見て、愉快そうに再び笑った月音が、「まあのんびり行こうぜ」と言いました。沈むことのないお月様が、砧と月音の進む道を優しく照らし出しています。

 この全般的に胡散臭くて軽薄な月音みたいな男なんかとなぜ行動を共にしているのか、と改めて考えると、血迷ったとしか言いようがありません。そもそもこんな怪しい男、普通なら出会ったら右に回って逃げ出したいくらいです。けれどまあ、月音と出会った時の砧は、それだけ追いつめられていたということなのでしょう。
 砧の記憶は、新宿駅の雑踏で立ちすくんでいたところから始まります。それより前のことはとてもおぼろげで、触れるとさらりと崩れてしまいそうなのです。もちろんその頃幼かった砧は「新宿駅」なんて名前は知らなかったけれど、たくさん人がいるということだけはわかりました。
 それまでそんなにたくさんの人を見たことがなかった砧はとても驚きました。それと同時にとても怖くなりました。そうしてこの怖いところから外に出ようとうろうろしていると、駅員さんがやってきて、砧は外に連れ出されてしまいました。
 「君、どこから来たの?」なんて聞かれても、砧は何も答えられませんでした。外に出ても、どこにも行く場所はありません。砧は不安で不安で、雨が降る中独り座り込んでいました。
「お母さん、お父さん、お姉ちゃん、お兄ちゃん……」
 おぼろ気な記憶の中から、懐かしい家族の顔やよく遊んだ近所の森を引っ張り出してきて、砧は寂しさを紛らわそうとします。そうしているうちにふと、砧は昔母さんから言われたことを思い出しました。
 ――いいかい、もし家族がばらばらになったら四国に行くんだよ。四国にはあたしたちの一番偉いお方がいるんだから、そこにみんな集まることにしよう
 そうだ、四国に行こう、と砧は思いました。「四国」というのがどういうところかは知りませんでしたが、確か子守唄代わりに聞かされた昔話に、ご先祖様が海を渡って四国に行く話があったはずです。だからきっと、「四国」というのは海の向こうなのでしょう。
 ――もう一度家族に会う、そのために四国に向かうんだ
 そう誓って、砧は歩き出しました。
 
 けれどそれからは、砧にとって苦難の連続でした。
 まず、砧には道がわかりません。四国に行くにはどっちへ向かって進めばいいのか、なんて尋ねたくても、尋ねられる人間なんていません。結局、「こっちだ!」と思った方向に進みだしても、まだまだ大変なことは続きます。
 山に入れば棘のある草に引っかかって痛い思いはするし、大きな木が倒れていて先に進めないところもありました。それでも何とか山を抜けると、今度は道路がやってきます。車が引っ切り無しに通る道路を渡るのはとても難しいし、とぼとぼ歩いていると周りの車から思い切りクラクションを鳴らされることもあります。
 もっと驚いたこともあります。ずんずん歩いていた時、いきなり大きな音がして、砧の体がぽーんと前に飛びました。ものすごい衝撃が襲います。
 砧が目を覚ました時、周りの様子がさっきまでとは違うことに気が付きました。慌てて自分の体を確認します。
「手、足……」
 手がある、足もある、ともう一度呟いて、砧は立ち上がりました。周りの道路はがたがたで、煙のような乾いた匂いが漂ってきます。いきなり立ち上がったので、慣れない砧は少しよろめきました。黒とこげ茶が混ざった長い髪が揺れます。
 ――あ、でも、お月様はいつも通りだ
 空にはお月様が変わらない調子で浮かんでいます。砧はそのことに少し勇気をもらいました。
 それから見つけた服屋さんで適当な服を見繕って、なんとか外に出てもおかしくない格好になります。モノクロのグラフィックTシャツに黒のショートパンツ、そして防寒用の黒のカーディガン。靴はこれまた黒のコンバーススニーカー。Tシャツは胸元が窮屈だし、お世辞にもかわいいとは言えない服装だけれど、何も着ていないよりかは幾分まし。そう自分に言い聞かせながら、その後も砧はひたすら歩き続け、ようやく海が見えるところまで辿り着きました。
「これを渡ったら……!」
 砧は近くにトンネルの標識を見つけました。その標識が示す方向に向かって歩いて行きます。やっと入口を見つけて、トンネルの中を覗き込みます。
 外の暗闇とはまた違う、本当の真っ暗闇。目を凝らしても何も見えません。砧はそうっと足を差し出しました。静寂の中に、こつんこつんと砧の足音だけが響きます。
 そのトンネルは気の遠くなるほどの長さでした。今まで通ってきたトンネルとは明らかに違います。それでも慣れてきてからは、鼻歌交じりだったり、スキップしたりだったりと、なかなかどうしてトンネルを進むのが楽しくなってきました。
 遠くの方が、周囲と比べて少し明るくなってきました。もうすぐ出口です。砧は嬉しくなって走り出しました。

 「わあ……!」
 トンネルの向こうは、まるで別世界でした。見渡す限りの広大な大地に、うっすらと白いものが被さっています。
「みんなを探さなくちゃ……」
 誰かいないだろうか、と思いながら砧が歩いていると、ふいに人影が見えました。砧は思わずそちらの方に向かいます。煙草の火がぽうっと揺れていました。すらりと背の高いその人影は、砧の姿を認めると、吸いさしの煙草を足で踏みつけて驚いた様子で言いました。
「――おいおい、なんでガキがこんなとこにいるんだよ」
 若い男の声でした。全般的になんだか軽薄な感じがします。近くで見るとその男は、お月様みたいな色の長い髪に吊り上がった目をしています。一応砧の『お仲間』のはずなのに、なんだか狐みたいな男です。砧は警戒しながらも尋ねました。
「ねえ、ここは『四国』?」
 男は話にならない、とでも言いたげに答えました。
「違げえよ、ここは北海道だ。四国なんてのはずっとずっと南の方だ」
 砧は思わず泣き出しそうになりました。今までくじけそうになりながらも歩いてきたのに、辿り着いた場所は全く知らない場所だったのです。そんな砧を見て、男は呆れたように付け加えました。
「――ったく、そりゃ随分迷ったな。あんた天性の方向音痴じゃねえの? どこから来たんだ、全く」
「……新宿」
 砧は駅の表示を思い出しながら答えます。男はさらに驚いて言いました。
「し、新宿!?東京じゃねえか。そりゃあまあオレと違って随分と都会育ちのお嬢様で。――よし、決めた。あんたのこと『嬢ちゃん』って呼んでやるよ」
 『嬢ちゃん』だなんて。砧には立派な名前があるのに、まるで半人前扱いです。砧が抗議しようとした時、ふとあることに気が付きました。目の前の男に尋ねます。
「ねえ、なんでここら辺には人がいないの?わたし、散歩をしているんだけど、初めの頃はたくさん人がいたのに」
「おい嬢ちゃん、何も知らないのかよ……」
 色素の薄い瞳で砧をちらっと見て、呆れ顔の男は続けます。
「まあいい、教えてやるよ。――人間様は、夜が怖くて地下に引きこもっちまってんだ。今地上にいるのは、オレたちみたいな数寄者ばかりだろうよ」
「へえ、ならわたしたち、名実ともに『お仲間』ね」
 実を言うと、砧は独りでいるのが嫌いでした。家族がいなくなったときのあの寂しい感じを思い出してしまうからです。こんな軽薄な男でも、『お仲間』とわかったらやっぱり嬉しいものなのです。
「お仲間、か。まあそんなもんだろうな。――なあ嬢ちゃん、あんた旅してるって言ってたけれど、どこまで旅するつもりだ?」
 急に尋ねられて、砧はどぎまぎしてしまいました。呟くように答えます。
「……四国」
 それとね、と砧はとても大事なことを――でも恥ずかしいから小さな声で――付け加えました。
「旅じゃない、散歩。……旅なんて言ったら、おおげさすぎる。わたしがいなくなった家族を探してる、悲しい存在みたいじゃない。違う、わたしは家族が待ってる場所に戻るまで、少しの間『お散歩』してるだけなの」
 すると男は狐みたいに吊り上がった目を少しだけ見開いて、「わかったよ、嬢ちゃん。……なあ、オレも嬢ちゃんのお散歩について行ってもいいか?」と尋ねました。
 全く予想していなかった言葉に、砧は驚いて、けれど少し嬉しくなりました。これからずっと独りぼっちというのは、とても心細かったからです。
 「……うん」と、砧は小さな声で答えました。
 男はそれを聞いて、にっかりと笑って嬉しそうに言いました。
「ありがとよ。オレは月音だ。これからよろしくな、嬢ちゃん」
 「わたしは砧」と告げようとした砧の頭を、月音の手がわしゃわしゃとかき回します。親愛の表現のつもりなのかもしれませんが、きれいな黒とこげ茶の混ざった髪――グラデーションとでも言うのでしょうか――が台無しです。砧はむくれながらも、その手の温かさを嬉しく感じました。
 結局それから名前を伝えても、未だに月音は砧のことを「嬢ちゃん」と呼び続けています。

 「この時間なら地下の店もやってるかな。――嬢ちゃんはここで待ってろ、飯探してくるから。食ったら寝るぞ」
 と月音が言いました。背負っていたリュックを砧に預け、地下に向かいます。砧はいつも通りお留守番です。近くの大きな木の下で、砧は月音の分もリュックを抱きしめながら待ちます。
散歩を始めたばかりの頃、砧は「なぜわたしは地下に行ったらだめなのか」と月音に抗議したことがあります。すると月音はいつになく厳しい声で、
「嬢ちゃんはまだ半人前だからな。もし見つかったらえらいことになる」
 と言いました。
 けれどその後すぐに「だから嬢ちゃんはオレの荷物を見張ってろ」と付け加えて、砧にリュックを預けてすたすたと地下に降りて行きました。
 荷物を見張る! 砧は少し大人になった気がして嬉しくなりました。それ以来、月音が地下で食料を調達している間、砧が荷物を荒らされたり盗られたりしないよう、荷物を見張っておくことになったのです。けれど、今のところ荷物を盗もうとする誰かに出会ったこともなく、回数を重ねるにつれて、砧は待っている時間が暇になってきました。
「ちょっとくらい、いいかな……?」
 砧は荷物を木陰において、少し回りを探検してみることにしました。森は面白いものがいっぱいです。見たことのない木の実やきらきら光るきのこ。つちのこだって見つかりそうです。
「あとちょっと、あとちょっと……」
 ちょっとのつもりが楽しくなって、砧はどんどん森の奥に入っていきます。小川のところまで来たとき、砧ははっとしてもと来た道を駆け出しました。
「そろそろ戻らないと。荷物見てないって、月音に怒られちゃう!」
 慌てて大きな木が見えるところまで戻ってくると、月音の姿はまだありませんでした。
 砧がほっと息を吐いたその時、近くの藪ががさがさ動いて、誰かが荷物に手を伸ばそうとしているのが見えました。

 「誰!」
 砧は噛み付くように叫びました。荷物を抱き寄せて藪の方を睨みます。ビニール袋を持って戻ってきた月音が、「おいおい嬢ちゃん、一体何の騒ぎだ」とのんきに尋ねました。
「誰かが荷物を盗ろうとしてた」
「そりゃあ嬢ちゃんがちゃんと見てねえからだろう。――で、そこにいるのは誰なんだ。オレたちの荷物を盗もうってのはいい度胸じゃねえか。出てこいよ」
 月音の声を聞いて観念したのか、藪の中から人影が現れました。人影がランタンを掲げると、その姿がはっきりと見えました。
 人影は十代前半くらいの女の子と、その父親らしき男性でした。男性が申し訳なさそうに言います。
「先程はすみませんでした。娘と二人で地上で生活しているものですから、食べ物を探していて……」
 月音が父娘と少し距離をとってから尋ねます。
「なあ、どうしてあんたらは地上にいるんだ。人間様はこんなところにいる必要ないだろう?」
 父親はランタンで娘の顔を照らしながら、悲しそうに言います。
「この子の顔を見てください、……酷いあざでしょう。生まれつきのものなんですが、地下の明るいところではその……差別されて。生活が難しくなって地上に出てきたんです。太陽光は特殊なライトで補っているので、地上でもなんとかやっていけてます」
 砧は父親の話に興味津々です。ランタンを地面に置いた父親に尋ねます。
「ライトって……、そんなものがあるの?」
 父親は微笑んで答えました。
「ええ。地下では生き残った人間たちが様々なものをつくっているので、大体ことは足ります。この生活のための便利グッズなんかも豊富ですよ」
「じゃあ、地上に出てくる必要なんてないじゃない。地下でも、すみっこの方で暮らしていけば」
 砧の言葉に、父親は再び少し悲しそうな顔になって言いました。
「まだこの子が生まれる前ですが、感染症が流行りましてね……。それ以来、人間は『移る』ということに非常に敏感になってしまって。……この子も、地下だと顔が見えてしまうから、どこへも行けなくなってしまって。……厳しい生活だとしても、もう地上にしか居場所がないんです」
 その時、女の子のお腹がぐうっと音を立てて鳴りました。女の子が慌ててお腹を押さえ、恥ずかしそうな顔をします。砧は女の子と目を合わせて、言いました。
「ねえ、月音がご飯を買ってきてくれたから、どうぞ」
 月音がその言葉を不機嫌な声で遮ります。
「おい、嬢ちゃん。それはオレたちが食べるために買ってきたもんだ。――他の奴に分けるなんて、するわけねえだろ」
 月音の方を睨む砧に、女の子が言いました。
「あの、わたしは大丈夫だから、お姉ちゃんたちが食べていいよ……?」
 申し訳なさそうな女の子に、砧は笑顔を浮かべて言います。
「わたしたちの方こそ大丈夫だよ。――はい、これどうぞ。『ひつまぶし』だって。何か知ってる?」
 「うん」と小さく答える女の子に、砧はさらに尋ねます。
「ねえ、名前はなんていうの」
「ハナ」
「ハナちゃん、あの男は放っておいて、あっちで一緒にご飯食べない? ――ほら、美味しいよ」
 不機嫌そうに「おい、病気が移ったらどうすんだ」と吐き捨てた月音に、
「ちょっと! そんな言い方ないでしょ!?」
 と、砧は噛み付かんばかりの勢いで猛抗議します。
 そんなやり取りを見ていた父親は、
「いいんです。食事、ありがとうございます。……ハナ、あっちで食べようか」
 と言って、ハナを連れて少し離れた場所に腰を下ろしました。

 砧と月音の間に、無言の時間が流れます。月音は先程からずっと仏頂面で黙り込んでいるし、砧はそんな月音を睨んでいます。
 ふいに、月音が「なあ、嬢ちゃん」と言いました。砧は月音に負けず劣らずの不機嫌な声で、「何?」と返します。
「少し、昔の話をしてもいいか」
「……うん」
 月音は、買ってきたお弁当の鮭を、箸で器用につまみながら話し始めました。
「――オレは親がいなかった。小さい時からずっと独りで、どっかの家や店から食べ物を盗んで生きてきた。ある雨の日だった。オレはその時しばらく何も食べていなくて、風邪もこじらせて、道路の隅で丸まって死にそうになってた。その時、『大丈夫?』って言って、傘をさしかけてくれた少女がいた。彼女から食事や毛布をもらって、オレは何とか生き延びた。それから彼女は時々オレのところに遊びに来るようになった。オレも彼女がわかりやすいように頻繁にねぐらを移動することをやめた。そのうちにわかったんだが、彼女は親から虐待されていて、オレが唯一の話相手のようだった。――けれどあいつは、あの時に、あのわけわかんねえ変貌の時に、我先にと丈夫な建物に逃げ込もうとした大人たちに踏まれて死んだ。それ以来、オレは人を信用しないって決めたんだ」
 月音の声はいつもの軽薄な声ではなくて、とても静かな声でした。まるで何か心の奥にため込んできたものを、少しずつ外に流しているような。周囲にいるはずの動物たちの鳴き声も聞こえず、ただお月様が浮かんでいるだけです。
 砧は月音に尋ねました。
「月音の家族は? 親じゃなくても、誰か――」
 色素の薄い瞳で砧の方をじっと見た月音は、
「昔、病気が流行った時にみんな死んじまったよ」
と、また静かに言いました。それから煙草に火をつけて、空に向かって煙を吐き出します。
 その時、食事を終えたハナが月音たちの元へやって来ました。慌てて煙草の火を消した月音は、「おい、あんまりそばに寄るな」と言いながらも、抱き付いてくるハナと遊んであげています。優しい瞳の月音がふと、「あいつに似てるな……」と呟きました。
 「お姉ちゃん、何かついてるよ?」と影絵遊びに夢中のハナが言います。
 「え?」と、ごそごそ服をまさぐる砧がふいに何かに気が付き、悲鳴を上げました。
「ひゃ、ひゃあ!虫!?」
「おいおい、何だと思ったら虫じゃねえの。――本当に、世話の焼けるお嬢さんで」
 怖がる砧を笑って、月音は虫を取って放り投げます。月音は名残惜しそうに虫が消えた草叢を見つめていました。それを見てハナはくすくす笑います。
「――お姉ちゃん、虫が怖いの?」
「だって、あんまり見たことないし……。こ、怖いものは怖いの!」
「情けねえなあ、だってお前――」
 と月音が何か言おうとした時、父親がハナに声を掛けました。
「ハナ、そろそろ出発するから、準備をしなさい」
 「もう出発するのか」と驚く月音に、父親が言います。
「ええ。今のうちに出発しないと、凶暴な動物たちと出くわしたらいけませんから。――眠るのは、地下の簡易宿泊所を使っているので、その間は安全ですしね」
 それから月音と砧に向き直って、言いました。
「娘と遊んでいただいて、本当にありがとうございます。――この子は、あまり誰かと遊ぶ機会がなかったものですから、楽しそうな顔を見られてよかった」
 いよいよ出発の時です。すっと前に進み出た月音が、父娘に動物除けを渡しました。
「夜の世界には、人間に危ない病気を持っている動物や人間を襲う動物もいる。それ自体はそいつらの特性だから仕方がないけれど、あんたらがもしそいつらに出会ったらまずいかもしれない。……これ、持って行きな。――ハナ」
 手を振る父娘と別れ、月音と砧は再び散歩を始めます。
 嬉しそうなハナを見て、砧はやっと、月音の秘めた優しさに気が付きました。
 ――そっか、あの台詞、そういう意味だったんだ
「おい、何笑ってんだよ嬢ちゃん。気味が悪い」
 「別に、何でもない」と素っ気なく返して、砧は月音を追い越します。
 今まで散歩をしてきて、すぐに自分の思いをぽんぽん言ってしまう砧とは対照的に、月音は本心を全く見せませんでした。まさに「食えない大人」と言う感じだった月音の、本音というものに触れられた気がして、砧は少し嬉しくなりました。

 「あんたがったどっこさ、ひーごさ、ひーごどっこさ、くっまもっとさ、くっまもっとどっこさ、せんばさっ♪ あんたがったどっこさ、ひーごさ、ひーごどっこさ、くっまもっとさ、くっまもっとどっこさ、せんばさ……」
 延々と唄い続ける砧に、うんざりしたように月音が言います。
「おい嬢ちゃん、さっきから同じとこ繰り返してるじゃねえか。――どこで覚えたんだ、そんな唄」
「ハナちゃんが教えてくれたの。ハナちゃん、歌がすっごく上手なんだよ。アイドルになりたいんだって。――ねえ、この唄、続きがあるの?」
「ああ。ま、きっと教えるのは悪いと思ったんだろうな」
 そんなことを言われたら余計に続きが気になってしまった砧は、「ねえ、どんなの? 続きって。ねえ、ねえったら――」と、前を行く月音のリュックに飛びついて、ゆさゆさと前後に揺さぶります。「おおう」と不意を突かれて驚く月音が、大儀そうに言いました。
「しょうがねえな、そこまで言うんなら続き、教えてやるよ。いいか、『せんばさ』の続きはな――」
 そう言って月音は唄いだしました。やや低い声が響きます。いつもはうるさいほどの生き物たちの鳴き声も聞こえず、辺りはしんと静まり返っています。森を抜ける冷たい風が、月音のお月様のような髪を揺らしました。
「船場山には狸がおってさ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ、焼いてさ、食ってさ、それを木の葉でチョイと隠せ――、って言うんだよ」
 ぽかんと口を開けた砧が、一瞬経ってから怒り出しました。
「な、何それ、酷い!狸になんてことしてるの!」
 砧は思わず月音の服を引っ張って猛抗議します。
「おいおい嬢ちゃん、オレに言っても始まらないって。文句があるなら、この唄をつくった人間に言いな」
 それでも砧の怒りは収まりません。月音に噛み付かんばかりに縋りつく砧の瞳には、うっすらと涙さえ浮かんでいます。
 呆れ顔の月音が呟きました。
「しかしまあ、人間様はなんでまたこんな変な唄をつくったのかねえ。――狸なんぞ、食べても美味くねえのに」

 なんとか吉野という所までやって来て、さあ今日の食事を探そうか、という時のことです。
「いーい? 今日はわたしが食事を探すから、月音は絶対についてこないで。絶対、絶対だからね!」
 何度も念を押す砧を、月音は心配そうな目で見ています。
「そう言われたらついて行きたくなるのが性なんだよなあ」とからかう月音に、「もう知らない、いいから月音はついてこないで!」と啖呵を切って、砧は手近な山に向かいました。
 広い山の中で迷うこともなく、砧は順調に食べ物を集めていきます。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚……。五感の全てを使いながら、食べ物を探して歩きます。食べられそうなきのこをいくつか見繕って、さあ美味しそうな木の実を採ろう、と砧は身を乗り出します。その時、草木の向こうから何者かが砧の腕を掴みました。
 「ちょっと、やめてよ!」と抵抗する砧をよそに、何者かは砧を放そうとはしません。
 「おいてめえ、何やってんだ!」と、血相を変えた月音が藪をかき分けて現れました。月音も加勢して、砧の腕を掴む手を引きはがそうと悪戦苦闘します。
「きゃっ!」
 ふいに腕を掴んでいた力が抜けて、必死に手を伸ばす月音を巻き込んで、砧は斜面の向こう側へと転がり落ちて行きました。

 「いってぇ……。おい嬢ちゃん、怪我はないか」と尋ねる月音に、砧は「大丈夫、ちょっと擦りむいただけ」と答えました。
 それから腰をさすっている月音を、「月音こそ大丈夫?」と気遣います。
 「おうよ」と短く答える月音。かなり勢いよく落ちた割に、思いのほか平気そうです。
 「……それより、さっきの奴は何だったんだ?」と月音が言ったその時、ふいに藪がガサガサと動き出し、全身草まみれの探検隊みたいな恰好をした人が現れました。ヘルメットに取り付けられたライトが辺りを照らし出します。
 白髪交じりの髪によくわからない植物が張り付いた顔を見て、砧は思わず月音に抱き付きます。思いっ切りのけぞった月音を見て、その人物は言いました。
「いや、すみません。怪しいものではないのです。ただ、ただ……、どうしてもあなた方のデータをいただきたくてですね、その、研究に協力していただけないでしょうか」
 月音は警戒心を露にして、低く険しい声で問いかけます。
「あんた、何者だ」
「いやこれは失礼。私はこの『世界の変貌』を研究している者です。元々はしがない動物学者だったのですが、あの『変貌』の後からは、あれが動物に与えた影響を研究してましてね。えっと、名刺は……、さっき落としたみたいですね、失礼。ああ、申し遅れましたが、私は若月といいます。どうぞよろしく」
 そこまで一気に言うと、若月は握手を求めました。月音はしぶしぶ握手を返します。
「ところで、あなた方はどういう関係なのでしょう。……その、こういう事例はあまり見たことがなくてですね」
 「おい嬢ちゃん、いつまでくっついてる気だ」と月音に言われ、はっとなって砧は月音から離れます。互いに見合わせた顔が赤くなっているのがわかりました。
 「いやぁ、隠そうとしても私の目は見破れませんからねぇ。化けの皮が剥がれていますよ」と若月が笑うのを聞いて、砧は思わず、月音に抱き着いていた手を腰の後ろに回しました。若月を睨んでいた月音は、一つため息を吐いて言います。
「おい嬢ちゃん、この斜面登れるか」
「ここはほとんど動物が来ませんのでね、お二方さえよければ、今ヒアリングを行ってもよろしいでしょうか」
 砧への台詞を華麗にスルーする若月に舌打ちをして、月音は諦めたように言います。
「ちっ、あんたオレの話聞いてねえな。――わかったよ。その代わり食料持ってるなら分けてくれ。今ので食料入れてたリュック、どっか行っちまったみたいだから」
 「私の持っている食べ物でよければ、喜んで」と若月は快く答えて、続けました。
「――ではまず、あなた方はどこで『世界の変貌』に出くわしましたか。あるいはいつ『世界の変貌』に気が付きましたか」
「あの、『世界の変貌』って何?」
 そう尋ねた砧に対して、信じられない、とでも言うように驚いた表情を浮かべる若月。月音も呆れ声で言います。
「まじかよ……。お前、気付いてねえの? ……おい研究者、この嬢ちゃんに説明してやってくれ。オレもまあ、そんなに詳しいわけじゃないから」
 やや戸惑いながらも「わかりました、お話ししましょう」と言って、若月は穏やかな声で話し始めました。
「――今は昔のことです。とある感染症が世界を襲いました。人間の行動は軒並み中止せざるを得なくなったのです」
 「それが『世界の変貌』?」と砧は尋ねました。若月は「いえ、違います」と小さく否定して話し続けます。
「確かに人間たちはこの感染症で大打撃を受けました。しかしやがて感染症の流行が収まると、元のような生活を取り戻しました。――取り戻してから数年後のことです。この小さな島国に、隕石が衝突しました。隕石が激突した都市やその周囲は壊滅状態に陥り、またこの国は隕石の煙やちりの影響で一日中暗闇に覆われるようになりました。そして、真に大切なのはここからです。衝突の後、とある現象がしきりに報告されるようになりました。――『動物の人間化』とでも言われる現象が」
 砧は思わず息を呑みました。横で黙って聞いている月音は、険しい表情をしています。
「――続けます。古来より、猫又や化け狐、化け狸など、生き物が変化能力を獲得する話はありました。けれどこれらは人間の常識として、『荒唐無稽な話であり、ただの噂か伝説レベル』とされてきました。しかし、これらが実在することが明らかになったのです。原因としては様々なことが言われていますが、最も主流なのは、『隕石に含まれていた何らかの物質が、動物たちの異常な長命を引き起こし、その結果伝説とされていた現象が起こるようになった』という説です。しかし――」
 若月はそこで一旦言葉を切ってから、
「他の説というのもありましてね。それは『隕石の衝突の際、含まれていた何らかの物質の影響で動物たちは妖化し、人間化した際の姿かたちは隕石衝突の時点での年齢を人間に換算した状況で固定される。ただし変化能力を使っている状態においてはその限りではない』というものです。
 端的に言いますと、長命になったから変化できるようになったわけではなく、妖になったから変化できるようになった、というわけですね。――どこも、植物が枯れていないでしょう。これも隕石に含まれていた物質の影響ではないかと言われています。他にもいくつかの説がありますが、」有力なのはこの二つですね
 「感染症はどこに関わってくるの?」と尋ねた砧に、若月が「良い質問ですね」と微笑んで、言います。
「感染症の大流行があったとお話ししましたが、この感染症を引き起こした元々の原因は野生動物でした。耳と尻尾があり、夜の中でも生きられること以外は普通の人間と変わらない『人間化した動物』、しかも変化能力を持つ者もいる――動物だと知らずに彼らと関わってしまったら、また大変な病を引き起こすかもしれない。更に彼らは人間と同様の食物を摂取することが可能でして――食料をめぐって争いになる可能性もある。その不安が人々を地下に追いやりました。今地上にいる人間は、地下で居場所がなくなった者か、私のようなよっぽどの変わり者かだけでしょう」
 ここで、月音が初めて口を開きました。
「――なら、人間様はどうやって地下で暮らしだしたんだ? 人間様が一から掘ったわけじゃないだろう」
「ええ、人々は隕石衝突後でも残った科学技術を使って、地下であっても依然とほぼ変わらない日常を送れるように工夫しました。日光不足の対策は、『極夜』があった国を参考にしたようですね。衝突後の変貌がひと段落着いてから地上とつながる『出口』をつくり、必要なものはそこから運び込んだそうです。大分地形が変わった場所もあって、なかなか苦労したようですね。まあ、あまりに大きいものや地下では使えない通信機器は地上に放置されたようですが。
 ――さて、地下での都市の発展は主に二形態あったようです。一つは、感染症の流行と同時期に戦争の危機が高まり、もしこの国に攻撃がなされたら、と考えた人々たちがつくったいわゆる『防空壕』を広げたものです。防空壕を基にしてつくられた都市は、近所や家族など、狭いコミュニティで発展しました。『町内会』と言い換えてもいいかもしれません。この形態は田舎でよく見られます。もう一つは、地下鉄の駅や地下街を利用した都市です。これらは飲食店や店舗類が比較的多く残っていたので、衝突後すぐに暮らし始めることができました。まあ、赤の他人が集まっているので、トラブル等もこちらは多いですね。かつて地下鉄が走っていた大都市ではこの形態が多く見られます。
 もちろん人間が多くなれば都市は手狭になりますが、隕石衝突でかなりの数が死滅したため、都市を広げる必要はそれほどなかったようです。――大阪の地下には、地元民でも全貌を知らない、広大な地下都市があるみたいですよ」
 難しい顔をして腕を組んだ月音が、「――だそうだ。嬢ちゃん、理解できたか」と砧に尋ねます。
 苦虫を噛み潰したような顔の砧が答えました。
「……何とか。つまり、わたしたちは『少数派の変わり者』ってことね。こんな夜ばかりの世界で行動している」
 「おい、ちょっといいか」と、月音が再び若月に向かって口を開きます。
「なあ研究者、あんたの話は随分詳しいが、動物学者ってのは都市の発展だとか人間の生活も研究するのかい? オレは門外漢だが、少しばっか気になってな」
「ああ、私の専門は動物学ですよ。けれども、かつて若手研究者だった時代にはいろいろな分野の仲間たちとよく飲み明かしてましてねえ。自己流ですが、研究の一部は彼らから聞いた手法を基にしてやっています」
 そこで若月は少し顔を落としました。表情に陰が射し、悲しそうな笑みを浮かべます。
「――少し、昔の話をしてもかまいませんか。私の大学の同期に面白い男がいましてね。彼は元々私と同じく動物学をやっていたのですが、そのうちにオカルトと言いますか、そちらの方面に目覚めましてね。猫又やら化け狐やら、そういったものを科学的に検証しようとしていたのです。――ね、面白い男でしょう? 今起きている現象と全く同じじゃあないですか」
 「すごい、まるで未来が見えていたみたい。ねえ、その人は今どうしてるの?」と無邪気に尋ねる砧に、若月は沈んだ声で答えました。
「――彼は、死にました。隕石の衝突の後、動物たちの変化を見に行くといって山に入り、そのまま……。遺体は数日後に見つかりましてね。熊に襲われたそうです。……本当に、『馬鹿と天才は紙一重』とはよく言ったものですね。あいつは、死ななければ今頃、ノーベル賞でも貰っていたかもしれないのに」
 若月の話を聞いて、うつむく砧。「ごめんなさい……。辛いこと聞いちゃって……」と泣きそうな声で言いました。
「いえいえ、大丈夫ですよ。おかげさまで、研究に役立つ貴重な記録が取れましたから。彼の研究も、弦筝(げんそう)という仲間の女性研究者が引き継ぎまして、『動物たちの人間化』の現象も以前と比べて知られるようになりました。最近では、動物に対する抵抗も大分薄れてきているようです。
 彼女の専門は社会学で、民俗学にも造詣が深いのですが――彼女によれば、犬や猫の変化やその伝承はかなり昔から存在したようで、それを引き起こした物質と隕石に含まれていた物質との類似性を、今現在調べているところです。お話の間に、あなた方の特徴等のデータも取らせていただきました」と、微笑みを見せながら明るい声で若月は答えます。
 「そのデータはどうするんだ?」と尋ねる月音に、若月は笑って、
「うーん、そうですね……。この世界が元通りになったら、どこかの研究誌にでも発表しましょうかね。――でもただ、私にとってはこの状況を生で記録できるフィールドワークこそが重要でして、正直世界中の人に知ってもらいたいだとか名声だとかはどうでもいいのですよ。今、あなた方に出会えたことだけでも研究者冥利に尽きるというものですね」
 「ふーん。わたしたちが役に立てたのなら、嬉しいけどさ」と砧は腑に落ちない顔。「研究者」とは実に変わった生き物なのだ、と思います。
 「あんたも気を付けろよ。それこそ取材相手の動物に襲われたら洒落にならねえ」と月音が釘を刺しました。
「ええ、ありがとうございます。――彼の二の舞にはなりませんよ。ところで、あなた方は、どこまで行かれる予定なのですか?」
 「それは――」と話し始める月音を遮って、「四国。わたし、家族と四国で待ち合わせをしているの」と砧が答えます。
「そうですかそうですか。なら、これくらい食料があれば足りますかね」
 そう言って若月はディバックから食料を取り出し、月音に手渡しました。
「もともとは動物に対して渡そうと思っていたのですが、全然出会わなかったので、最近は私が食べる予備として持ってましてね」
 「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言った砧を、「嬢ちゃん、ちゃんと礼言えて偉いじゃないか」と月音がからかいます。
 「胡散臭いあなたと一緒にしないで」と抗議する砧と月音のやり取りを見て、若月は微笑ましそうに目を細めました。それから思い出したように告げます。
「あなた方もお気をつけて。そういえば――小耳に挟んだ程度ですが、四国には今狸がたくさんいるようですよ」
 「えっ!」と驚く砧と「ええ……」と顔を顰める月音を尻目に、若月はずんずん斜面を登っていきます。その姿が見えなくなってからしばらくして、「しまった……。さっきの研究者に道聞けばよかった……」と残念そうに月音が呟きました。
 「まあ、当ては外れてないからのんびり行きましょ」と言う砧に、
「お、嬢ちゃんも余裕が出てきたか。最初の頃は急ぎすぎて空回りしてたのに」
 と口の端を吊り上げて月音が返します。にかっと笑った薄い唇の端から、鋭い犬歯が覗いていました。
 「お月様がきれいだから、あっちに向かってもいい?」と砧は月音に尋ねました。砧はお月様が大好きです。お月様はどこへ行ってもついてきてくれます。砧を独りぼっちにすることはありません。 
「また変なとこ行きそうな気もするがな。――いいぜ、嬢ちゃんの散歩なんだから」
 それに続けて「なあ、大昔の作家が――」と言いだそうとした月音の前を、踊るように歩く砧が追い越していきます。
「おい嬢ちゃん、ちょっと待てよ。結局急いでんじゃねえか」
 「急いでるんじゃなくて早くお月様を感じたいの」と返す砧。頭上には、今日も変わらずお月様が浮かんでいました。

 月音と砧が歩いている途中、急に雨が降り出しました。最初はぽつぽつ、次にしとしと、そしてざあざあ。もう土砂降りです。急いで雨宿りできるような大きな木を探して走り出しますが、滝の中にいるような感じがして上手く走れません。ようやく葉っぱの茂った大きな木を見つけて、その根元にずぶぬれのまま駆け込みます。「くしゅんっ!」と、月音が一つ大きなくしゃみをしました。
 砧が目を覚ますと、横で寝ていた月音の様子がなんだか変です。体が少し震えていて、顔がいつもより心なしか赤く、額に手を当てると熱を持っています。
「月音、大丈夫? 風邪?」
 心配そうに砧が問いかけます。「たぶんな」といつになく素直に返事をする月音。声もなんだか苦しそうです。
「嬢ちゃん、悪いけど薬を買ってきてくれねえか。たぶん薬局で売ってるやつでことは足りるから」
 「わかった、任せて。――もうわたし、買い物くらい一人でできるから」と自信ありげな砧とは対照的に、月音は不安を滲ませた声で言いました。
「――やっぱり心配だな。嬢ちゃんだけで大丈夫か?」
「大丈夫よ。買い方の練習はたくさんしたから」
 と、砧は自信満々に答えます。
 そうじゃねえよ、と月音は少し笑って、
「嬢ちゃんがお使いをしてちゃんと戻ってこれるか――迷わないか、だな」
 「わたしの心配をする前に自分の心配をして!もっと暖かい格好になったら?」ともっともなことを言う砧に、「……検討、しとくわ」と返した月音の反応が、いつもの切れのあるものではありません。
 月音のやや荒い息遣いが心配になって、「すぐ戻るから」と言い添え、砧は足早に地下に向かいます。途中で「えいっ!」と一つ気合を入れて、準備万端です。

 「わぁ……! 明るいなぁ、すごいなぁ」
 砧は初めて見る地下の光景に目を奪われていました。
「えっと、薬局は確か……」
 月音から持たせられたメモを見ながら、注意深く薬局を探します。
 ――急いで買わなきゃ。月音が待ってる
 けれどそんな決意も、見たこともないきらきらしたお店が並ぶ光景の前では、ぐらぐら揺らいでしまいます。飴玉みたいに透き通った宝石、甘やかで優しい沈丁花の香水、こんがりふっくらとした焼きたての鈴カステラ……。
「――くんくんくん、あ、おうどんの匂いがする!」
 大好きなおうどん屋さんを見つけて、思わず砧の顔がほころびました。きつねうどんに月見うどん、天ぷらうどんに山菜うどんもあります。しばらく立ち止まって、美味しそうなうどんの匂いを堪能します。
「いけない、早くしないと」
 我に返った砧は、薬局を目指して再び歩き始めます。けれども少し歩くと、その足が服屋さんの前で止まりました。
「かわいいなあ、いいなあ」
 大人っぽいAラインのワンピース、夕焼け色をしたロングスカート、リボンが付いたお姫様みたいなブラウス……。どれも砧が初めて見るものばかりです。
 ――いつかこんな服を着て、外を歩きたいなあ
 砧は自分が着ている服に目をやります。散歩を始めた頃、たまたま見つけた服屋さんで拝借したシンプルなTシャツとショートパンツ、それに黒いカーディガン。靴も履き古したぼろぼろのコンバーススニーカーです。だけど文字通り山あり谷ありの散歩には、きれいな服よりも動きやすい服の方がずっと大事。きれいな服は目的地まで我慢、我慢。
 ううん、と砧は自分に言い聞かせるように一つ首を振って、先程よりも少し急ぎ足で薬局へと向かいました。
 
 「薬局……、あった!」
 少し緊張しながら、砧はやっと辿り着いた薬局の中へ入ります。店員さんにあたふたしながら薬の場所を尋ね、これまたあたふたしながらもお会計を済ませて薬局を出たところで、砧はふと気が付きました。
「あれ、どこから来たんだっけ……」
 広い地下でいろいろ寄り道していたから、砧は自分がどの入り口から入ってきたのかがわからなくなってしまいました。とりあえず闇雲に進むも、どのお店も見たことがあるような気がしてしまい、道を思い出せません。
 ――誰かに道を聞いてみようか
 ふとそんな考えが頭をよぎります。けれど月音の、「近づいたら病気が移る」という言葉を思い出して、慌てて首を振りました。
 ――駄目だ。もしそんなことになったら、絶対に駄目だ
 「よしっ!」と気合を入れて、通ってきた道を思い出そうとする砧。けれどもどうしてもわかりません。ただ時間だけが過ぎて行くのを見て、砧は焦りました。早くしなきゃ、早くしなきゃ。でもどうしよう、本当に分からない。思い出せない――。
 ぽんっ、と誰かに肩を叩かれ、砧は振り向きました。三人組の男たちがにやにや笑いを浮かべながら立っています。
 ピアスを開けた男が、砧の胸元をじろじろ見ながら言います。
「ねーねー、君、どうしたの?」
 オールバックの男が、「暇なら、俺たちと遊ばない? 今退屈してるんだよね」と続けるのを冷めた目で見て、砧は「急いでるので」と素っ気なく言い放ちました。ここにいては駄目だ、と直感的に思い、男たちの脇をすり抜けて駆け出そうとします。
 その腕を、眼鏡をかけた男が掴みました。
「そんなこと言ってないでさ、ほら――」
 「――っ、放して!」と、砧は思わず男の腕に噛み付きました。男の腕に鋭い歯型が付き、血が噴き出します。
 「っ、痛ってえー! あの女、噛みやがった!」と騒ぎながら追いかけてくる男たちを振り切って、砧は見つけた出口からなんとか地上に飛び出しました。恐怖でばくばくと早鐘を打っていた心臓が収まると、遠くからかすかに漂ってくる月音の匂いを手掛かりに、元いた場所へと急いで戻ります。

 「月音ー? 薬、言われたとおり買ってきたよ」
 しかし月音の姿が見えません。一体どこにいったのか、と砧がきょろきょろしていると、月明かりに照らされて月音の姿が見えました。「あ、月音! 薬――」と声を掛けようとした砧は何かに気が付き、言葉を失います。
 月明かりの下、月音は鼠を口に咥えていました。そのままがじり、と鼠の胴体を噛み砕きます。周囲に血の匂いが漂い、溢れ出た鼠の内臓が、べちゃべちゃと音を立てて地面に落ちていきます。最後に残った鼠の尻尾をぱくりと飲み込んで、口の周りに付いた血をぺろりと舐め取る月音。その瞳の光がいつもより鋭く、砧は思わずぞくりとしてしまいます。顔をを覆いその場にしゃがみ込む砧に気付き、月音が何事もなかったかのように声を掛けました。
「嬢ちゃん? ――戻ってたなら、声くらい掛けてくれよ」
「あ、うん。……月音、元気になったみたいだね」
 と答える砧の声が、少し震えています。
「まあな。――嬢ちゃんが迷子になってないか心配してたら、風邪治っちまったみたいだわ」
 月音のいつもの軽口にも砧は笑えません。ぎこちなく微笑んで買ってきた薬を月音に手渡します。月音の着ているジャケットの袖口に血が付いているのが見えて、砧は慌てて目を逸らしました。まだ胸がどきどきしています。
「嬢ちゃん? どうかしたのか」
 月音は心配そうな声で砧に尋ねます。
「……実はね」
 月音に先程のことを聞こうとして思いとどまり、砧は別の話を始めました。
「さっき、男の人たちに声を掛けられて……。強引だったから腕を噛んで逃げてきたの。――でも、あの人たち、『病気が移』ったらどうしよう、って……。大変なこと、しちゃったかも」
 うつむきながらぽつりぽつりと話す砧の頭に、ふいに月音の手がぽん、と置かれ、髪を優しく撫でていきます。そろりと、けれどもどこか焦りを含んだように月音が問いかけました。
「……そう、か。嬢ちゃんは、大丈夫なのか。怪我とか、その、変なことはされなかったか、何か――」
 それを遮って、砧は今にも泣き出しそうな声のまま「うん、大丈夫。わたしは何もされてない。そんなに心配しないでいいよ」と小さく微笑んで答えます。少しこわばった表情をして言葉を飲み込んだ月音は、そんな砧の頭をゆっくりと撫でながら、とても優しい、静かな声で言いました。
「嬢ちゃんは間違ってない。 嫌だ、危ないって思ったのなら、それは正しい行動だ。だから気に病む必要なんてないよ。……嬢ちゃんが無事で、本当によかった。帰りが遅いから、何かあったのかと――」
 ほんの少しの震え声に、砧はぎゅっと胸を締め付けられるような感じがしました。月音に身を預けそうになるのをすんでのところで堪え、砧はひとつ笑ってゆっくりと歩き始めます。月音もどこか所在なげに手をぶらぶらさせながら、砧を追いかけました。
 けれども最後に「自業自得だ」と吐き捨てた月音の声がいつもより怖くて、それ以来砧はなんとなく、月音に対して気まずい思いが消えないのです。

 互いに会話がないまま、月音と砧は歩き続けました。気まずいのは砧だけなのだけど、その気まずさが月音にも伝わって、それでなんとなく互いに話すのが怖いというかおとろしいというか……。月音はさっきから煙草を咥えたままで、砧は自分が拒絶されているような気がして何も言えません。むろんそんなはずはないというのはわかっているのだけれど――。とにもかくにもそんな状況の中で、『和歌山県』という朽ちた標識を見た月音が舌打ちをして言ったのが、本当に久しぶりの「会話」でした。
「おいおい、今度は和歌山かよ。こりゃまた大分南に来たな。――嬢ちゃん、次誰かに会ったら道聞こうぜ。このままじゃいつまで経っても辿り着けん」
 「……そうね」と答える砧の声に、いつもの元気がありません。月音はその理由を知ってか知らずか、少し心配そうな声で尋ねます。
「――なあ、嬢ちゃん。大丈夫か、熱でもあんのか?」
 「……大丈夫。何でもない」と、砧はそっけない返事。
 ふうん、と鼻を鳴らしはしましたが、月音はなおも心配そうです。時々後ろを歩く砧を振り返りながら歩いています。ふいに視界が開け、うっそうとした草叢から小高い丘の上に出てきました。目を凝らすと、向こうには海が見えます。お月様の光が溶け込んで、蛍のような柔らかな灯がうんと遠くで揺らいでいました。
「……海!」
 海を見とめてはしゃぎだす砧。それを見てやれやれ、とでも言いたげながらも、どこか嬉しそうな月音。煙草を消して、「……やっぱ、嬢ちゃんはこうでねえとな」と呟きます。
「ほらー、月音、海ー! 海だよー」
 こっちこっちと手招きをする砧に、「へいへい」と面倒くさそうな返事をしつつも、月音は素直に砧の方へ向かいます
 「あれ? ねえ、月音、あれ何だろう」と向こうの方を指さす砧の背後から、月音もつられてそちらを覗き込みます。砧の指さす方には、手造りらしき古びた飛行機が見えました。
 月音が「ああ、あれは飛行機って言うんだよ。空を飛ぶ乗り物だ」と答えたその時、後ろから誰かが駆けてくる気配がします。月音も砧もはっとして振り返りますが、辺りは一面の草原。隠れる場所はありません。
 現れたのは赤毛を三つ編みにした少女でした。少女は持っていた懐中電灯を月音と砧の方に向け、驚いた顔を浮かべます。それからすぐに目をきらきら輝かせて、飛行機の方に大きな声を掛けました。
「ねートンボー! あんたが好きそうな人たちがいるよー!」
 飛行機の方から、声変わり前の少年らしき声が聞こえてきます。
「アヤセ、それ本当―?」
「本当―! すっごく変わってるのー!」と、アヤセと呼ばれた少女は返します。
 「了解、今行くー」というトンボの声を聞いたアヤセは、月音と砧に向き直って言い切りました。
「トンボの『今行く』は絶対行かない。あたしたちが行かない限り、ね。さ、こちらへどうぞ、奇妙なお客様方」
 うやうやしく手を差し出すアヤセの案内で、月音と砧はトンボの元へ向かいます。道中、アヤセはマシンガンのようにしゃべり続けます。
「トンボって、すっごく変な名前でしょう? あたしたちが生まれるずっと前の映画が由来なんだって。トンボっていう発明好きの少年のキャラクターなんだけどね、こっちのトンボもあの通りよ。『名は体を表す』って本当よね。って、これはちょっと違うかー」

 坂道を下ると飛行機のところに到着しました。どうやら小高い丘がいくつも連なっているようです。アヤセは飛行機の中に声を掛けます。
「トンボ―、連れてきたよー」
 「え!? 『今行く』って言ったじゃないか」と慌てる声。
 「トンボの『今行く』は絶対行かない。不変の真理よ」とアヤセは再び言い切ります。
 どんがらがっしゃん、と音を立てながら、飛行機の中からゴーグルを掛けた人物が降りてきました。よく焼けた肌に、くせのある黒髪のショートヘア。背が高くてひょろりと痩せています。
 トンボがゴーグルを外し、嬉しそうに手を振りました。
「やあ! 初めまして、僕はトンボ。――へえ、アヤセの言った通り、本当に変わってるね。ねえ、もっと近くで見てもいい?」
「オレたちは見世物じゃねえんだから、どうぞお好きに」
 トンボは月音と砧に興味津々です。物珍しそうに砧の全身を眺めています。それからぱあっと顔を輝かせて言いました。
「ねえねえ、君たちって本当に面白いね。アヤセは虚言癖があるからさ、『まーた大袈裟なこと言ってるよ』なんて思っちゃったけど」
 「虚言癖はトンボの方でしょ」と返すアヤセ。テンポのいいやり取りを、月音と砧は呆気に取られて眺めています。けれども本当に驚いたのは、アヤセが続けた言葉の方でした。
「なんてったって、このオンボロで出来損ないの飛行機で海を越えようっていうんだから」
 「海を越える!? それって、もしかして四国に行くの?」と尋ねる砧に、トンボは笑ってこう言いました。
「いいや。僕が目指すのはもっと遠く、外国だよ。けれど資料が集まらなくて……。この前やっと地図を見つけたところで、今はこのオンボロ飛行機の改良中さ」
 砧はまん丸な目をさらに見開いて、思わず「外国ってどこ?」と月音に尋ねます。呆れ顔をしたアヤセは、一つ大きなため息を吐きながら言いました。
「ほら、また出た。トンボの誇大妄想。――外国なんて、そんなガラクタで行けるわけないでしょ」
「やってみなくちゃわからないじゃない。それにこれはガラクタじゃなくて骨董品だよ。地上で見つけた、とても価値のあるものなんだ。ちょっとばかし壊れてるけどね。――じゃ、僕は今からこの飛行機のテストをするから、アヤセたちは向こうで見ててくれる?」
 そう言ってトンボは再び飛行機の中に入っていきました。

 月音たちは少し離れたところに座って、テストの準備ができるのを待っていた時、ふいに砧が立ち上がり、トンボの元へ向かいました。何か気になることでもあるのでしょうか。。
 古びた木材のような色味の飛行機は、大きな翼に反してコックピットは小さなものでした。トンボはよくわからない機械を飛行機に取り付けようとしているところでした。中を覗き込んだ砧にトンボが声を掛けます。
「やあ! えーっと、君は確か……、砧さんだね。僕に何か用?」
 「あ、その、トンボに聞きたいことがあって……」ともじもじしながら言う砧。
 「え、何だろう? 飛行機の構造? 外国の話? 僕にわかることなら何でも言うよ」と答えるトンボに、砧は覚悟を決めて尋ねました。
「トンボは、どうして外国を目指すの?わたしは四国を目指しているんだけど、それは家族に会いたいからなの。だからトンボにも何か理由があるのかなーって......」
 虚を突かれたようなぽかんとした表情を浮かべたトンボが、一瞬ののち、大笑いし始めます。
「あははははっ!」
 自分は何か変なことを聞いたのか、とおろおろする砧。対するトンボは笑いすぎて目じりに少し涙が浮かんでいます。「あははっ、はー、はーっ。あー、苦しい」
 そう笑いながらも、黒く澄みきった瞳のトンボは砧を真っ直ぐ見て言い切りました。
「そりゃあ、空を近くで見たいからに決まってるじゃないか」
 ふふっ、と笑ってトンボは続けます。
「まあ、それだけじゃないけどね。――僕、地下で生まれたから、本当の『昼』ってのを見たことがないんだ。空の上の上の方まで行けたなら、晴れた空を見れるかもしれない。ずっと遠くの外国まで行けば、そこでは空が闇に覆われたりしてなくて、きちんと昼と夜があるかもしれない。僕は気になるんだ、本当の空がどんなものなのか」
そう言って、トンボはお日様のような笑顔を浮かべました。砧もつられて笑顔になります。
 「――そっか。忙しいのに、ありがとう」とトンボにお礼を言って、砧は飛行機から離れ、アヤセと月音の元へと戻りました。
 「嬢ちゃん、一体何を話してたんだ」といぶかしげに尋ねる月音。砧は一つ笑って、
 「――わたしね、このお散歩にいろんな理由を考えてた気がするの。でも気付いたんだ、理由なんか無理に考えなくたって、月音と一緒にいろんな所を巡るのが楽しいんだ、って」と答えました。
 「ったく、そりゃ本末転倒って言うんだぞ。嬢ちゃんが家族に会うために四国に行きたい、って言うからついてきたのに。――ま、オレもなかなかどうして楽しんでるけどな」と、呆れ顔とは裏腹に楽しそうな声で月音が言います。
 アヤセはそんな月音と砧の会話に興味津々です。
「ねえ、あなた方は交際しているの?」
 なんて尋ねてきました。それを聞いて月音は一瞬驚いた顔をしてから吹き出し、砧は真っ赤になります。
 意趣返しのように「そんなわけないってば! ――じゃあ、トンボとアヤセはどうなの? 随分仲がいいみたいだけど」と言った砧に、アヤセは悲しそうな笑みを浮かべて答えました。
「……トンボは、少年みたいに見えるけれど、あれでも女の子よ。トンボにはお兄さんがいたんだけど、『世界の変貌』の時に死んじゃったらしいの。お母さんとお父さんが悲しんでるのを見たトンボは、男の子の格好をするようになって――あたしはトンボの幼馴染だけど、あの子が女の子っぽい格好してるの見たことがない。そりゃあ、本人の自由だとかはあるでしょうけど、でも、トンボはたまに無理してる気がするのよ。本当はもっと自分が着たい服を着て、自分が食べたいものを食べて、自分が行きたい所に行って……、そういうことをしてもいいんじゃないかって、思ってた。けれど、地下で偶然飛行機の本を見つけてからトンボは変わった。いつもすごく楽しそうになった。あんなに生き生きしてるトンボ見たことがない。それは嬉しい。すごく嬉しいんだけど……」
 アヤセの表情は話している間にもくるくると変わっていきます。最初は少し悲しそうだった顔も、途中から花が咲いたような笑顔になりました。嬉しいような悲しいような複雑な表情でアヤセは続けます。
「けれど、いつか飛行機が完成して、トンボが本当に外国に行っちゃったら、あたし独りになっちゃう。それが怖いの。それに考えたくないけれど、途中でもし何かがあってトンボが外国に辿り着けなかったら……。それがもっと怖い。だからできればトンボはあたしと一緒にいて欲しい。だけどトンボの夢は応援したい。ま、心配しすぎだとは思うんだけど」
 苦笑するアヤセ。少しの無言の時間が流れます。
 ふいに、月音が飄々としたいつもの調子で、けれど少しだけ真剣な顔で口を開きました。
「――心配しすぎ、ってことはねえんじゃないかな。心配なんてしすぎてもしすぎることはない。あんたにとってトンボが大事な存在なら、それくらい当然だろ」
「ひらめいた!」
 先程から黙り込んでいた砧が、急に立ち上がって言います。
 「え?」と月音は驚き、アヤセは「何を?」と気を惹かれた様子です。
 砧はアヤセを見つめて、弾んだ声で言いました。
「言ってみたらいいんじゃないかな、トンボに。アヤセがどうしたいのか、どうして欲しいのかを」
「おいおい嬢ちゃん、それはアヤセが恥ずかしいだろ。――けどまあ、自分の思いを伝える、ってのは大事だよな」と月音も続けます。
 月音と砧の言葉を聞き、アヤセは何かを考え込んでいる様子になります。

 その時、トンボから「おーい、今から飛行テストをやるんだけど、見ていかない?」と声が掛かりました。
 立ち上がって「見る!」と元気よく返事をする砧。月音も「ほほう」と飛行機の方を眺めていて、珍しく乗り気なようです。
「行くよー!」とトンボが一つ、声を掛けます。
 小さなコックピットに乗り込んだトンボが、真剣な表情で足を動かし始めました。プロペラが少しずつ回りだします。が、飛行機はなかなか進みません。苦しそうな表情を浮かべながらも、トンボは懸命に足を動かし続きます。
 ふいに一瞬、強い風が吹いて、機体がふわりと浮き上がりました。アヤセも砧も、月音でさえも、思わず驚いた表情を浮かべます。ゴーグル越しでも、トンボの顔に満面の笑みが浮かんでいるのがわかりました。
 その刹那、もう一度風が吹いて、バランスを崩した機体が「ずざっ」と音を立てて丘にめり込みました。と同時に尾翼がぽきりと折れ、機体が丘を転がり落ちます。転がってく途中で残っていた翼が折れ、さらに下の方まで機体が転がっていくのが見えました。アヤセが慌てて機体を追いかけていきます。砧と月音もそれに続きました。機体――どちらかというと「機体の残骸」――は、しばらく斜面をごろごろ転がった後、平らなところまで来てやっと、ひっくり返った状態で停まりました。
「ちょっと、トンボ!? 大丈夫!?」
 と叫ぶアヤセに、土煙を上げる機体から出てくる人影が手を上げて応えました。トンボです。ところどころに擦り傷があり、服も顔も土で汚れていますが、無事な様子。トンボは苦笑いを浮かべて言いました。
「あいたたたた……。いや、こんなに転がるとは思ってなかったなあ、失敗、失敗」
 けれどね、とトンボは目を輝かせて続けます。
「僕、飛んだんだ。一瞬だったけれど、空に近づいたんだ。――すごく、きれいだった」
 アヤセに遅れて、砧と月音もトンボの元へやって来ました。
 「すごい! トンボ、すごいよ! だって、本当に飛んだんだよ!」と、砧は興奮してぴょんぴょん飛び上がります。
「いやあ、大したもんだな。本当に飛んじまうとは」
 と言った月音にトンボは返しました。
「まだまだだよ。もっと強度を上げないといけないし、構造も工夫しないといけない。地図ももっと正確なものをつくらないと。けれど僕は絶対にやるよ。絶対に外国に行って、本当の空を見るんだ!」
 見つかった多くの課題とは裏腹に、トンボは晴れやかな笑顔を浮かべています。その時、アヤセが一歩、トンボの方に進み出ました。何か覚悟を決めたような、真剣な表情をしています。
「トンボ。あたしトンボに言いたいことがあるの」
「何だい?」とトンボは不思議そうに尋ねます。
 すうっと息を吸い込んで、アヤセは言いました。
「もしトンボが飛行機を完成させて、これで海外に行くって時には、あたしも一緒に連れて行って欲しいの。あたし、トンボが心配よ。でもそれだけじゃない、トンボと一緒に空を見てみたいの。夜だけじゃない、本当の空を!」
 半ば叫ぶように言い終えたアヤセが我に返ったような表情に変わりました。恥ずかしさの所為か、顔が真っ赤になっています。何か言い添えようと口を開きかけるアヤセ。それよりも先に、トンボが話し出しました。
「……そんなの、もちろんじゃないか! ――本当はね、僕も空を見るんならアヤセと一緒がいいな、って思ってたんだ。だけど危険なフライトになるだろうから、アヤセを巻き込むのが怖いなって気持ちもあった。けれど今、アヤセが一緒に空を見たいって言ってくれて、本当に嬉しかった。ありがとう、アヤセ」
 アヤセは今にも泣き出しそうになっています。けれどその涙を必死にこらえながら、トンボに向かって言いました。
「……っ、『ありがとう』って言うのはあたしよ。これからもよろしくね、トンボ。『健やかなる時も病める時も……』よ。って、これはちょっと違うかー」
 おどけた調子で付け加えて、アヤセは微笑みます。「アヤセと行くのならコックピットも二人乗りにした方がいいし、そもそも食料をどうするか……」とぶつぶつ言いながらも、トンボもどこか嬉しそうです。
 そこに月音が割り込むように話しかけました。
「今後の方針も決まって良かったな、お二人さんよ。――ところで、トンボ。さっき『地図を見つけた』って言ったな。オレたちにその地図をチョイと見せてくれないか? この嬢ちゃんが方向音痴で、なかなか目的地までたどり着かないんだ」
 「いいよ、ちょっと待ってて」と快く返事をして、トンボは機体の残骸の方へ向かいます。が、途中で慌てて引き返してきて、アヤセに向かって言いました。
「――そうだった、アヤセに地図預けてたんだった。アヤセ、ちゃんと持ってる?」
 「もちろんよ。――はい、これでしょ?」とアヤセが地図を取り出し、近くの地面に広げます。それを見た月音が言いました。
「……ふうん。この地図、もう一枚似たようなのを持ってはしないか?オレの記憶だけだと、ちと心もとなくてな」
 「わたしの記憶は!?」と言う砧を無視して、月音はトンボに尋ねます。そんな都合がいいことってあるのかしら、と思う砧の予想に反し、トンボは言いました。
「あるよ。僕がこれを見つけたのは、昔の――たぶんあれは本屋さんかな?何枚も同じのがあったから、とりあえず全部持ってきたんだ」
「あなた方はもう今すぐに発つんでしょう?だったらこの地図を差し上げましょう。あたしたちはまだいっぱい持ってるから、どうぞお気になさらずに」
 トンボとアヤセにお礼を言って、砧と月音は出発します。月音はトンボに何事かを聞いていました。用事を終えた月音が、「こっちだ」と歩き出します。砧はその後を急いで追いかけます。
 その背中に向かってトンボが言いました。
「いつか、飛行機に乗って四国に遊びに行くから、待っててねー!」
 アヤセは手を振っています。月音と砧の姿が見えなくなっても、二人はずっと手を振り続けていました。

 月音と砧は歩き続けます。どうやら北に向かっているようです。「ほら、京都だ」と月音が標識を指さしました。
「方向は間違ってないみたいだぜ」
 しばらく歩いていると、砧は古びたうどん店の立て看板を見つけました。看板の文字は薄れ、ぐらりと傾いています。
 「ほう、うどん屋か」と言った月音が、からかうように続けます。
「――なあ嬢ちゃん、知ってるか。四国はうどんが有名なんだってよ」
 「本当!? わたしうどん大好き!」と笑顔を見せる砧に笑い返して、月音は今にも倒れそうな看板を道の端に除けます。煙草に火をつけてから再び歩き出すと、調子に乗って月音は話を続けました。
「他にもうどんの面白い話があるんだぜ。――嬢ちゃん、『きつねうどん』ってわかるか」
「もちろんよ。油揚げののったうどんのことでしょ?」
「ああ。じゃあ『たぬきうどん』は?」
「天かすののったうどんのことよね。――どこらへんが狸なのかわからないから、『たぬきうどん』って呼び方はちょっと不服なんだけど」
「狐が油揚げ、ってのはわかりやすいからな。――『たぬきうどん』は関東では確かに天かすがのったうどんのことだ。でも関西では、『たぬきうどん』ってのは存在しないんだよ」
「え!?」
 思ってもみなかったことを知らされ、驚く砧。月音は煙草の火を消しつつ、軽薄な調子で続けます。
「代わりに『たぬきそば』ってのがある。これは油揚げをのせた蕎麦のことだ。で、天かすをのせたうどんや蕎麦は、『ハイカラうどん』とか『ハイカラそば』って呼ばれてる」
 「ややこしい……。うどんを注文するときに苦労しそう」と、砧は思わず渋い顔。口の端を吊り上げた月音が愉快そうに言います。
「そんでもってさらにややこしいのが、ここ京都ではあんかけのかかったきつねうどんのことを『たぬきうどん』って言うんだ。『狐がどろりとしたあんかけで、狸にドロンと化けた』ってところから来たらしいぜ」
「なんで狐が狸に化けなきゃいけないの。だったら狸が狐に化けてもいいじゃない」
 と怒る砧に、「そりゃ名付けた人の問題ってわけで――」と返していた月音の言葉が、突然途切れました。砧は怪訝な顔で行く道の先を見つめます。

 前方に見えるのは、小高い山でした。山の斜面に沿って、朱く塗られた鳥居が何百本と並んでいます。暗闇の中、薄く差す月明かりに照らされた鳥居は神秘的な輝きを放ち、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだようでした。
「見つけた――」
 何かに憑かれたように月音が呟いて、そのままふらふらと山の方に向かいます。砧も慌てて追いかけようとするも、何故か足が動きません。
 ふいに、鳥居の奥の方がぽうっと明るくなりました。だんだん手前の方にまでその灯がともっていきます。
「あれは、狐火……?」
 お話でしか知らなかった光景に、砧は思わず息を呑みます。どこか寂しそうな笑顔を浮かべた月音が後ろを振り返り、ゆらあり、と手招きをしました。それにつられるようにして、砧も前に進みます。
 砧が山のふもとまで来た時、狐火が月音の周りを飛び交っているのが見えました。月音はそのまま、鳥居の中に吸い込まれるように歩いて行きます。止めなくちゃ、と思う砧の心とは裏腹に、また体が動きません。
 鳥居の群れの途中で立ち止まり、振り返った月音が片手を自分の頭上に挙げて、頭を軽くなぜるような動きをしました。そのまま腰の方まで手を動かし、またなぜるような仕草をします。
 その刹那、あたたかな光が現れ、月音の手の残像をなぞるように動き出しました。ぽうっと光ったと思えば、その光が狐の耳と尻尾に変わります。こんがり焼けたきつね色の三角の耳に、黄金色のなめらかな尻尾。口の端を吊り上げた月音が言いました。
「ありがとな、おかげで辿り着けたよ。狐の聖地――伏見稲荷大社に」
 絶句する砧をよそに、月音はすたすたと石段を登り、鳥居をくぐっていきます。そんな月音を祝福するように、どこからともなく狐の鳴き声が聞こえてきました。最後にもう一度、砧の方を振り返った月音が言います。
「もう迷わずに、ちゃんと四国に行くんだぞ――砧」
 最初で最後に呼ばれた名前が、砧の胸の中にぽうっと灯をともました。
 月音の姿が見えなくなるにつれて狐火はだんだんと消えていき、最後の灯が消えた時、辺りは完全な暗闇に包まれました。お月様でさえも雲の間に姿を隠してしまっています。
 独り残された砧は座り込み、小さく呟きました。
「くっそう、あいつ、狐だったのね。だましやがって」
 強がる言葉とは裏腹に、キヌタの目に涙が浮かんで、そのまま一粒、二粒と雫が地面に落ちていきます。辺りにはしゃくりあげる砧の声だけが響いています。

 ひとしきり泣いた後、砧はようやく涙を拭いて立ち上がりました。
「あーあ、せっかく『お仲間』が見つかったと思ったのにな」
 そう言って、砧は自分の体を見渡します。黒とこげ茶が混ざったまあるい耳に、ぽてんとしたふわふわの尻尾。紛れもない狸の証です。
 ――それにしても、人間に変化した時はびっくりしたなあ。まさかあれが『世界の変貌』だったなんて
 砧は思い返します。新宿駅に現れた小さな狸を人間たちが物珍しそうに眺める姿を。独りで歩いていたら、突然大きな音がして吹き飛ばされて――目が覚めたら人間の少女の姿になっていた時のことを。
 ――それでも狸の耳と尻尾だけは残っていたのが、なんだかすごく不思議だったな。それを言えば、初めて月音に会った時も驚いた。人間の青年の姿をしているのに、わたしと同じように狸の耳と尻尾が生えていたから。まあ、それも結局は『変化』のうちだったけれど
 砧は顔を上げて、空を見上げます。先程まで隠れていたお月様は顔を出し、砧を優しく照らしていました。
 そんなお月様を見ていると、砧はなんだか月見うどんが食べたくなってきました。
――四国はうどんが有名だって月音が言っていたから、四国に着いたらうどんのお店を探してみよう。それまでに月音みたいに上手に化けれるよう、もっと練習をしておかなくちゃな
 「よしっ!」と自分を勇気づけるように声を掛けて、砧は再び歩き出しました。
 夜のお散歩はまだ、つづく。

 「……夜のお散歩はまだ、つづく。――『キツネとタヌキの珍道中』、おしまい」
 わたしはすやすやと眠る傍らの息子を起こさないようにしながら、淡い栗毛を優しく撫でる。寝息を立てているのを確認してから、そうっとドアを閉めて部屋を後にした。
 「ふあぁ……」
 ずっと読み聞かせをしていたら、わたしまで眠くなってきたみたいだ。一つあくびをして、リビングのドアを開ける。テーブルに並ぶお酒の瓶とおつまみの油揚げに天かす。それとグラスが二つ。椅子に座って本を読んでいた影がわたしに気付き、こちらを向いた。
 「よう、嬢ちゃん。遅かったじゃねえか。つまみ、半分くらい食っちまったぞ」
それからわたしが小脇に抱えた本を目に留めて、彼が言う。
「――ったく、そんな分厚いの読み聞かせてたのかよ。そりゃ時間かかるわ」
「だって『どうしてもこれがいい』って言って聞かないから」
 「一族のお偉いさんたちが悪ノリでつくりやがった、ただの両親のなれそめ話だぞ」とぼやく口調とは裏腹に彼の瞳は優しい。それがなんだか可笑しくって、わたしは思わず頬を緩めた。
 「何だよ、急に笑って」
 何でもない、と誤魔化して、わたしは窓の方に向き直る。
 窓の外には、あの頃と同じ、沈むことのないお月様が浮かんでいた

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