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坐禅の先生のこと

「Yさん、私が生まれたのは1931年の満州事変の時でしょう、それから37年に日華事変、41年から太平洋戦争で、激動の時代だったわ。そして、戦後の混乱があって、私もよくこの年まで生きて来れたと思うわよ。コロナから始まって、最近は世の中の動きが何か変よね、昔に戻ったような感じ。あなたは元気かしら、昨日の台風で九州は大変でしたでしょう」

久しぶりにF先生から電話をいただいた。
先生は今年91歳になった。東京の両国、隅田川畔のマンションで50年間住み続けている。コロナ禍で外出は控え、マンションの廊下を歩いて運動していると、近くに住む妹さんから聞いていた。

「女が一人でこの年まで生きるのは大変なことよ。こうして長生きできたのは坐禅のおかげ。毎日お経をあげ、お腹に力を入れ坐っているわ。禅を通して、法の世界、大宇宙の世界と人生で出会えたことは本当に有難いこと。とにかく自分自身を拠り所にしなさい。焦ってはだめよ、辛抱が大切」

20年ほど前、私は知人の紹介で、F先生が主宰する在家の坐禅会に参加するようになった。マンションの一室に、近所の人や中年男女の会社員が毎月5-6名集まった。禅堂に見立てた6畳間で、坐禅と読経に集中する時間を過ごした。この部屋はまた茶室も兼ねていた。先生は茶道の教師もしており、坐禅が終わると抹茶を点て皆に振舞った。参加者の出入りはあったものの、私は坐った後に一息入れ、和菓子と抹茶をいただくことが楽しみで長続きできたのかもしれない。

坐禅会では、坐禅の仕方や禅の教えを学んだ。参加者には毎月、手書きの文字で印刷された「一盌」という冊子が配られた。そこには歴代の禅の老師が書かれた本の抜粋が載せられ、その文章と解説を味読することができた。また、冊子の中には、俳句コーナーがあり、会の参加者以外の人からも句が寄せられていた。私もその冊子に自分が坐禅会を通して学んだことを文章にして寄せた。そして、坐禅を始めてしばらくして、先生とご縁があった静岡県三島市にある龍澤寺で、一週間の接心という坐禅修行に参加した。そのことを先生にはとても喜んでいただいた。やがて、私にとって坐禅は日々の習慣となり、呼吸と心と体を整える術を学んだことは一生の財産になった。

長く続いた坐禅会は、先生の齢が80代に入り、体の負担もあって終了した。それでも、私は年に何度か先生のお宅を訪ね、坐禅をし、抹茶をいただきながらお話を伺った。コロナ前は、毎年うどんすき屋で忘年会を開き、他の坐禅仲間も交えて食事をするのが恒例となっていた。しかし、私が故郷の九州に引越しをしたこともあり、ここ数年はお預けになっていた。そうした中、最近は先生の方から、たまに冒頭のような様子伺いの電話をいただけるようになった。

F先生はずっと独身を貫かれており、その理由には戦争の影響があったのかもしれない。若い頃は京都、奈良の寺や神社を訪ね歩き、一時はキリスト教にも関心を持ち、宗教に救いを求める時期があったと伺った。そうした中、先に挙げた三島の龍澤寺で尊敬する老師との出会いがあり、寺に通いながら何年も続く厳しい修行を続けられた。そして、禅こそが自分が拠って立つ教えだと悟られた。その後、尼僧になろうとしたが、老師から在家で禅を広めるように諭されたとのこと。フリーランスの仕事を持ちながら、ずっと自立して生計を立て、坐禅会を主宰し、お茶を教え、自身も作句を続けられた。

四弘誓願(しくせいがん)という句がある。

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん せいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじん せいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょう せいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう せいがんじょう)

意訳すれば、この句は、人は助け合おう、迷いをなくそう、学び続けよう、正しい道を歩もう、という誓いだと理解している。般若心経などのお経と共に、坐禅会で教わった。四弘誓願は、鎌倉で参禅をしていた夏目漱石も唱えていたことを後で知り、嬉しく思ったことがある。私はこの四句を自分なりの戒めや心得としている。

互いの住む場所は離れたものの、先生も私も毎朝坐禅をし、四弘誓願を暗唱する。

「たくさんの人にこれまで禅を教えてきたけれど、なかなか身に着くのは難しいのよ、こうして、Yさんとは離れていても、坐禅の話ができるのは有難いことよ」と、先生の電話は続いた。

昔も今も、自分の仕事や生活について先生に詳しく話をしたことはない。しかし、何気ない会話の中で、その時々にぴったりの助言をいただき、驚くことが多々あった。私の引越しの時、記念にと頂いた著名な老師が書かれた色紙には「堪忍」の2文字が書かれていた。

そう遠くない先に、また、先生とお会いできることを楽しみにしている。
世の中が落ち着いたら、私の故郷の神社にも案内したいと思っている。

(2022年9月16日 脱稿)

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