リカバリーショット 夫婦の絆
「やっちゃん、もう母さんは我慢できないから家を出る、あなたには悪いけど、父さんには内緒でね、また、落ち着いたら連絡するから」
幼い頃、何度となく夜中に起こされ、母から真剣な表情でこの言葉を聞かされた。私はことの深刻さが分からず、母と別れるという実感もなかった。
それでも、家を出ると聞いた翌朝は早く目が覚め、真っ先に母の衣類が入った箪笥の引き出しを開けた。その度に、変わらない様子を確認し、心の内はホッとする気持ちと何も劇的なことが起こらず残念という気持ちがないまぜになっていた。
「何だ、その口の利き方は、気に入らないなら出ていけー!」
私が小学生の頃、夕飯時になると両親の口論は始まった。父はビールを飲みしばらく上機嫌で過ごすものの、母の発言の一つが癪に障り、いきなり大声を張り上げた。夕飯の雰囲気は一変し修羅場と化した。父には酒乱の気があった。普段は真面目一本の人だったが、酒が入ると人が変わった。
10歳ほど離れた兄や姉の話によると、昔はよく食事中に卓袱台返しがあったらしい。私も数回、目の前で卓袱台が引っくり返るのを目撃した。ご飯やおかずが飛び散るのを見て、もったいないやら、可笑しいやら、悲しい気持ちになった。兄の場合、こうした場面に何度も遭遇したことで、父への屈折した感情が生まれたかもしれない。
いつしか母は父には秘密にして煙草を始めた。夕食後は自分一人で家の裏庭に出て、煙草を吸いながら育てた草花を愛でた。父は年を取るにつれ、癇癪を起こす頻度は減ったが、何度か病に倒れ、そのつど母の世話になった。母が病気で寝込むことは一度もなかった。趣味を生きがいにし、生け花の教師となり、日本舞踊や茶道も習った。父は仕事だけの人だった。外での付き合いは一切なく、倹約家でたまに宝くじを買うことを楽しみにした。
父は戦前、少年の頃、当時は植民地の朝鮮から、後見人となる日本人医師に連れられ九州に渡って来た。日本で教育を受ける望みは果たせなかったが、若い頃に様々な職業を経験した。そして、戦後になり、独立して米穀商を営むまでになった。やがて、同じように、子供の頃に家族と一緒に朝鮮から渡ってきた母と知り合い結婚をした。
日本に父の家族はいなかったが、母には親も含めて7人の家族がいた。母以外の家族は九州を出て関東に移り住んだ。時は日本経済の高度成長の時代で、世の中は急激に変わり始めていた。母の弟たちは東京の町工場や運送会社で働いた。やがて、彼らは家庭を持ち、家族を連れて盆や正月には九州に遊びに来た。自分たちが育った故郷に戻ることを楽しみにしていた。
親戚から東京の話を聞きながら、父の口癖は自分もやがて東京に出て一旗揚げるというものだった。夕飯時に機嫌がいい時の父は、いつもこの話題を口にした。しかし、この言葉が実現した試しがなかった。地味だが堅い米屋の仕事を子供が成長するまで続けた。
家族の中で、やがて姉が九州で結婚し、兄は東京で職を得た。私も大学進学で東京に出た。私が上京した後、両親の二人だけの生活がどうだったかは想像がつかない。ただ、結論ははっきりしていた。父がようやく腹を決め、夫婦で関東に引越しすることを決断した。米穀店は後輩に譲った。還暦を少し前にした人生の一大決心だった。
両親が来てしばらくして、親戚が皆集まり、東京で父の還暦祝いの場がもたれた。父は親戚の中では年長者だった。宴席で母の兄弟は、子供がいない田舎での生活が寂しくて九州から出てきたのかと質問し父をからかった。そして、これからは夫婦仲良く静かな生活を過ごしてほしい、「兄さん、姉さんにやさしく頼みます」と訴えた。
周囲の心配をよそに、両親は驚くべき適応力を示した。父は還暦からと決めていたゴルフを始め、毎週の日程が埋まるようになった。母はかって望んだ蘭の栽培を始め、自分の時間を楽しんだ。平日は兄が経営する飲食店の手伝いをし、休みの時は夫婦してカラオケ教室に通い、夜は借りてきたビデオを家で楽しく見ていた。
引越し当初から両親と同居していた私は結婚を機に家を出ることになった。そして、夫婦で再び二人だけの生活に戻るという矢先、母が大病を患った。急にふさぎ込んだ母の病名はすぐには分からなかったが、後に、脳腫瘍であることが判明した。玉子の大きさほどの腫瘍が手術で摘出され、母の一命は取りとめた。
すぐに自宅で母の療養が始まり、父が初めて母を看病する役割を任された。家のことは何もできなかった父が豹変し、家事や母の看護に全身全霊で打ち込む姿は周囲を驚かせた。病床の母親の食事を介助し、寝返りを助け、トイレの世話もした。母に対して一生分の借りを返すような父の献身は家族や親戚を感動させた。それは、母の大病を機に、若い頃に苦労をかけた母への父による見事なリカバリーショットとなった。
夫婦の絆は、母の病気を機に強まり、母が回復した後もその関係は続いた。二人して一緒に旅行に出かけ、よく地域の行事にも参加した。私も自分の両親ながら、夫婦の形がこうして劇的に変化することがあることを知り感心した。
両親の年齢が70代に入ってから、夫婦は共に病気に悩まされた。父は脳梗塞で倒れ、やがて、母も同じ病気にかかり自宅で転倒した。父の方が症状は重く、今度は母が父を世話する番になった。それでも、夫婦仲は良く、互いの病を気遣いながら、毎晩テレビで相撲やプロ野球の観戦を楽しんだ。たまに実家に戻る私が二人の仲に入る余地がないと感じるほどだった。
父はやがて歩行ができなくなった。桜が満開の季節、母と私は父の車椅子を押し、三人で花見をしながら公園を散歩したことが最後の思い出となった。母は穏やかな表情で、静かになった父の姿を眺めていた。
周囲が父の容体を心配する中、今度は、母が突然末期ガンを宣告されることになった。家族や親戚は急な展開に言葉を失った。父親はすでに寝たきり状態で、意識も混濁し会話も難しい状態が続いていた。そして、瞬く間に母が先に旅立った。父は母を見送ることなく、しばらくして自分も追うようにして世を去った。
両親は九州の田舎から出て、関東で第2の人生を送った。何より、父が母に対して見事なリカバリーショットを打てたことは良かったと思っている。ただ、ふと、二人は九州を離れて本当に幸せだったのかと考えなくもない。一度だけ、両親は姉に連れられ九州に戻ったが、地元の人たちと再び会うことはなかった。引越しした当初500通はあった年賀状の数が、最後は50通ぐらいになったが、両親と故郷の人たちとの音信は最期まで続いた。
母とは見事な関係修復を果たした父を、両親と長く近くで暮らした兄がどう見ていたのか、子供の頃に感じた父へのわだかまりは消えたのか、今度久しぶりに会う兄に聞いてみる予定だ。
最後に、私は両親とは逆に、還暦を過ぎて九州に戻った。住む場所は少し離れているが故郷には何度も通っている。昔は父に米屋を継がないかと聞かれて断ったが、今聞かれたら継いでも良いと答えたかもしれない。
それぞれに第2の人生がある。私も家族を大切にして生きていきたいと思う。できれば、最後まで、リカバリーショットを振り切って。
(2022年10月12日 脱稿)
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