見出し画像

小説「英彦(えひこ)の峰の気を負いて」抜粋⑪

青の洞門と禅海和尚

「郁子ちゃん、『恩讐の彼方』って読んだことがある?菊池寛が書いた、もう百年前の小説だけど」平田厚は車を運転しながら、助手席に座る岩田郁子に話かけた。

「もちろん、だいたいの話は知ってるわよ、青の洞門にある洞窟は禅海和尚さんが鑿で掘って道を作ったのよね。禅海さんには、主君殺しという重い罪があって、その罪を贖うためだったと思ったけど、ただ、小説は読んだことないわ」岩田郁子が答えた。

「それと、確か、江戸にいた主君の子どもが和尚を探して、親の仇うちに来るのよね、私も本は読んだことないけど、そんな内容じゃない」後部座席に座る橋本雅子も身を乗り出して会話に入ってきた。

「そう、よく覚えてるね。それから、その子供が禅海和尚の仇討ちに来たけど、和尚は、分かった、命は差し出す、しかし、この洞窟が通じた後にしてくれって頼むわけさ。それで、その子も一緒に洞窟を掘って、早く仇討ちを果たそうとするんだけど、結局、最後は、主君の子が仇討ちを止めて、和尚と二人で洞窟を通す偉業をやり遂げた、という美談で終わるわけさ」

「あ、そう、そうだったわよね。確か、高い岩壁に鉄の鎖を辿りながら通る道があったけど、滑って人が下の川に落ちて、年に何人も犠牲になったので、岩盤を刳り貫いて、川に沿った道を通そうとしたのよね」橋本雅子が思い出したようにつないだ。

「そう、よく思い出したね」

「昔、子供の頃はよく遠足で来てたじゃない、その時に話を聞いたのかな」雅子は運転中の平田の後ろ頭を見ながら話を続けた。

「鬼太郎」での昼食後、三人は待ち合せて、耶馬渓の青の洞門に向けドライブをした。道中は20分ほどだった。

「実は昨日、歴史博物館に行ったじゃん。あの時、土産コーナーに菊池寛の『恩讐の彼方』と田山花袋の『耶馬渓紀行』の復刻本があったから、すぐに買って読んだんだよ。『恩讐の彼方』は短編だけど、菊池寛は本当にうまいね。調べたら、彼は相当書くのが早かったらしい。どうも、北九州の小倉に来た時、タクシーの運転手にこの辺りで何か面白い話はないかと訊いて、それで禅海和尚の話が出て、小説に仕立てたらしいんだよ。今でも、物語を事実と勘違いしている人も多いと思うけど、禅海和尚は実在の人物だけど、仇討ちの話はフィクション。この本で、悪人や人間の業を描くところがうまいんだよな。ぐいぐい話に引き込まれる。そして、最後は敵同士が和解するなんて、当時の人の心を鷲掴みにしたんだろうな」

「そうなんだ、面白そう、私も原作を読んでみようかな」橋本が反応した。

「当時の大ベストセラーなんだよ。菊池寛もそれで小説家としての地位を確立できたし、耶馬渓はこの本で有名になって、お陰で観光客がたくさん来たわけ。だから菊池寛は恩人だよ」

「あら、そうね。それで田山花袋の方はどうだったの?」岩田も興味が湧いて訊いた。

「いや、あの紀行文も面白かったよ。田山花袋が小杉放哉という画家と耶馬渓を旅する話なんだけど、今でいう半ば観光ガイドを兼ねたような紀行文だね、スケッチも入ってた。耶馬渓の平田という地区に元貴族院議員で、林業を営んでいた平田吉胤という素封家がいて、そう昔あった耶馬渓線のオーナーだった人だけど、彼の招きで結構、文化人が耶馬渓に来てたみたい。まあ、たまたま苗字は同じだけど、残念ながら、その立派な家系とうちは全く関係ないけど。彼が作った客人向けの迎賓館のような屋敷がまだ残ってて、そこは保存されて、一般公開もされてるみたい。今度、時間あったら見てくるよ。それと、小杉放哉さんという画家は知らなかったけど、この人の水墨画もいいんだよな。郁子ちゃん、ぜひ、調べてみて。あの時代、平田翁が東京から耶馬渓に案内した文化人の中には、夏目漱石や川端康成、大仏次郎とか錚々たる面々がいたみたい。何せ、当時、耶馬渓は新日本三景の一つに雑誌で選ばれたばかりだから、今では想像もできないくらい人気だったと思うよ」

「よく早く本で勉強したね。私も読んでみたくなった。耶馬渓の景観も今より昔の方がずっと趣があったはずよね」岩田も興味を示した。

「確かに、平田君、だてに長く記者をやってなかったね。どう、歴史小説の題材は中津に山ほどあるじゃない?」橋本が訊いた。

「いや、俺は耶馬渓の奥の山国出身だろう。耶馬渓の話は多少知ってるけど、城下町の方はあまり知らなかったんだよな。そう言えば、郁子ちゃん、医者の家だから知ってると思うけど、前に『村上医家資料館』と『大江医家資料館』に立ち寄ったことがあるけど、『解体新書』が陳列してあったよ。あまり知られてないけど『解体新書』を翻訳したのは江戸の中津藩にいた前野良沢だろう。杉田玄白の名前が有名だけど、彼はオランダ語はあまり読めなかったらしい。実際は学者肌の前野良沢が翻訳作業を完成させたんだって。吉村昭の『冬の鷹』という本に書いてあったよ」

「そうなんだ、私はその本も知らなかった。家の蔵には昔の蘭学の本がたくさんあるみたいよ。誰か研究してくれる人がいればいいんだけど。でも、今どき、蘭学なんて関心ある人はいるかしら」岩田がつぶやいた。

「私、歴史の本なんか読まないし、全部、初耳、平田君ありがとう、教えてくれて」橋本が後ろの席から前かがみになって声を出した。

やがて車は耶馬渓橋に着いた。橋は長崎の街にあるような石造りのアーチ型をしていて、オランダの技術をもとに100年前に作られた。通称オランダ橋と呼ばれ、最近、国の重要文化財として指定されていた。

橋を見学した後、三人は車で近くの青の洞門をくぐり抜け、禅海茶屋という茶店の駐車場に車を停めた。それから堤防に登り、山国川にかかる橋に足を伸ばした。

「ここから眺める競秀峰は絶景よね、この景色だと東京からお客さんを連れて来ても喜んでくれるかも」岩田が目を開きながらつぶやいた。

「そうなんだよね、悪くないよね。なかなかこの奇岩が連なる景色はないと思うよ」平田も頷きながら岩壁を見渡していた。

「ねえ、洞窟の中も通ってみる、昔、禅海和尚が鑿で洞窟を掘った跡があるんでしょう」橋本の掛け声で三人はさらに洞窟へと移動した。

「最近、俺でもね、故郷に何かお返しができるかを考えるようになったんだよ。俺の小学校の生徒が今は全校で50人もいないんだよ、昔の10分の1になったわけ。簡単に若い人が移住してくるのは難しいと思うけど、観光とかでまずはこの田舎に人が来てくれないかと思ってね。そのために、さすがに俺の力じゃ『恩讐の彼方』は書けないけど、昔話を題材にして、今どきの歴史ファンタジーを書いて、耶馬渓に関心をもってもらいたいと思ってね」

「へー、感心、平田君えらーい。そんなこと考えたこともなかったわ。私なんか、今の東京の生活が精一杯だから、故郷に恩返しなんて、全く思いもつかないわね。でも、今回、みんなの話を聞いてたら、郷土愛があるんで、正直、びっくりしたのよ、いつからそんなに関心があったんだって」橋本が洞窟の空いた穴から少しかがんで川面をみながら話をした。

「俺は東京で歴史作家協会に入ってるじゃない。そこで、いつも先輩からお前の故郷の歴史はどうなんだと聞かれるわけ、それで少しずつ勉強して急場しのぎをしてたのよ。でも、調べだすと、意外と奥が深くてここの歴史も面白いんだよね。それで小説を書くことも思いついたのよ」

2人の話を黙って聞きながら、岩田が何か閃いたように話をしだした。

「私も雅子ちゃんと同じ、あまり故郷への恩返しは考えたことなかったわ。でもそういう年になったのかなという気はみんなと過ごして感じ始めた。それでね、思い付きだけど、私、青の洞門は奇岩があって、山国川があって、空間が開けてるし、面白いなってさっきから思ってたの。何かこの空間を利用して、巨大なインスタレーションとか、洞窟の中をデジタルアーツで100年前の町並みを再現するとか、色々とできそう。耶馬渓には面白い題材があるので、東京のクリエーターやアーティストを今度、連れて来ようかしら」

「それ、面白そう、私も乗る。最近、会社も地域課題の解決だなんて、PRになりそうなことを色々とやろうとしてるのよ。少し、予算もあるかもしれないしね、アイデアがあったら教えて、私、掛け合ってみる」

三人は雑談をしながら、しばらくして、川べりにある禅海茶屋に向かった。

途中、小さな広場の空間に、禅海和尚の銅像と菊池寛の肖像画があり、説明書きが添えてあった。

茶屋では、郷土料理やスイーツが食べられ、店の中には、土産品がたくさん陳列されていた。注文を終えると、茶屋の主人が挨拶に来た。

「ようこそ、いらっしゃいませ。今日は何かの記念でお集まりでしょうか?」まだ、若い主人が愛嬌のある声で話しかけてきた。

「はい、そうなんですよ、高校の同窓会があって、みんな東京から来てるんですよ」平田が答えた。

「そうですか、ありがとうございます。私も以前、東京の六本木で仕事をしてました。爺さんも父親も早くに亡くなりまして、母親が店をするのも大変なんで、早めに30代で戻ってきました」

「あら、そうでしたか、東京の六本木はどちらで?」岩田郁子が興味を示して訊いた。

「六本木ヒルズとかで音響関係の仕事もしてました。もう10年ぐらい前のことですが」

「あら、そうだったの、私は森美術館で何度か仕事をしたわよ、奇遇ね。さっき、洞門を歩いて回ってきたけど、あの洞窟の中でプロジェクション・マッピングなんかできたらいいって話をしてたのよ。せっかく、音響関係の仕事をされてたのなら土地勘もあるでしょうし、ぜひ、検討してみてくださいよ」

「ありがとうございます。面白そうなアイデアですね。今ちょうど、地域の祭りをどうしようかと議論してました。なかなか、地元は若い人も少なくて、そうした意見は出なかったのですが、検討してみようかな。ありがとうございます」主人は思わぬアイデアを聞いて嬉しそうだった。

それから、抹茶クリーム餡蜜が運ばれ、主人は挨拶を終えて店の奥へと戻った。

「いい感じの方よね、何かお手伝いできるといいけど、若い人も頑張ってるね」岩田がそう言うと、

「なんか、郁子も地域貢献モードに入ってきたわね、私、遅れちゃう。まだ、何にもアイデアが浮かばない、どうしょう」橋本雅子が髪を掻き始める姿をみて、平田も郁子も笑った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?