見出し画像

ずれていく

心がずっと体に追いついていない感覚があった。

心と体がばらばらになっても、それでもまだ進もうとしていたら、とうとう壊れてしまった。

冬の繁忙期は一年で最も仕事が忙しい時期だが、今年は人手が足りなくて、例年以上の忙しさだった。
4日働いて1日休むシフトで、休日出勤となると休みが完全に飛んでしまう形になっていた。

職場のみんな、この環境でこなせているのだから、なんとかなるはずだと思った。疲れているだけだと思った。3月のはじめ、3回目の9連勤の途中で心がぽっきり折れて、昼休みに職場の洗面所でうずくまって泣いた。誰にもばれなかった。まだいけると思った。

だんだん仕事中に雑談ができなくなっていった。うまく言葉が出てこない。それでも仕事中は生徒と一対一で向き合わなければならなくて、1日11時間、たくさん喋った。たくさん励ました。

シャトルランの後半の、もうやめてしまいたいのにギリギリのところで一歩が線に届いてしまって続けるしかない感覚に似た気持ちをずっと抱いていた。本当はいつやめたっていいのに。助けてと思いながら、進むのも退くのも全部自分が決めることで、自分にしか自分を救えないこと、ずっとわかっていた。

朝と夜で気持ちに波があって、どちらが本当の自分なのかわからなくなりはじめた。朝はぐちゃぐちゃに悲しくて苦しいけれど、夜には何も感じないし、むしろ元気なときもあるから大丈夫だと思った。

ある日、とうとう仕事に行く段になっても嗚咽を止められなくなった。もうだめだと思った。それでも行こうとして、後輩と友達に出勤を止められた。新卒で入社して2年、はじめて仕事を休んだ。

病院で診断が出て、1ヶ月休職になった。自分で思っていた以上に限界だったことにびっくりした。最初に受診を勧めてくれた人がいなかったら、後輩があの日出勤を止めてくれなかったら、友達が最初の予約よりも予定を早めて病院にねじ込んでくれていなかったら、あのままずるずる働いていただろうなと思う。

助けてくれる人は周りにたくさんいたのに、全部ひとりでなんとかしてしまおうとしていた。ひとりで抱えなくてもいいことまで抱え込もうとしてしまっていた。心はずっとこれ以上無理だと言っていたけれど、体は動くからいけると思ってしまった。

思えばいつも自分の気持ちよりも、相手の中の正解を探すことに必死だった。自分の欲求が見えてこない。自分で自分の気持ちがよくわからなかった。

急に長い休みが目の前に横たわった。躁のときにたくさん買ってしまった本を読んだほうがいい気もするけど、たぶん本当は何もしないで雲が動くところとか風が流れるところとかを感じていたいのかもしれない。

薬の切れ目にはすこし波が出てくるけれど、睡眠薬と抗精神薬の力なのか、どこまでも思考が平坦で、ひたすらぼんやりしてしまう。自分の本当の心はどこにあるんだろう、と霞んだ頭の奥でときどき思う。

朝と夜で気持ちが違うとき、夏と冬の周期で状態が違うとき。どちらが本当なんだろう?薬ひとつで全部フラットになって、恐ろしいような、おもしろいような不思議な感じがする。たぶんどちらも違って、でも全部本当の自分なんだろう。

ずれてしまった自分の心が追いつくのを立ち止まって待つ間、自分の気持ちを見つめ直せたらなと思う。自分が本当に好きなことは何なのか、自分がうれしいと思うことは何なのか、自分のことを自分が一番知らないかもしれない。たぶん完全にもとには戻れないんだろうけれど、この先の自分がすこしでもやわらかくあれたらなと思う。