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対談:「写真の風景をめぐって」倉石信乃×篠田優×川崎祐

構成:川崎祐

「光景」から「未成の周辺」へ


篠田
 司会を務めることになりました写真家の篠田優です。倉石さん、川崎さんの展覧会「未成の周辺」をご覧になった印象はいかがでしたか?

倉石 「未成の周辺」には、写真集と展覧会という2つの形式があります。私は写真集『未成の周辺』に寄稿していますが、寄稿段階では完成した写真集の姿を見てはいません。そもそも写真集について何かを書くこと、それは「未来に向かって書く」ということでもあります。写真集が出来上がってはじめて、それを自分の書いたテクストともに見ることになる。今回の川崎さんの作品の場合、自分が予想していたものと出来上がったものとの間に少しずれがある印象を持ちました。そして今日展示を拝見して、展覧会は展覧会で写真集とはまたさらに少し違う印象を持ちました。性格の違うものが2つあるということです。

写真集『未成の周辺』(喫水線、2023年)表紙

最終的な提示形式が「1枚のプリントである」という性質が、展覧会「未成の周辺」にはあるように感じました。この展覧会からは1枚のプリントで表現しようとする意思が強くある。その感触は、当然ながら「ページを捲る」という運動が生じる写真集とは大きく異なるものです。日本の写真家には、作品の最終的な到達点に写真集を置くことが多かった。それは古い世代であればあるほどそうです。具体的には、森山大道さんや荒木経惟さんがそうです。彼らには作品の最終の提示形式として写真集を重視する傾向があります。他方、展覧会には彼らの写真集ほどには感銘を受けないことも正直ないとは言えない。川崎さんの場合は当然彼らとは違います。それは写真集と展示の両方に戦略を持っているからなのでしょうが、写真集と展覧会という性格の違う2つの形式について川崎さんはどのように考えているのか、それを少し聞いてみたいと思います。

川崎 ありがとうございます。まずは「未成の周辺」について制作過程から遡ってお話しします。それは前作「光景」とリンクするところがありますので「光景」の制作背景についてもそれなりに話すことになると思います。「未成の周辺」は2018年から制作を始めました。その前年に家族を撮影した「光景」で1_WALLというコンペディションでグランプリをもらって、1年後の2018年に「光景」に地元の風景も加えた「Scenes」という個展を開催しました。家族を撮影していくうちに自分が生まれ育って去っていった場所の風景、言い換えれば姉や母がどういう場所で生きてきたのかということがすごく気になりました。だけどそこで発表した地元の風景を撮った写真は気に入らなかった。あまりに「風景写真」という感じがして居心地が悪かったんです。ちょうどそのタイミングで新宮に行く機会を得て、新宮を撮るようになりました。同時に使用カメラもペンタックス67からマキナ67に変えました。ファインダーとレンズの位置が著しく違う中判レンジファインダーです。見えていたものと撮られた写真が大きくずれる。かつて自分が感じていた地元の郊外的な風景の機微をそのまま写すために、別の場所を撮ることやカメラ機が内含する構造上の瑕が生む視覚的なずれを必要としていたのかもしれません。そうして一時期2つの作品を並行して制作することを続けていたら、「光景」の風景の写り方が変わってきました。郊外や地方都市をクールに写した「郊外写真」ではなく、郊外的な風景、地方都市の風景が抱え込むぐずぐずの感触をきちんと捉えた写真というか、その写真は、ある種のサロンが実のところ常に・既に価値づけたいと欲している「写真」の範疇からは気持ちよく外れてくれる写真に、つまり、自分の経験に照らしてもとてもしっくりくる写真になってくれている感じがしました。そこでこれなら写真集にできるという確信を得て、『光景』という写真集を出版して、ニコンサロンで展覧会を開催しました。それが2019年です。こういった経緯もあるので「光景」と「未成の周辺」という2つの連作は地続きのところが間違いなくあります。

今回の個展「未成の周辺」では新宮の街並みを撮影した壁と熊野の風景をバスから写した壁の2つの種類の壁によって構成しています。新宮の壁に並べた写真は「光景」と地続きです。新宮は熊野の中心地でもあり、由緒ある神社や美しい風景が至るところに存在しているのですが、そういうものには反応できませんでした。反応できたのは空き地や荒地です。そこで「光景」がそうであったように、日本のどこにでもあるような、衰退する地方都市としての新宮に転がるなんでもない場所をどんどん撮っていきました。だけど、新宮を撮ること自体を目的化させたくはなかった。これは自分の性格でもあり作品の基調とも言えるのかもしれませんが、私は「終わらせたくない派」と言いますか、新宮に行って撮影して、はい、終わり、みたいなことってあまりしたくない。撮影する場所を撮影行為に従属させたくはないんです。写真家による撮影とは無関係に場所は場所として歴として存在しているわけですから。だから、新宮での撮影を目的化せずに撮影行為がずっと続いていく感じがいい。ありがたいことに新宮駅から奈良の大和八木駅までのおよそ170キロの道のりを日本最長の路面バスが走っていました。バスはまさに熊野の森の深いところをゆっくり走っていく。何事も終わらせたくない気質の者としては乗るしかない。だからバスに乗って熊野の「風景」を6時間半ほど撮り続けることを新宮に行く度に繰り返しました。そういうこともあってか、写真自体が循環するような構造が自然と出来上がっていった気がします。

写真展「未成の周辺」(kanzan gallery、東京、2023年)展示風景

撮影をはじめて4年ほど経ったタイミングで高田馬場のAlt_Mediumで展覧会を開催しました。それがこの作品の発表の最初です。ですので、最初のアウトプット形式は展示の形をしていました。そこではじめてこれまで撮ってきたものをきちんと見返して思索を介在させた。それまでは根を詰めて思索することはなかった。むしろ熊野に行く度に繰り返しているこの不思議な撮影行為はなんなのか、あるいは、その撮影行為から抽出される妙に気を引くイメージの面白さがなんなのかをずっと頭の中で転がしていた感じで、解釈や思索はあえて介在させませんでした。まだ作品になるかわからないものを中途半端に型にあてはめてフレーミングしたくはないという気持ちもあったのかもしれません。ですので、展示がうまくいくかどうかも分かりませんでした。だけどいざ展示で作品を開いてみて確信らしいものを得られるようならば、その時には写真集にしてみようと思っていました。その点が「光景」とは逆でした。「光景」は最初から写真集の形を想定していたので、作品の最終形は写真集だと考えているところがありました。だけど「未成の周辺」は写真集と写真展がある種パラレルな関係になっていました。展示で確かめて写真集の形を構想する、写真集ができたら写真集から展示の形も考えてみる、という感じですね。

Alt_Mediumでの展示で写真集になりうるという確信を得て、さらに写真集にするなら1つの書容しかないと思いました。この作品においてはどうも「ずれ」や「終わらない」という感触が大変重要な要素であるらしい。ですので、写真集では表と裏がない、両方とも表でも裏でもあるような写真集にするというコンセプトはわりと早いうちから決まっていました。一方で、写真展の場合は、写真集のような「捲る」動作によってイメージが重なり、同時にずれていく、そしてずれとともに違和感も重なっていくという捲る行為による効果は期待できません。ですのでAlt_Mediumの展示では、空間が一番狭くなったところで4列3行のグリットの壁を作りました。そうすると半強制的に写真1枚1枚を見て違和感を持たざるを得なくなる。だけどkanzan galleryのように割合広い空間になるとグリッドから離れて俯瞰できてしまいます。俯瞰視できてしまうと凝視することなく1枚の写真が持つ奇妙さや微妙なずれが素通りされてしまう。だから一番長い壁で12列×3行のグリッドを組んでバスの写真を配置しました。これだけ長い壁にこれだけの量の写真が、配置の意思を不用意に露呈させもするランダムではなくグリッドに並んでしまうともはや俯瞰することはできません。その結果観る人は1枚1枚をしっかり見るしかなくなる。そうすると写真を「見る」という行為の中でちょっとずつ認識のずれというか、「これはなんなんだろう」という<見ること=認識すること>のバグみたいなものが生まれてくるな、と思って展示を構想しました。そういう意味では倉石さんがおっしゃる「1枚をしっかり見せようとする意思がある」というご意見はその通りだろうと思います。

写真展「未成の周辺」(kanzan gallery、東京、2023年)展示風景

風景表現は「意味の芸術」か「描写の芸術」か?

倉石 前作の写真集『光景』ですが、この作品は家族のメンバーが写っていて、巻末に作家自身による私小説的なテクストが掲載されているという形式を持っていました。今伺った話では家族の背景と言っていいかはわかりませんが、今回の「未成の周辺」では、ある意味前作において「背景」としてあった風景自体が自立してきているように思います。『光景』という作品には明らかに物語が、家族の物語がありました。それは明らかなのだけれども、その内実をどう捉えたらいいのか。前作において理解するには複雑なものがあるなら、今作における風景の前景化にもたいへん複雑なものが含まれると思いました。

ところで、「風景」がひとつの表現として自立してくるのはおそらく17世紀のオランダにおいてです。そこで風景表現は「風景画」として確立されていきますが、それ以降、様々なことが「風景」には纏わりついてきます。たとえば「風景」には「象徴」と「描写」というわかりやすい二項対立があります。前者は、17世紀の宗教画や歴史画の背景にあったものが自立してくるそのプロセスの中で、一見それらしきものは何も写ってはいないような風景の中に、実は意味や象徴が隠されているんだよ、という考え方です。それに対して後者は、たとえば美術史家のスヴェトラーナ・アルパースが言うような「描写」、「風景」には背後の見えない部分に何かが象徴されているということよりも、まさに見えている「描写」それ自体が重要なのだという考え方です。ここでは「何を描くか」ではなく、「いかに描くか」ということが目指されているとも言えるわけですね。この非常に古くからある風景をめぐる二項対立、意味と非意味と言ってもいいかもしれないし、意味の芸術と描写の芸術と言い換えてもいいかもしれないですけども、この古き二項対立に対して、川崎さんはどのように捉えられていますか?

川崎 「光景」においては、「家族」というテーマ自体に象徴的な面があったので、それを作業の中で意識的に逸脱させていったところがあります。自分の存在をどこかで規定しまった家族であり周囲の風景を、切迫ながら、しかし同時に、表現を表現として成立させるために必要な冷淡さを確保しながら客観視して「家族」や「地方」「郊外」を抽象的なレベルで、あるいは想像的なレベルで解体していった側面があります。そこには日本の写真において「家族」や「地方」を対象にした作品がどこか暗黙のうちに自明視してきた、言ってしまえば写真家にとって非常に都合の良い「物語」の縛りを解くことはできないか、という魂胆も実はありました。そういう試行錯誤がこの作品が時に「批評的」と言われる理由なのかもしれません。

写真集『光景』(赤々舎、2019年)

さて、「未成の周辺」ですが、そもそも和歌山県新宮市という場所が特権的な場所であり、象徴的な場所です。それは日本の歴史においてもそうですし、精神史、文化史においても確実にそう言えると思います。熊野は間違いなく中央の権力が織りなす強大な物語が生まれてきた場所です。一方で小栗判官の物語が「餓鬼阿弥」、つまり中世におけるハンセン病者のそれであったことを想起すれば明らかなように、いわゆる「被差別」の文脈も脈々と紡がれてきた場所です。ここに一遍上人の遊行や近代以降であれば大逆事件を付け加えてもいいかもしれない。いずれにせよ私は熊野という場所に、物語過剰な場所である、という認識を持っていました。そういう意味で「未成の周辺」は、熊野を聖地としてではなく現代の地方都市として提示すること、そして、熊野らしい風景を常に・既に失敗した風景写真として提示すること、この2つの方法論によって熊野の風景にまつわる象徴や意味、特権性を逸脱させようとした試みだったように思います。

“Bus Photographs”の系譜と逸脱

篠田 僕は「未成の周辺」という作品を、昨年のAlt_Mediumでの展示で初めて見ました。それは今回の展示の半分くらいの規模のものです。今回はそれを拡大したような展示ですが、昨年のものと基本的な構成に変わりはありません。しかし、1つ大きな違いがあります。それは昨年の段階では写真集ができていなかったということです。今回の展覧会では写真集と展示物の両者を見比べるという鑑賞体験が生じます。写真集を拝見すると、構成的には写真が横並びになっていて、基本的にはリニアに進んで行きます。一方で、展覧会において特徴的なのは、バスの車窓から撮影した写真群がグリッドで配置されているということです。作品を横並びに見ていく際に生じるストーリー性を阻害するような性格が、展覧会「未成の周辺」にはあると思うのですが、写真集では版面上でも可能であったはずのグリッドによる表現が用いられていません。つまり、写真集ではイメージが横並びで表現されている一方、展示では複層的、あるいは迂遠的と言ってもいいグリッドで表現されている。一般的にはどちらか一方を選択するのが普通だと思うのですが、この2つの差異が同時に存在することについてどうお考えですか?

写真展「未成の周辺」(Alt_Medium、東京、2022年)展示風景

川崎 写真集をグリッドで表現することは考えていなかったというか、正直に言うと頭に無かったです(笑)。ですので今おっしゃっていただいてハッとしました。その手があったか、と。とはいえ写真集は横並びで、確かにリニアな構造となっていますが、一方で裏表の概念を無くすことで「終わらない」という構造を持ち込んでいます。一見線的には流れているものの、文字通り「終わらない」、区切りようがない、という状況を意識的に作っています。でも、展示では空間の制約もあってそのような状況を空間の中に作ることが難しい。今回の会場よりも対となる壁同士の距離がもっと広い場所になれば横に1枚1枚並べても成立はするのですが、展覧会はどうしても場所に依存します。だから写真集の意図をそのまま再現することは難しい。その代わりと言ってはなんですが、展示では車窓から撮った写真群をグリッドで表現することで脱構築が「終わらない」構造を持ち込んでいるつもりです。その組み立て論理は至ってシンプルなものでして、一番上の列が時系列、真ん中の列が視覚、つまり「見え(てい)る・見え(てい)ない」という状況に自己言及的なもの、一番下の列が上2つの構成が要請するものを並べている、という構造体です。

写真展「未成の周辺」(kanzan gallery、東京、2023年)展示風景

篠田 つまり展覧会でのバスから撮った写真群はグリッド状に構成されてはいるものの、異なる類の連続性が積み重なったものとして受け取れるように組んでいる、と?

川崎 そうですね。先ほども申し上げたように展示では写真を1枚として見ざるを得なくなるような仕掛けも設けています。その意味では1枚の写真がストーリーを逸脱させる効果はより強くなるだろうとは思っていました。つまり分かりやすく組んでもきちんと逸脱してくれる。

篠田 なるほど。今度は倉石さんに聞いてみたいのですが、車窓から写真を撮るという行為には先行例がいくつかあると思います。それこそ倉石さんが横浜美術館でキュレーションなさったロバート・フランク。彼はバスの車窓から写真を撮っていますし、そのフランクにオマージュを捧げるように荒木経惟さんが「車窓=クルマド」というシリーズを作っています。また、鈴木理策さんが『PILES OF TIME』という一種映像的な作品を撮られている。鈴木さんの作品は車窓写真と言っていいものではないかもしれませんが、ロバート・フランクらの作品に少し類似したものを感じさせます。川崎さんの作品もこれらの車窓の風景といったもの、移動体から写真家が写真を撮るという作品の系譜に位置付けられるかもしれません。そういった点について倉石さんはどうお考えですか?

倉石 ロバート・フランクがいわゆる“Bus Photographs”と呼ばれるシリーズを撮ったのは“The Americans”という有名な写真集を出した後でした。当時、フランクは、“Bus Photographs”について自分の最後の写真であるとも言っていて、実際その後しばらくの間は本格的に写真を撮ることを辞め、映画に向かっていくことになります。ですから“Bus Photographs”は、フランクにとってある種の画期だったという側面があります。彼は、バスから写真を撮った後すぐに、ライカをカップボードに置き、映画の道に進む。そのフランクが“Bus Photographs”について興味深いことを言っています。「次々にその写真を見ていきたい。それはまさに「乗っていく」のだ」と。通常写真を撮るとか見るという行為は、立ち止まって静止した状態で行われるわけですが、“Bus Photographs”では何か自分を運び去るものに乗り続けている状態で、次々に現れるものを撮影していく点で通常の撮影行為とは対照的であり、それらの写真を見ることも同様だということなのでしょう。この連作はフランクにとって映画を撮ることへの布石とも捉えられるわけで、私にはとても興味深い発言でした。

フランクの言う「次々に」という感覚は、川崎さんの写真の中にもあると思うんです。ただし、ニューヨークのマンハッタンを撮影したフランクと、川崎さんの、いわば聖地と呼んでよい熊野の森の近傍を走行して、奈良の橿原、ある意味では捏造された聖地とでも呼びうる場所へと向かっていく、そのあいだを撮り続ける行為とはやはり意味合いがだいぶ異なります。近畿地方全体を貫くヤマト王権全体の巡礼地だった熊野という、巨大な物語が生じてきた場所を走り抜けていくあいだに現れ続ける風景を、川崎さんは実にこともなげな風情で写している。私は拝見しながら、この点に批評的な態度を受け取りました。ところで、聖地の現在形という意味では、熊野を撮った写真家に鈴木理策さんがいます。鈴木さんの『海と山のあいだ』という折口信夫の書籍のようなタイトルの、川崎さんの作品とは対照的な作品をやはり先行例としてどうしても思い浮かべることになります。鈴木さんは写真集『未成の周辺』にも帯文を寄稿されていますが、鈴木さんの熊野へのアプローチについてはどのような印象を持っていますか?

川崎 もちろん頭にはありました。そもそも大先輩ですし、個人的にも付き合いがありますし。私が一時期勤務していた会社のライブラリーにはとても多くの写真集が置かれていました。そして暇なときによくそこで写真集を読んでいました。読んだものの書名や著者名は覚えていませんが、有名な写真集も相当冊数置かれていたはずで、写真集というものはその頃に集中して読んだ記憶があります。ですので、写真集のなんとなくのイメージはそのときに作られた部分があります。しかし、その後全く別のところで鈴木理策さんの『PILES OF TIME』を読んで驚きました。率直にとても面白かった。『PILES OF TIME』からは、写真を作品として表現するとき、写真1枚を強烈に見せるだけでは成り立たないという意識が非常に強く脈打っているように感じられました。

似たような写真を連続して並べる場合、我々はそれをシークエンスと呼びますが、並べられた2枚なり3枚なりの写真に時間や具体的な撮影のシチュエーションにおける関係性があるかどうかなんて、本当にはわかりません。似ている、続いている気がする、というだけの理由でなんとなくそう呼んでいる場合がほとんどだと思います。つまり、写真を見るとき、我々は頭の中で写真同士の関係がさもそうであったかのように遡及的に想像して写真が語るものを見繕っている、ということなのですが、そういう効果なり現象に極めて意識的であるという印象を『PILES OF TIME』からは感じました。それはそれまで見てきた写真集に抱いた印象とは大きく異なるもので、とても新鮮だったんです。『PILES OF TIME』でなされた人間の視覚に対して多分に自己言及的な熊野と東京の往還、あるいは、恐山と東京の往還、要するに聖地と日常性との往還は、当時の「聖地」へのアプローチとしては画期的なものだったのではないか、と思っています。

その後の熊野を撮影したシリーズに関しては、そこが写真家の出身地であることの説得性がまずもってあるような気がします。私は熊野の出身者ではなく、部外者です。ですので、私がそれをやってしまうと怪我をするというか、そもそも作品として成り立たないんじゃないかという危惧がどうしても先立ってしまいます。『PILES OF TIME』以降の鈴木理策さんの熊野をめぐる諸作品からは、ある特定の土地において写真家が写真を撮って作品にすることを可能ならしめる条件、あるいは、作品にしたところで嫌な感じがしない際(きわ)のようなところ、もっと言えば、その土地との関係において写真家という存在が成り立つぎりぎりの条件を確かめている、そんな印象を受けています。そういった試みがとても美しい写真として表現されている。1枚1枚へのこだわりも相当強くあり、そういう意味でも説得力がある、という認識です。

写真集『未成の周辺』表紙

写真家は写真を語りうるのか?

倉石 なるほど。よく分かりました。この話題に続けて「未成の周辺」における「場所」の話をするとなるとやはり川崎さんが新宮と出会われたきっかけを聞きたくなります。つまり川崎さんが学生時代に研究テーマとされた中上健次という小説家について、さらにはそもそも中上健次とどのように出会われたのかをお話しいただけますか?

川崎 写真集『未成の周辺』のテクストに関わることですね。今回の作品とテクストにおいてテーマのひとつに設定していたことが、写真を語ることの困難、もっと言えば、写真家が写真について語ることの困難でした。つまり、写真とはそれを撮った本人でさえ大切なある部分を語れないことをその特性として持っていて、しかし、それでも写真を撮った人は写真自体を殺さない限りにおいて写真について言葉を費やす必要がある、だからこそ、いかに写真を語るかということが大切にはなるものの、しかしやっぱり、写真を語ることはその都度写真の持つその大切な何かを語り落としてしまう、だけどそれでもなお、その不可能性のうちにある種の倫理として写真家は語らなくてはいけない、では、いかにして写真家は写真を語りうるのか、ということで、さらに今まさに述べてきたようなことを実践的にエクリチュールとして記述していく、ということでした。そしてそんな意識下において「物語」をどこかで回避しながら書かれたテクストにおいて、結果的に今回の作品へと至る重要な役割を担った出来事として言及されたのが、実在した文芸批評家である「Kさん」との記憶と中上健次の小説を「読むこと」でした。

とまれ、中上健次の小説を初めて読んだときには、こういうものがあるのか、ずいぶん不思議ななりをしている小説だな、という感想を持った覚えがあります。たとえば『枯木灘』にはとても迫ってくるものがあったし、文章にも大変魅了された記憶があるのだけれど、柄谷行人が書いているように実際には『枯木灘』にドラマ的な起伏ってそんなにありません。その特徴は秋幸三部作の最終作『地の果て 至上の時』においてより顕著で、率直に言ってあの小説は物語的とは言えないと思います。どこかアンチ・ロマンを徹底しているところがあります。文章にものすごく迫力があって読ませてしまうんだけど、捉えどころがないというか。だからどうしてこんな奇妙な小説をこの人は書いてしまったんだろうと不思議に思って、中上健次で卒論を書くことを選びました。

周知の通り中上健次は被差別部落出身の小説家です。彼の作品には被差別という文脈が明確にあります。あえて際立たせて言うならば、だからこそ中上健次は、有史以来、日本の中心に位置してきた権力機構が差し出してくる強大な言葉や物語というものにその魅力の源泉を正確に受け取りながら、抵抗しなくてはいけない部分があった。必然的に物語へも屈折した態度を取ることになる。当然ながら言葉との厳しい格闘もあった。それゆえに中上健次の書いたテクストからは魅惑的な言葉が吐き出されたし、現在の地点から読んでもアクチュアルで複雑な問題系に触れていると見做しうる非常に魅力的な、反物語としての小説が紡がれた、とひとまず言ってもよいかと思います。

そして、中上健次を読んでいくきっかけとなったのが、大学時代に私がモグリで出ていたゼミの教授だった文芸批評家・Kさんとのエピソードです。ある日、私がKさんと研究室で中上健次について話していたら、昔こういうものを書いたことがあると言って私に彼が書いた中上論について滔々と語り出す、ということがありました。その経験がある種の誘いとなって私はより深く中上健次の、さらには文学の深みにはまっていきました。その後Kさんとは疎遠になってしまったのですが、『未成の周辺』という写真集を作って、さらにそれについて何がしかを語ろうとしたとき、期せずしてKさんとの思い出が回帰してくることとなりました。写真家が十全には語り得ない写真というものを語ることが、結局は写真についてどうしたって語り得ないものの周囲をぐるぐる回って迂遠的に語っていくことでしかないのであれば、Kさんのことは必ず語らなくてはいけない。書きながらそう思いました。そうしてKさんについて語っていくとテクストは中上健次のテクストを「読むこと」を辿り、さらにはKさん自身のある種センシティヴな記憶と経験に触れることを経て、最終的には覚えていることと見ることが明瞭には判別できなくなる状態に言及することになりました。しかし書いている実感としてはそれは、意図してそうしたというよりも、書いているうちに自然とそうなった、という感触が気分的には近しいものがあります。

風景は「言葉」による制度?

倉石 『未成の周辺』という写真集には川崎さんによる意表をついたテクストが収録されています。前作『光景』でもそうでしたが、川崎さんの写真集は、川崎さんによる批評のようなエッセイのようなテクストが収録されていることが大きな特徴と言えると思います。しかし、その文章の質感に一番似ているのはやはり小説ではないかと私は思います。それはたとえば『未成の周辺』に収録されたテクスト「風景の貌をめぐって」において、実在する人物を「Kさん」と記述することで「Kさん」がどこか物語の中の主人公のような雰囲気を纏うところからもそう言えるように思います。そして、このK氏という現実の日本の文芸批評家は、日本の写真史において重要な役割を果たしたと言ってもよい人物でもあります。

K氏は1980年代の終わりに風景論を書きますが、それは志賀重昂の『日本風景論』を批判的な起源として書き起こされたテクストでした。おそらくこのテクストがきっかけとなって93年に東京都写真美術館で開催された「発現する風景 クリティカルランドスケープ」展の図録にK氏は寄稿することになります。この展覧会は、現在アーティゾン美術館にいらっしゃる笠原美智子さんのキュレーションによるもので、ベッヒャー・シューレや北島敬三さんなどの「風景写真」が紹介され、日本におけるその後の現代写真を予見する性格を持っていました。K氏が寄稿した文章に私はさほど説得された覚えはないのですが、現代写真の転換期に行われた予言的で重要な展覧会への寄稿ということでよく記憶に残っています。だから川崎さんのテクストを読みながら思わずハッとさせられたところがありました。 

そのK氏のテクストが批評的対象としていたのが柄谷行人の論考「風景の発見」でした。東京都写真美術館で開催されている「風景論以後」展で中心的な位置を占める「風景論」はそれより少し前のものであり、柄谷による風景論は70年代のその「風景論」を受けて書かれた80年代に最も影響力があった風景論だったと思います。それに対するひとつの応答としてK氏による論考があった。柄谷が定義した「風景」を単純化して言えば、風景とは一度発見されるとその起源が問われなくなる制度である、ということ、そして、風景とは外を見ない人間、つまり、内面的な人間によって逆説的に発見される、ということでした。要するに風景とは、もちろん視覚的な対象ではあるものの、むしろそれ以上に言葉によるもの、言葉による制度であるということです。あるいは、風景は常に言葉を欲している、と言い換えることができるかもしれません。

川崎さんの仕事は、この「風景と言葉が分かち難く結びついている」という構造自体を明確化しているところがあります。実際川崎さんの仕事では風景と言葉は常にパラレルに存在している。さらに川崎さんの仕事は、風景が常に言葉を欲している、という風景の制度性にも自己言及的であるように思えます。風景は言葉と同様に一度固定されてしまうと、抑圧的に働いてしまうものでもありますよね。「福島」、「広島」、「沖縄」のような地名がそうであるように。もっと遡れば、風景とは今以上により言葉だった、とも言えるわけです。そもそもそれは和歌に詠み込まれた「歌枕」だったのだから。そしてとても重たい歌枕でもある「熊野」に対して、川崎さんは写真とテクストによって、ある意味では迂遠的にアプローチしています。決して正面からぶつかるわけではなくて、相撲にたとえるなら、少し離れたところからまわしを掴んでこともなげに崩そうとしている、そんな仕事のようだと写真集を拝見しながら思っておりました。

写真集『未成の周辺』(喫水線、2023年)より

写真とテクストの関係をめぐって

篠田 僕はバスの車窓から撮っている写真に特に感心しているのですが、それはここまで交わされてきた風景に関する議論と関わっているところがあります。今、倉石さんが述べられたように「風景とは一種の制度である」と言ったときに、かなり雑な言い方をすればそれは「近代において生じた制度」と言い換えることもできるように思います。また、僕も川崎さんも使っている写真というメディアやシステムがそもそも近代の産物です。そのように考えれば、風景と風景を被写体にする写真や映像などの複製技術は、その起源において非常に近しいものである、と言えるかもしれない。そしてかつ、川崎さんがバスから撮影した風景写真自体が、どこか風景というものに対する自己言及的な側面を持っているような感じがします。

倉石さんが先ほど言及された「風景論以後」展でも大きく取り上げられている松田政男は彼が70年代に提唱した「風景論」を、確か東名高速を車で走っているときに車窓から次々と飛び込んでくる景色がスクリーンにうつる映像のように見える、と感じたところから発想したように記憶しています。対して川崎さんは、バスから撮影した写真において、自分が固定された状態で目の前に流れてくるものをある意味ではオートマティックに撮影して、そこから現れる映像を作品化している。僕はその行為自体がスクリーンに映し出される映像を見ている体験に近いんじゃないかと思います。このように見立てたとき、川崎さんがバスの車窓から撮った写真は一種写真論的な写真、映像論的な写真、とでも呼べるのではないか。そのように思います。

くわえて、愛好的なジャンルとしての風景=自然写真ではない「風景写真」を撮影して作品にするとき、写真家はファインダー越しに広がる「風景」に対してどこか批判的なまなざしを持たざるを得ないように思います。ただし、先ほど倉石さんも述べられたように風景と写真は互いに密着して成立している側面がある。そのため、「風景」を批判することはどこかで写真自体を批判することに帰着してしまう。少なくともその可能性を常に滲ませている。そういう事態を鑑みたとき、川崎さんが書く、写真家が書く文章としてははっきりと「破格」と呼んでよいテクスト、よく見る写真家の自己解説の類からははっきりと逸脱している、分量面からも文体面からも間違いなく「破格」なテクストが、写真と結託することで何か重大な事をなそうとしている気がします。それは確かに一種の風景批判を含むものでしょう。しかしそれだけではない。あえて言葉にするならば、僕は川崎さんがそこに批判含みの「風景」とは別のものを、つまり「故郷」のようなものを見出そうとしているのではないかと思っています。そのためにこそ川崎さんは写真とテクストをパラレルな形で用いているのではないか。そのようには考えられませんか?

川崎 ありがとうございます。こういった少し変わった風景写真を撮ることも、そして写真に密着しながらテクストを書くことも、デビュー作である『光景』という作品で、家族と地元の風景を撮影した経験がわりに大きいと思っています。つまり、私はあの作品を制作する過程で、写真家だから、家族だから、身近な存在だから許されることなど何もない、という当たり前のことを学びました。それはたとえば、撮影者に身近な者を被写体にするときに起こりがちな他者への配慮の消失という危うさ、作家性のようなものを無前提に肯定するときに生じる耐えがたい傲慢さ、それを半ば自覚しつつも確信犯的にそれを覆い隠す卑しさ、といったものになるのかもしれません。

これは家族写真についてではありませんが、倉石さんが『反写真論』の中で手厳しく批判している「写真家」がいます。彼は90年代の東京を舞台に様々なアパートの部屋を撮影して、その乱雑な「スタイル」を写真として並べた写真集を出版しました。1枚1枚の写真にはエスノグラフィーめいた風情もあるし、奇異な感じもして、面白い。本当に面白いと思う。ただ、果たしてそれでいいのか。読んでいるうちにそういう疑問が沸々とわいてくる。だから倉石さんは『反写真論』の中で件の「写真家」の仕事を「まなざしのオリエンタリズム」という観点から根本的に批判されました。無論、私はそれを後年知るのですが、倉石さんのテクストを読んで自省するわけですね。面白ければそれでいいのか、本当にそれだけでいいのか、と。そういう自省を「光景」の制作過程では繰り返し続けたところがあります。だから撮影過程において自然と母も姉も父も「家族」を前提とするのではなく、ただの人として、けれども、「わたし」という人間に致命的な影響を与えてしまった他者として撮影するようになりました。そういうモードを引きずりながら周囲の風景も撮るようになり、さらにその少し先に「未成の周辺」という作品はあります。

「未成の周辺」にはもうひとつ「光景」と地続きのことがあります。それは大袈裟に言えば撮影の倫理に関わるものかもしれません。バスの車窓からの写真は、だいたい2分に1度の間隔でシャッターを押しています。車窓に次々と現れる風景って実際には選びようがないんですよね。だから最初の頃は2分に1度の間隔でオートマティックに撮っていました。だけどあるとき、流れていく風景を選んでいる時間があることに気づきました。そこからは選ぶ時間を考慮に入れて、シャッターを押すタイミングも1分半から2分半と緩く設定するようになったんです。写真を撮ることの責任を取らないとダメだな、と思って。だけど状況的には移動しているし、揺れているし、そもそも未明の頃から撮っているしで、風景写真として必ず失敗するようになってるんですよね。だからその選択自体にほとんど意味はありません。しかし、それでも、写真を撮ることのうちにある種の倫理を介在させないといよいよ底が抜けてしまうと思って、無意味だとわかっている選択を撮影行為に介在させ続けました。だからバスからの写真には、不完全なオートマティズムというか、作家がいながら消えているような性格があるかもしれません。

テクストに関しては、写真と言葉が結託して何かを生み出さんとするところまでしか書けないのかもな、とも思っています。それに実際に書いているときは書いているものがどこに向かうかなんて正直わかっていません。だけど、「写真とともに書くこと」において言葉と写真のどちらかに主導権があるような書き方をしたくはない。写真と言葉が平衡状態にあるような書き方をいつも模索しているところがあります。それは1枚の写真の持つ意味性が抜き取られているようなところが私の写真にはあると思うからです。写真を言葉の素材にしたり、写真を作者が欲する物語に都合よく収めてしまえば、それは写真それ自体を大きく裏切ることになる。もしも私が書くテクストの中に写真と言葉の関係自体に言及するような批評的な性格があるなら、それは写真とともに書くことをめぐってわからないうちに書いているからにすぎないように思います。

破綻する地方と差異/差別

篠田 バスの車窓からの写真にはオートマティックなところがあるけど、撮影者主体を完全に放棄してしまっているのではない。方法論的には、技術的にも、感性的にも、そして思想的にも卓越した撮影者によって切り取られた決定的瞬間が生じさせる芸術というかつて幸福にも信じられていた写真、あるいは写真家をめぐる幻想=神話に依拠するのではなく、バスの運行のような偶然性に身を委ねてしまう。しかしそこで撮影者の主体性を全て放棄してしまえば写真家という存在は一種無責任な状態に陥ることになる。それは写真家に纏わるあの古めかしい神話をある意味では反復するだけであるから、倫理としてそれを拒否する。今述べられた「未成の周辺」の方法論とはそういうものでした。僕も「未成の周辺」が作品として成り立つためにはその方法しかなかったように思います。そしてそのこと自体、現在写真家に突きつけられている非常にクリティカルな問いかけであるようにも思います。そこでぜひ倉石さんにお聞きしたいと思います。今危機に瀕している写真家主体について倉石さんはどのようにお考えですか?

倉石 難しい問題ですよね。「風景論以後」展でも、別の展覧会でも、最近は写真がとても不利な局面に置かれている状況をよく目にします。映像と写真、あるいは、写真と絵画でもいいのですが、写真が別のジャンルの表現と同じ空間の中で展示されるということ自体に難しさを感じてしまいます。しかしそれは写真家の責任ではなく、キュレーションや批評の責任なのかもしれません。写真をめぐるこのような状況をなんとかしなくてはいけない、とは思うものの、ではどうすればいいのかわからなくなっているのが、写真、あるいは写真家をめぐる「現在」なのかもしれません。

さて、写真家主体をめぐる話からはややずれるかもしれませんが、川崎さんの前作「光景」では「日常」が重要な主題として提示されていました。対して、70年代に松田政男らが描いた「日常」をめぐる物語とはこういうものでした。地方であれ都市であれどこに行ってものっぺりとした、実感として触知し難い凡庸な空間が広がっている、そんな日常的な「風景」は解体されて然るべきものである−−。そこには高度資本主義経済およびその浸透した社会と政治の体制への強い批判がありました。当時の言葉を使えば「亀裂を与えること」。無論、高度資本主義社会それ自体は到底解体できないにせよ、松田らはそうやって表現において抵抗の意思を示しました。しかしそれは本当にそうだったのか。戦略的にそう見做しただけだったのか。後に続く私たちには色んな問いかえしが可能であり、むしろそうすべきだと思います。つまりあのとき見い出すべきだったのは、地方と中央の同一性ではなく、むしろ地方と中央における、地方同士における、地方内部における様々な差異ではなかったのか、と。そうした複合的な差異こそを徹底して露呈させていくべきではなかったのか、と。そのように思います。

そしておそらくこのことは、当時、写真家に気付かれていた面もあるかと思います。事実、「風景から事物へ」という流れは、ミクロな次元でのものを見て差異を見出す、という見方であり戦略でした。一方でコンポラ写真もあった。最終的にプロヴォーグに勝利したとも言えるコンポラ写真は、ミクロな日常を平静に眺めていくという戦略でした。当時の流行った言葉で言えば「status quo=現状維持」ですね。日常を眺め、まなざされた生活を少なくともいったんは肯定していくことにコンポラ写真の特徴はありましたが、これに激しく苛立ったのが多木浩二と中平卓馬です。その苛立ちの幾許かを、『光景』という作品は共有しているように思います。川崎さんはその苛立ちを、写真とある意味過剰と言ってもよいテクストによって表現されていました。そしてそこに私も深く共感するところがあった。コンポラでも、あるいはポスト・コンポラでもないもの。「日常」が端的に風化に晒され、既に崩壊してしまっている感覚。『光景』ではそのことが徹底して即物的に捉えられており、かなり衝撃を受けた記憶があります。

写真集『光景』より

ただし、人が写っている写真には写真の「語り」が本来持ちうる以上の「暴露」が生じるものです。そしてその暴露は、『光景』においても確かに起こっていたと思います。一方で風景写真において写真家は、風景の中に残酷に踏み込んでいくのと同時にどこかでその風景から撤退せざるをえないところがあるように思います。風景に迫りつつ退いているというか。「風景写真」を撮るとき、写真家は風景と微妙な距離感を保ちながら戦わなければいけないところがある。そういう意味では「未成の周辺」というシリーズは、風化し、破綻する風景に踏み込みつつも、一歩引いたところでその風景を見つめている感じがあります。写真家と風景のこの距離感について、「光景」シリーズからの持続と変化を踏まえて教えていただけますか?

写真集『未成の周辺』(喫水線、2023年)より

写真が何かを「暴露」するとき

川崎 「光景」では、倉石さんが先ほど言及された「地方」に見えにくいままに存在する「差異」をいかに捉えるか、ということを意識していたと思います。とはいえ、それはとても難しいことです。だから違和への気づきをできる限りそのまま表現することを努めました。ここで言う違和とはどういうものか……やはり迂遠的な説明になってしまいますが、たとえば、西川美和さんの映画作品に『ゆれる』という作品があります。ものすごく端折って言えば、あの映画はある地方の家庭を舞台にした変則的なエディプスの物語です。東京でカメラマンをしている次男が母親の葬儀に出席するために帰省する。葬儀の席で彼は父親と諍いを起こすけれど、映画が進むうちにそれはいつしか一人の女性をめぐる東京に逃れた弟と実家に残った兄の諍いへとずらされていく。そして映画は女性の死によってピークを迎え、ずれたエディプスの物語は美しく悲劇的な物語として完成する……『ゆれる』とはこんな映画だったと思います。

ところで、この映画には明確に排除されている存在が二人います。それは母親と死んだ女性です。男たちは諍いを起こすものの、映画がその原因として指定する二人の女性はまるで男たちの物語を盛り上げるためだけに導入された道具であるかのようです。映画の中でおそらく最も抑圧されてきた存在であるはずの彼女たちが、何を見つめ、何を考え、どう生きてきたかをこの映画が語ることはない。私は『ゆれる』という映画を思い出すたびに、地方の女性、あるいは、地方における弱い存在はこんな風にしか語られてこなかったなあ、と思うんです。もちろん意思を持って周辺に留まり続け、戦略的かつ説得的に周縁化された者たちの「声」を、「自分」とはもはや不可分になってしまったものとして切実に響かせ続けた森崎和江や石牟礼道子のような人たちがいたことを決して忘れてはならないのですが、中心に位置する者たちが差し出す物語の装置とは往々にしてこういうものだったな、という実感が私にはあります。だから「光景」においても、ただ違和を違和のまま表現することだけを目指したんだと思います。

そういうこともあり、倉石さんの言う人を写した写真の暴露の作用にも意識的だったように思います。地方の田舎に暮らす人とその背景としての日常の風景をストレートに写すことが、決してストレートにはならない形で夾雑物を含みながら不完全な形であれ表現されていく。「光景」という作品は、そういう現象であったように思います。その上でテクストを書くことにはリスクがありました。写真に密着しながら書くことの可能性と不可能性をめぐってそれなりの企みをもって書いたつもりではありますが、きっとこのテクストはナイーヴに受け止められてしまうだろう、と心のどこかで予感していました。だけどそれでも書くしかなかった。どうしても守らなくてはいけないものが、『光景』という作品には確かにありました。しかし、やはりと言うべきか、実際にはあのテクストはナイーヴな自己解説として受け止められてしまった気がします。

今作でも場所の来歴を踏んで制作しています。調べたものをわざわざ表立って口にしたくはないものですが、場所の来歴、生じた物語、為されてきた排除と差別、場所と不可分に結びつく小説家……これらのことについてそれなりに知ったうえで制作していることは確かです。それにこれまで話してきたような前作での経験もありました。だから熊野という場所でやや変則的な撮影行為を飽きずに繰り返せたのかもしれません。たとえば「風景論以後」展の目玉のひとつである『略称・連続射殺魔』は、永山則夫が見たであろう風景を当時としては革新的な手法で映像化した作品でしたが、永山が殺人を犯した理由を風景の同一性に求め、そこから説話論的に一種の「風景論」を構築しています。だけど、それは大嘘ですよね。永山にはああいう犯罪に至るだけの理由があり、背景があった。そしてそれは常に個別的なものであり、だからこそその理由や背景を公に向かって開いていく努力を我々は積み重ねていく必要がある。永山の犯罪を起点として凡庸な「風景」から何かを物語るのであれば、あの映像はもう少し永山の方へと踏み込むべきだった。そう思います。そういう時代やイデオロギー上の限界が「風景論」には、もっと言えばプロヴォーグにはあったと思うんです。もちろんイデオロギーや時代的な制約からはそう易々と自由にはなれません。だけど、たとえそれが想像的な行為にすぎなくても、自分を縛るものを見出し、その縛りから一度自分を切り離したときにようやく見出せるのかもしれない、これまでは見えてこなかったものや語り落とされてきたものを写し出したり語り出したりしようとする試みの先に、写真表現の意味はかろうじて見出せるんじゃないか。そんなふうに思っているところがあります。もちろんそれ自体が「現在」においては間違っているのかもしれませんが。

写真集『光景』収録テクスト 川崎祐「小さな場所へ」

写真と/の「ふるさと」

篠田 お話を聞きながら、やはり川崎さんは方法論の写真家だということがよくわかりました。「どう撮るか」「どう語るか」ということに極めて意識的だと思います。『未成の周辺』に収録された川崎さんのテクストの中に「何よりわたしは写真家なのだ」という印象深い一節がありますが、これはひとつの決意表明というか、つまり、写真家であるからこそ「いかに撮るか」「いかに写真によって語る対象にアプローチできるか」ということを明確にする宣言のようなものであると感じました。

ところで、『光景』と『未成の周辺』を見比べたときに、僕は『未成の周辺』の方に“intimacy”、つまり一種の優しさや親密さのようなものを色濃く感じました。『光景』は撮影者が自分自身にも被写体にもかなり厳しく構えて撮影していたように感じます。つまり、自分の家族や故郷を撮影することは、家族も故郷も客体視して風景化するという現象が不可避的に起こるんじゃないかと思うんです。言い方を変えれば、故郷を写真にするとき、故郷は故郷では無くなって「故郷喪失」、松田や永山の時代に流行った言葉でいえば「ハイマートロス」のような状態を写真家に生じさせてしまうんじゃないか。つまり写真に写った故郷や家族の姿は、撮影者が生きた故郷や家族とは少し別のものになるんじゃないか。写真というものはそのような「距離」を生じさせ、そのような「距離」によってこそ可能になっているのではないか、ということです。そしてそれゆえに、川崎さんは家族と故郷を被写体として撮影し、そこに潜む問題を写真によって表現できたんじゃないかと思います。

一方で『未成の周辺』の被写体は、川崎さんが生まれ育った場所とは別の土地です。しかしむしろ川崎さんは別の土地にある種の故郷を見出そうとしているのではないか。なぜそんなことができるのかと言えば、写真には、故郷そのものをいくら撮影しても像として現れる写真自体は故郷にはなりえずに、括弧付きの複製された「故郷」にとどまり続けてしまうのだけれど、しかしそれゆえにこそ、現実の故郷ではない場所を写した写真の中に「故郷のようなもの」を見出しうる余地が生じる、そんな性質があるからではないか、と思っています。また、そのような余地とは距離によってこそ可能となっているのかもしれない。倉石さんは『未成の周辺』に寄稿されたテクストに「不在」や「空虚」に言及されていていますが、そういった不在であり空虚を写真が呼び出しうるのは、写真が複製技術であり、そこに不可避的な「距離」が伴うからではないでしょうか。そしてそういうことを『未成の周辺』から感じ取れるのは、川崎さんが方法論に意識的な写真家だからなんじゃないか。方法論を「距離」と言い換えてもいいし、そのような態度そのものを倫理と呼んでもいい、そのように思いました。

川崎 写真を始める前に少しの期間文学を研究していた経験があるからなのか、私にはものをつくるときにはどこか「冷たさ」を前提としているところがある気がします。たとえば坂口安吾は、「文学のふるさと」において「倫理」について語っていますが、そこで芥川龍之介を訪ねた農民作家のエピソードを紹介しています。農民作家は、ある村で子どもの間引きが行われていることを芥川に話しますが、それはその当時においては決して珍しいとは言えないものです。芥川は農民作家に質問のかたちで言葉を返すことができます。しかし、その話が農民作家自らの体験であると農民作家が語るとき、芥川は呆然として文字通り言葉を失います。つまり、間引きが農民作家自身によって行われたと農民作家自身に語られるとき、その話は救いようのない、どこか人を突き放す話になる、ということです。安吾はそこで生じるある種アン・モラルな感覚を「文学のふるさと」と呼びました。倫理も文学も、あるいは表現自体が、そういう零度の地点から始めないといけない、と。あるいはそれを現在、表現する側から捉えなおせば、いかなることも決して本当には語りえない、ということになるかもしれません。

しかしそれは、表現をする者は何をやってもいい、ということとは全く違うことです。そもそも芥川ほどの作家が一言の反応も返せなかった農民作家の話には、どこか圧倒的な現実感があります。我々は農民作家の語る現実の生活には決して到達しえない、という意味でそれは圧倒的なのです。しかし、ある種の写真家たちは、安吾の語ることを曲解してそれを自分の撮影行為の正当化のために都合よく使ってきたように思います。それははなはだ間違いである、ということは自戒の念も込めてここに言葉として残しておきたいと思います。

何が言いたいかというと、ものを見たり、考えたりする際の前提として、私はそういう認識を前提にしていたいと思っている、ということです。『光景』という作品において、自分という存在をどこかで致命的に規定しまった「家族」を被写体にしながら、その感覚を徹底させなければどうしようもないことになる、と感じていました。撮影の過程で不可避に感じてしまう傷の存在や愛くるしさや郷愁、そういうものを前提としてしまえば、この人たちを苦しめ、現実的にも比喩的にもその場所に留め置いてきた不気味で巨大な何かに絡みとられてしまうと思っていました。だからカメラという機械に依拠することで、その「冷たさ」を自分に課したんだと思います。でもそうは言っても人間なので、感情は滲み出してしまいます。だから体力的にも感情的にももうこれ以上は続けられないと感じたとき、私は「家族」を被写体にすることを辞めて、風景を撮るようになりました。『未成の周辺』はその流れと並行して始まっているので、一種の解放作用というか、もうあんなに厳しくしなくてもいい、という感覚が、篠田さんの言う優しさや親密さとして写真の中に反映されているのかもしれません。

写真展「未成の周辺」(kanzan gallery、東京、2023年)展示風景


[9月8日に行われたkanzan galleryでの川崎祐個展「未成の周辺」関連トークイベント「写真の風景をめぐって」を再構成したものです]

プロフィール


倉石信乃 Shino Kuraishi
1963年生まれ。明治大学教授。1988から2007年にかけて横浜美術館学芸員としてマン・レイ展、ロバート・フランク展、中平卓馬展などを担当。1998年、重森弘淹写真評論賞、2011年、日本写真協会賞学芸賞を受賞。主な著書に『使い』(2018年)、『スナップショット—写真の輝き』(2010年)、『反写真論』(1999年)、『東日本大震災10年  あかし the testaments』(共著、2021年)などがある。『沖縄写真家シリーズ[琉球烈像]』(全9巻、2010-12年)を仲里効と監修。2001年、シアターカンパニーARICA創立に参加、コンセプト・テクストを担当。

篠田優 Yu Shinoda
1986年、長野県生まれ。2013年に東京工芸大学芸術学部写真学科卒業、2021年に明治大学大学院建築・都市学専攻総合芸術系博士前期課程修了。主な個展に、「Long long, ago」(photographers’gallery、東京、2023)、「有用な建築」(表参道画廊、東京、2021)、「抵抗の光学」(リコーイメージングスクエア東京、2020)、「text」(Alt_Medium、東京、2019)などがある。主なグループ展に、「信濃美術館クロージングネオヴィジョン新たな広がり」(長野県信濃美術館 、2017)、「(PERSONAL)DOCUMENTS PROJECT」(Gallery Sijac、韓国、2016)など。

川崎祐 Yu Kawasaki
1985年、滋賀県生まれ。2017年、第17回写真「1_WALL」グランプリを受賞。2018年、ガーディアン・ガーデンで個展「Scenes」を開催。同作で第44回木村伊兵衛写真賞最終候補にノミネートされる。2019年に『光景』を赤々舎より刊行し、同時期に個展「光景」をニコンサロンで行う。2022年に3年ぶりの新作「未成の周辺」(Alt_Medium)を発表し、2023年にkanzan gallryでも個展を開催。2025年には「あざみ野フォト・アニュアル2025 川崎祐(仮)」展を横浜市民ギャラリーあざみ野で開催予定。そのほか、文芸誌や書評誌にエッセイや書評、短編小説を寄稿。


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