『一汁一菜でよいという提案』から 縄文人の食編
どんな本を良い本と感じますか?
本書を読んで、あれこれ考えるきっかけをくれるのも、良い本の一つ?と思いましたが、どうでしょうか?
本書は、日本の歴史や文化を幅広くとらえた立場から、家庭料理について書かれています。
そんななか、縄文文化と食について触れられている部分に、共感部分を見つけました。
それをシェアいたしますね。
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考古学者の小林達雄先生によれば、縄文文化が1万年以上続いたのは、四季折々の多様な食材を食べることで、飢饉のリスクをなくしたから、だそう。
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縄文文化については、料理すること、しかも、土器を使って加熱調理する事について、著者による深い考察がなされています。
ですが、ここでは、とりあげるポイントを思い切って、上記の部分にしぼってしまいます。
最近では、いろいろなものを食べましょう、一日30品目が目標、と言われたりします。
今、そうするメリットは、バランスを取ることに加え、同じものを食べ続けることにより、その食材に含まれる汚染物質や有害物質等の集積を減らすため、と考えてよいと思います。
ところが、ずいぶん昔とは言え、縄文時代には、同じ色々でも、目的に、飢饉対策の意味があった、と考えられているそうです。
これをどう思われますか?
日本は多くの国から、多種類・多量の食料を輸入している、それは食の多様性を豊かにしている、または生産効率がよいから、よいことではないか、とか。
そういう考え方もあると思いますが、反面、怖い気もします。
異常気象、バッタなどの異常発生、戦争、紛争、円安の影響などの経済的な理由など、いろいろと考えておくべきことはありますよね。
それを思うと、生き延びるためには、いろんなものを食べられるように、という知恵が必要なのは、遠い昔の縄文人に限らないことなのかもしれません。
ところが、近年、春になると、スイセンとニラ、ヨモギとトリカブトを間違えた誤食の事故が何件も生じています。
お店で売っている以外のものも含めて、食べられるものを増やそうと思ったら、自分が何を食べてよいのか、きっちり判断できる必要がありますよね。
ここまでくると、実は、このテーマ、雑草のコントロール(農薬によるばかりでなく)の話とも関連してくることがわかります。
今のように、雑草を避けようと、土壌に残留する農薬をどっさりまいたり、アスファルトやコンクリートで舗装したりすると?
身の回りから、雑草をすっかりなくそうとしてしまったら、種類の覚えようがない‥‥
そして試しに食べてみようと思っても、毒のない雑草すら食べられない状態‥‥
さて、どうしたものか?
本書の「縄文人の料理」の部分を読むと、すぐに食用にするかどうかはおいておき、私たちも、身の回りの植物のことを知り、それらとの付き合い方を考えておく方が安心かな、と感じさせられました。
この次は、「食の変化」の部分から、小麦について書かせて頂こうと思っています。
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