歴史の中の「抑圧されたものの回帰」
まだまとまってない思考を書き付けておこうと思います。
なぜ空間の歴史・長期的持続について書くのか?
民族の自意識と空間認識の変化については、例えば小熊英二の初期の作品や、トンチャイ・ウィニッチャクンの重要な作品がある。小熊の場合、明治期の日本人の「多民族」としての自意識から初めて、大日本帝国の大きな領域の瓦解に伴う「単一民族」としてに自意識の定着を扱い、後の作品で北海道や沖縄、台湾などの「日本人の境界」の研究に進んだ。トンチャイの場合、伝統的な東南アジアの地理的認識(対立する国々や、同盟のあいまいな認識などからなっていた?)から初めて、近代の地図作成法と西洋列強の植民地主義による国辱を通して現代の国民国家の空間認識が生まれてきた過程を明らかにしてる。いずれも、19世紀末から20世紀の大きな変化に着目している。
この人達の研究は偉大だけれど、少し疑問が残るところもある。特にトンチャイの作品に関しては、伝統的な世界観が、近代の地図作成法によって完全に取って代わられたような印象を与えるところがある。本当にそうなのだろうか。
私は自分の生活経験やアーカイブでの仕事を通して、歴史の中にもフロイトの言う「抑圧されたものの回帰」みたいな現象がいつも起こっている、という印象を持っている。柄谷行人も「世界史の構造」でそういうことを言っていたような気がする。
古いの伝統、神話、社会構造、言語自体の中にある考え方、昔一斉を風靡した考え方や支配的な観念。抑圧された事柄は、解放を目指そうとする古い未来像だったり、私みたいな「平和的アナキスト」から言わせると理解するのに時間がかかる凄まじくコンサバティブな考え方だったりする。こういう事柄は、単に過ぎ去って過去のものになってしまうのではなくて、別の形を取って帰ってくるということが非常によくある。
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きしぉう博士のアジア研究ノート
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