『甦るフレーブニコフ』音読記録その3

〈 2929字 〉

『甦るフレーブニコフ』音読記録 は、
2020年末〜2021年初めに音読した毎回の感想を改めてまとめたものです。

著者の亀山郁夫先生のzoom講義(2022年12月4日(日)10時から12時、ヒッポファミリークラブ主催)がありますので、これを機会に、と思いアップしています。

12月4日までにアップし終わるように、毎日、4日分程度アップしていこうと思います。

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2020年11月1日(日)  第4章 スラヴ的純粋原理  
                                                     「クリミヤの夏」(90〜97ページ)

訳詩の後に、そこで使われたロシア語の単語がいくつか、説明のために挙げられていました。フレーブニコフがしようとしていたことはわかると思いました。というのも著者の日本語が熱いからでしょうか。

1908年夏にフレーブニコフが、家族とともに滞在したクリミヤ半島最南端スダークで会った象徴派の大御所イワーノフ。その1907年の雑誌「金羊毛」に発表した論文「楽しい仕事、知の楽しみについて」からの引用、すぐ下。

〈「詩の言語、すなわち私たちの言語は、現代語の深層から芽ぶかねばならない。それは今民衆語の地下の根から生育し、全スラヴの声高い森となってざわめき立とうとしている」〉

他の本文から引用、以下。

〈詩人がここで意図しているのは(中略)スラヴ諸語がざわめき立つ多声的な共同性の空間〉
〈イワーノフに送られた詩のほとんどが標準語による詩では想像もつかない一種独特の音のアラベスクを生み出し、〉

というわけで、自分たちスラヴ民族の民衆の叫びのようなことばの「音」を、コラージュして、新鮮な、それゆえに根源からくるような、音のことばの詩を書こうとしてたのかな、と想像しています。

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いや〜、これ、音を本当に味わってみたいです。
日本語でこれをやるとするなら、方言はもちろん韓国とかアジアまで含みこんでのポリフォニーになるのかもしれないな、と思いました。壮大です。
                       (2022年11月11日付記)


2020年11月2日(月) 第4章 スラヴ的純粋原理 
                                                         「異教回帰」(97〜106ページ)

クリミヤ滞在の前後の、フレーブニコフの創作活動について、書かれていました。劇詩、物語詩という形式のもの。 山崎も、熱くなりながら、毎日、亀山さんの文を読んでいます。 フレーブニコフは(多分)ほとんど翻訳が出ていなくて、きっと、それは翻訳によって作品に触れるよりも、このような文章で像を浮かび上がらせる方が、伝わるものがある、という意図によるのかも知れない、と空想しました。

目をつぶって、何かに触って、自分の中に像を作るみたいな感じ。

音読おんよみも、先を見通せない点似ているので、雰囲気を相俟って感じます。

キリスト教的なものに対する心持ちとしては、山崎も共通する違和感を持ってずっと暮らしてきてるので、勝手に共感してます。

そして、神々の壮大で残虐な戦いは、なんとなく、進撃の巨人とか日本のコミックスを想像しました。
しかし〈原色的タッチと晦渋な語法で語りついでいく〉と表現されてますから、ことばの触り心地はわかりません。 その印象からくりだされる亀山さんの文を味わうだけです。

2020年11月4日(水) 第5章 ペテルブルクの憂欝                                                                「罪人の誘惑」(107〜112ページ)

1908年9月からフレーブニコフは、ペテルブルク大学理学部に籍を移しました。 以下の〈〉内は本文からの引用です。

〈「民衆の生きた口で語られる言葉」をユークリッドの幾何学になぞらえつつ(中略)「全スラヴ語」の創造をよびかけ、しかもそうした試みをロバチェフスキーの幾何学にだぶらせている。〉

〈実際にそうしたスラヴ諸語の語根の錬金を通して作られる造語(ネオロギズム)を駆使した散文詩『罪人の誘惑』(1908)を『春(ヴエスナー)』誌に発表し、詩人として晴れのデビューを飾ったのだった。〉

この『罪人の誘惑』の一部が訳出されてます。

〈思索の舌をもつ邪悪な犬ころ〉
〈百面足の奇跡〉
〈裸足のかわりに愛を着る処女鷲〉

などのことばが使われています。
同時代の詩人カメンスキーによると、詩によるシュルレアリスムな感じらしいです。なんかわかる感じがします。
組み合わされて作られた新しい言葉は、例えば、具体的な生き物の形に何かを加えたハイブリッドな雰囲気だから、シュルレアリスムの絵画のように、奇妙だけれども具体的にイメージできます。
百面足を、つい百足(ムカデ)と読んでしまったけれど、モモダルかもしれない、と思ったり。(検索したら、面足は、オモダルという日本の神様の名前だったので。)

〈一連の造語は、意味論的にも音韻論的にも、既存の形容詞の硬直した一面性を打ち破り、数少ない読者にもたらされた影響の強さを否定することができない。〉

もしかしたら、ロシア語をわかる人よりも、フレーブ二コフがわかっちゃうんじゃない?って、馬鹿な妄想を抱きつつ、ワクワクしながら、今日も読みました。

2020年11月5日(木) 第5章 ペテルブルクの憂欝  
                                                            「動物園」(112〜119ページ)


変なことを考える人だなぁ、と思います。
動物園のラクダに仏教を、虎にイスラム教を思ったのだそうです。
いや、でも、そんなに変でもないのかもしれないです。
感覚を固定観念から外そうと努めている詩人とししては、このような思いつきは、別に不思議ではないのでしょう。
韻律の部分が全く実感はできないので、完全に片手落ちですが、使い古されていないイメージが、真の根源へ届きやすい感じがするのは、その通りだろうな、と想像しました。

〈「ぼくは獣たちと人間とが脚となるような韻律を探しているのだ」〉

という、引用に、惹きつけられました。 脚、というのは、韻律(詩のことばのリズム、でしょうか)と関係することばということは、微かに知ってました。
そして、これは、それぞれの言語で、違う音楽なんだと想像します。だから、日本語からは決して体感できるものではないところ。
だけれども、そういうものの存在を、仄かしてもらっただけで、無いものを感じようとする力が働き出します。

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多層、多重、ひびきあう和音と不協和音、民衆のことばを幾何学にぶち込んで、シュールレアリスムの具体性を持たせて・・・フレーブニコフの現代転生ドラマを作るなら、ゴジラとかウルトラマンとか怪獣もの?を見せてみたいな、と思いました。
                       (2022年11月11日付記)

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