負けの解釈と自己受容

 

負けを解釈する


 先日、Fighting nexus.36でフェザー級タイトルに挑戦させていただきました。チャンピオンに何もさせてもらえずに負けました。三角締めでフィニッシュされて、セコンドに声をかけて貰うまで、意識が戻らなかったようです。

 セコンドの顔と会場の様子を見た時、「あれ、試合前なのに、どうして僕はケージの中で座り込んでいるだろう。さっき、名前をコールされたはずなのに。」と思う一方で、若干のタイムラグはありましたが、すぐに自分の負けを悟りました。

 負けたら、潔く勝者に場所を譲りたいと思っているので、すぐに控室に帰りました。セコンドの二人にこれまでの感謝を伝えた時、少し涙が出ました。
 悔しさや不甲斐なさを含まずに泣いたのは初めてな気がします。純粋な気持ちで、ここが終着点なのだと感じて、これまでの感謝ともう彼等と一緒に居れないことだけが寂しくて泣いていました。

 本当に強いチャンピオンと試合させてもらって心の底から嬉しかったですし、また一つこの世界の広さを知ることが出来て、学びを深めることが出来ました。その点に関しては、この場所を作ってくれた沢山の方々に感謝しています。
 
 今まで、負ける度に自分の競技力を見つめなおしてきましたが、今回は自分の人間力、器が足りなかったと思っています。
 
 この半年でしょうか、フェザー級のベルトを巻くことに集中して練習に打ち込んできましたが、勝った時に待っている自分を取り巻く環境を受け入れる強さが自分にはなかったのだと、今になって考えています。
 
 ただ、僕が未熟だったから、勝つ勇気がなかったから、当然の結末を迎えたのだと思います。勝たなければ、今のままの自分でいられますから。きっと、変化を受け入れるのが、怖かったんでしょう。

自分の人生を生きるために自己受容を考える

 試合の結果を自分で解釈して、家庭と社会の中で生活する中で、改めて、自分の人生をどう生きていきたいのかを点検しています。

 自分の生きる上での指針は少しずつ変化しているのと、抽象的なイメージから具体的な言葉へと形を変えているように感じています。

 子供の頃は、自分を取り巻く環境を受け入れることが出来ず、社会や世界を恨めしく思っていました。格闘技を始めて、夢や途上の挫折を共有できる人が周りに出来るようになったのは、いくらか僕の人生を癒してくれましたが、まだまだ僕にとって社会は手の届くことのない遠い存在でした。

 僕が周囲の人と打ち解けて、自分が人の役に立てることを感じられたのは、ここ2~3年のことでしょうか。

 ある時に「自分が世界に祝福されている感覚」という言葉に触れて、その言葉の真意を探ってきました。この世界に生まれ落ちることが幸か不幸か、生きることに何か意味があるのか、誰もが考えたことがあるような疑問だと思います。
 
 唯、宇宙の誕生から人類の繁栄と今ここに自分が存在していることを奇跡だと感じることや、自分の人生を自分自身で意味づけすることは可能だと思っています。

 もう少し現実的な見方をすれば、この世界に生まれた時点で世界から祝福を受けていること。また、自分を取り巻く世界は認知を変えることで再構築され、自分の人生は自身の解釈に依って如何様にも変えられるということです。

 僕がすぐ近くにいる人を仲間だと思えるようになってからは、これまでよりずっと人に親身になることが出来ましたし、みんなが僕に対して親身になってくれたように感じました。

 今の僕には、まだ人の幸せを素直に喜べないところがあります。でも、人の役に立てることが少なからず、幸せに感じられるようになってきました。

 誰かに必要とされることが自分の生きる意味だという他者への依存すらないところで、自分が幸せにいれることや社会との接点を持ったまま、隣人に対して援助する姿勢を崩さないようになりたい。社会をありのままに捉えてみたい。
 それがこれからの目標であり、自分が自身の人生を主体的に生きる道標だと思っています。



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