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ゆらゆら揺れる
ある俳優の訃報を聞き、思いの外ショックを受けている。ファンだったわけではない、一緒に仕事をしたわけでもない。たぶん、理由は、年がひとつしか違わないということだけだ。
なにが彼をそうさせたのかは知らない。わかっているのは、それだけのことがあったということのみだ。それで、つらつらと、思うことを書いてみる。
なにか悩むことがあったとき、ものすごい寂しさと虚しさに襲われるとき、わたしはそれをそのままにしておく。無理に解決しようとしない。
なにも昼夜問わず、それらがずっとわたしを捕らえて離さないわけではない。
ひとは、ただ、生きているだけで忙しい。
ごはんも食べないといけないし、歯磨きもしなきゃいけないし、洗濯もしなきゃいけない。とかく、日々を過ごすことは忙しい。
よく、仕事の失敗は仕事で取り戻すしかないとか、恋愛の傷は恋愛で癒すしかないとか、言うけれど、なにもそう限ったことではないように思う。
つぎつぎにやってくる不安を、畳の上に落ちたホコリをはらう箒が掃き去ってくれることもある。鍋についた油汚れを落とすスポンジが洗い流してくれることもある。
だから、日常のなかのルーティンが、大切なのだと思う。
毎日は変化の連続で、その変化についていくには、体力がいる。だから、変わらないルーティンが、月曜日の事務所の掃除が、土曜日のうちの掃除が、毎朝淹れるコーヒーが、必要なのだ。
幸せと悲しみは、表裏一体で、つねに波のように押し寄せる。幸せが大きくどっと押し寄せたあと静かに引いていって、次には悲しみが押し寄せる。あまりに大きく、長く続く波だったとき、それがいつか引くことをわかっていても、その波に飲まれてしまう人もいる。
わたしは、どんなに強い波にも、弱い波にも、ゆらゆらと身をまかせて踊っていられるようでありたい。
ある友達が、わたしを評してこう言った。
「どんな強い風の日でも柳のようにしなやかに受け流しながら、凛とそこにある存在というか。少なくともそう見えてますよ」
ちょっと褒めすぎである。凛としている自信はないけれど、わたしはただただ、風が吹いていく方向へ、首を垂れてゆらゆらと踊っていたい。
最近読んだ『生き物の死にざま』という本のなかで、クラゲは生きていることが生きがい、という一文があった。
波にゆらゆらと揺られているクラゲは、なにを目的にするでもなく、生きていることが生きがいだという。
ひとも、そういう時間があってもいいのではないか。
わたしたちは、20代でやり残したことはないかと悩み、仕事のやりがいに悩み、これからの方向性に悩み、自分の行く末に悩み、人間関係に悩み、知らず知らずのうちに、生きる意味を求められている。
それもそれで、大切なことだと思う。
しかし、波に流され、風に吹かれ、悲しみも喜びもすべて受け流しながら、ただ、生きることが生きがいになる時間があってもいい。
大好きなスピッツの歌に、こんな歌詞がある。
「幸せは途切れながらも 続くのです」
そう、幸せはかたちを変え、姿を変え、途切れながらも続く。
ひたひたと心に迫る悲しみにも、そのあとやってくる幸せにも、ゆらゆらと揺れながら、わたしは変わらずここにいます。
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