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劣等感から自由になる

 尹東柱が中学三年生の時、従兄弟の宋夢奎が文芸コンクールに応募し当選した。このことは、伝記作家が伝えるように、文学的な刺激になったであろうが、有能な従兄弟の存在は尹東柱の劣等感も強化することにもなったであろう。
「尹東柱は大器は晩成だとよく話していたが、これは夢奎を意識していう言葉だった」(문익환, 「하늘・바람・뼐의 詩人,尹東柱」)
 尹東柱が自分にそう言い聞かせていたとすれば、「晩成」であることではなく、自分が夢奎よりも「大器」だと思いたかったのだろう。
 ライバルはいてもいいが、競争する必要はない。真のライバルは競争しない。互いに相手の力量を認め合って、切磋琢磨して勉強や仕事に励む。相手の成功を喜び、妬んだりはしないだろう。
 若い友人からこんな話を聞いたことがある。彼は大学でサッカーをしていた。優秀な選手で、将来はプロのサッカー選手になることを嘱望されていた。ところが、身体の故障のために、プロの選手になることを断念せざるを得なくなった。
 彼は四十歳になるまでテレビでサッカーの試合を見ることができなかった。かつて競い合った自分の仲間が、プロとして試合に出ているのを見ることができなかったからだ。
 それがなぜ四十歳になったら試合を見ることができるようになったかといえば、仲間の多くがその年になると引退してしまったからである。
「なぜ、自分ではなく、あいつらがプロになったのかと思ったのでは」とたずねると、まさにその通りだという答えが返ってきた。
 実際、彼は優秀な選手だったので、劣等感を持っていたわけではないと見えるが、自分が優れていると思うのは優越コンプレックスで、劣等感の裏返しだとアドラーは考える。
 身体の故障のために、願っていた人生を生きられなくなるのは悔やんでも悔やみきれないが、プロの選手になったからといって大成したかは誰にもわからない。
 受験に失敗するようなこと経験したために、自分には能力がないと思った——これが劣等感である——人は、この劣等感を人生の課題に挑戦しないことの理由にすることがある。能力がないから課題に挑戦しないのではない。課題に挑戦すれば結果が出る。結果を出さないためには課題に挑戦しなければいい。そう考えて課題に挑戦しない理由として必要なのが劣等感なのである。
 どうしたら劣等感から自由になれるか。
 まず、他者と自分を比較するのをやめること。他者と比較するのではなく、「理想の自分と現実の自分との比較」から生まれる劣等感であれば、誰にでもあり「健康で正常な、努力と成長への刺激である」とアドラーは考えている(『個人心理学講義』)。
 次に、他者の期待を満たそうと思わないことである。子どもが受験に失敗したことを嘆き、中には子どもを責める親も確かにいるが、実際には、受験の失敗は致命的なことではない。このような時他者は残念に思うかもしれないが、本人ほど執着はない。
 一つの道を歩めなくなったというだけで、生きる道は他にある。たとえ、自分に期待していた人が悲しむようなことがあったとしても、それはその人が何とかしなければならないことである。
 私は自分には能力がないのではないかと長年思い込んできたので、劣等感の克服には時間がかかったように思う。あるべき自分と現実の自分とのギャップが「劣等感」だが、そのあるべき自分が世間的な価値観にもとづく自分である必要がないことを知るのが、劣等感から脱却する一歩になる。


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