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生まれてすぐに愛を与える

 エーリッヒ・フロムが次のようにいっている。
「八歳半から十歳になるまでの大抵の子どもたちにとって、問題はもっぱら愛されること、ありのままの自分が愛されることである。この年までの子どもは愛されることに喜んで反応するが、まだ愛さない」(The Art of Loving)
 親から愛されるばかりだった子どもがやがて親を愛するようになる。愛を生み出すという新しい感覚が、自分自身の活動によって生まれるというのである。
「子どもは、初めて母親(あるいは父親)に何かを『与える』ことや、詩とか絵とか何かを作り出すことを思いつく。生まれて初めて、愛という観念は、愛されることから、愛すること、愛を生み出すことへと変わる」(前掲書)
 しかし、このようなことは愛することの行為的側面でしかない。
この年齢より前の子どもは親から愛されるばかりで、親を愛さないのだろうか。「愛する」というより「愛を与える」の方が親子の間に起きていることを的確に説明できると思う。愛を与えることには何かを与える行為も含まれるが、何もしなくても誰かに愛を与えることはできる。
 神学者の八木誠一は人と他者との関係を「フロント」(面)という言葉を使って説明している(『ほんとうの生き方を求めて』)。
 人は他者と「フロント」で接している。八木は人のあり方を四角形として示しているが、この四角形の四辺のうち実線ではなく破線になっていてフロントが他者に開かれている。
「私」は他者なしには生きられないので、そのフロントは他者によって塞がれなければならない。その「私」のフロントを塞ぐ他者もまた、別の他者にそのフロントを塞がれ生かされているのである。
 人は自分だけで完結しているのでも、完全でもない。他者に自分のフロントを補ってもらわなければならない。その意味で、人は他者とつながり、他者に生かされているが、自分も他者を生かしているのである。
 例えば、子どもは一瞬でも親の援助がなければ、生きていくことはできない。子どもの一つのフロントは開かれていて(これが破線である)、それを親が塞いでいるのである。
 家庭によって事情は違うが、母親がもっぱら子どもを世話をしているとすれば、母親の一つのフロントも開いている。その開いた破線である母親のフロントを子どもの父親、夫が支え塞ぐ。そして、父親(夫)の開いたフロントは赤ん坊によって塞がれる。子どもを見れば癒やされるのである。

 巡り巡って愛が誰かから与えられることはあるが。この関係はギブ・アンド・テイクではない。子どもは親に愛を与えるが、それは行為によらなくてもいい。子どもが何もしなくてもただ生きていることが親にとってはありがたいからである。子どもは親に何もしていなくても親に愛を与えている。つまり、親を愛しているのだ。
 やがて、行為としても親に愛を与え始める。フロムがあげている例でいえば、「何かを『与える』ことや、詩とか絵とか何かを作り出すこと」というようなことである。このようなことを子どもがし始めるのは、フロムがいうよりももっと早い時期である。
 大人が与えることを行為として捉え、行為だけを愛することだと考えると、子どもも行為によって大人を愛そうとする。行為で大人を愛そうとすること自体はいいことだが、問題は大人の期待には到底答えられないと思ってしまう子どももいるということである。
 親の愛に直接行為の形で応えなければならないのではない。親からただ自分が生きていることで愛されていることを知れば、子どもも無条件に親を愛するようになるだろうが、親が子どもをこれだけ愛しているのだから子どもも親を愛さなければならないという取引のようになってはいけない。子どもが何もしなくても自分が生きていることで親に愛を与えているとわかってほしい。


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