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ゆっくり学ぶ

 学生時代に英語が得意だった母は、私が中学生になったら英語を教えるといっていた。中学生になると母は約束通り英語を教えてくれたが、幸か不幸か、すぐに私は上達し母が私に教えることはなくなった。
 私が大学生になると、母はドイツ語を教えてほしいといった。何かのために学ぼうと思ったのではない。女性は大学に行かなくていいと親にいわれて大学進学を諦めた母は、この日がくるのを心待ちにしていたのだろう。毎日辞書を引いて、懸命にドイツ語を学び始めた。
 その母が四十九歳で脳梗塞で倒れた。身体を自由に動かせなくなっていたが、ある日、私と一緒にドイツ語を勉強した時に使ったテキストを病室に持ってきてほしいといった。ドイツ語を一から学び直したいというのだ。そこで、もう一度アルファベットから教え始めたが、やがて意識を失った。
 歳を重ねてから何かを学んでみようと思う人は多い。そのことの意味を考える時、いつも母のことを思い出す。
 何の目的もなくても、知らないことを知る喜びがあれば、学ぶことができる。母が病床でドイツ語を学んでいた時も、そのことに何か目的があったわけではない。
 学び続ければ、いつの間にか遠くまできたと感じることはあるが、目的達成に主眼を置くと、学びが目的達成の手段になってしまう。そうなると、学ぶことが苦行になってしまう。
 この知らないことを知る喜びを感じる学びはゆっくりしたものであり、効率的である必要はない。読書であれば、速読などしないでゆっくり味わうということである。
 本を読むのは、知識を身につけるためではない。著者と対話ができ、つながりを感じられることが読書の喜びである。このつながりの喜びを知っている人は、一人でいても寂しくはない。
 私の母が学生の頃得意だった英語ではなくドイツ語を学んだように、新しいことを学び始めるのもいい。
 私は六十歳で韓国語を学び始めた。外国語を学ぶ時に、間違いを避けることはできない。間違うことを恥ずかしいと思うような無用なプライドを捨て、自分よりも優秀な若い人について学ぶと謙虚になれる。
 この地上のものを絶対視しなくなることも学ぶことの効用だ。学びを深めると、自分が見たり聞いたりした絵画や音楽がこの世で一番美しいものではないこと、自分が正しいと信じて疑わなかった教えが唯一絶対のものではないと知ることができる。
 人間は無知者と知者の中間的な存在である。何も知らない人は何かを知ろうとは思わない。知者も何かを知ろうとは思わない。知を愛する人(これが「哲学者」の本来の意味である)の学びはいつまでも続く。


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