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第七話へ


羽ばたくドラゴン

時は慌ただしく過ぎて

 会社にとって私はすでに終わった人間だ。しかし、立つ鳥跡を濁さずの言葉もある。今の仕事を綺麗に片付け、引き継ぐべきものはしっかりと引き継いでおかなければならない。戦略的撤退だ。

 仕事をしながら星野氏の小説へ提供する絵を描いた。注文されたのは小説本の表紙および裏表紙用の横長の構図の"彼"と、挿絵用の縦長の構図が十点ほどだ。

 描いた。ひたすら"彼"を描いた。いつもと変わりなく、いつの日も変わらない"彼"を、いつものように無心で描いた。完成した水彩を星野氏へ宅配便で送る。星野氏や編集担当者と、メールで電話で直接会って打ち合わせを繰り返す。どの絵をどう使うのか等々、レイアウトなどはすべて一任した。私からの注文などない。書き直し等の指示は一切なかった。

 報酬に関しては、すでに、現在の私の年収に匹敵する驚くべき金額が提示されていた。それにプラス、書籍の印税の半分を私にと星野氏が言い放ったので編集担当者は真っ青になった。挿絵作者へのそれほどの待遇は通常ならあり得ない。私も自分で調べてみたからわかる。しかし星野氏は頑として譲らない。

「篠崎さんのブラックドラゴンがいなかったならば、わたしの物語はそもそも降りてこなかった」

 そう言い続け、出版社も結局は彼女の主張を飲んだ。私としては文句などあり得ない。家族を養っていくのだから確実な収入が約束されるのはありがたい。

 年が変わり、慌ただしく時間が過ぎていく。あと数ヶ月で長年世話になった職場ともお別れだ。会社の休憩室から眺めが最も"彼"がよく見えた。退職したら…まあ、その時に考えよう。



 小説の原版が完成した。見せてもらったそれは素晴らしいの一言しかない。"彼"がそこに確かにいた。

 三月に入り、ますます忙しくなった。小説の出版は来月だ。日本だけでなく中国や韓国。そしてアメリカとフランス、イタリアでも翻訳版が同時に販売されると聞いていた。星野栞里著「天空のブラックドラゴン」発行はすでにアナウンスされており、すでに予約が開始されている。その予約分だけで初回の発行予定部数を遥かに超過してしまったので、発売前から重版が決まっているらしい。

 我が家では嬉しい出来事があった。ある日、仕事から帰宅した私を迎えた妻の香奈美が話があると言った。

「純ちゃん。わたし、妊娠しているの。子どもができたの」

 思わず彼女を抱きしめた。二人目の子どもだ。家族が増える。将来の不安はなくもない。だが、星野氏が言ったように、すでに矢は放たれているのだ。

 三月の終わりの、ビジネスマンとしての私の最後の日、部下たちから餞別と花束をもらった。お別れ会を催したいと言われていたが断った。大袈裟にすることはないと思ったからだ。すでに彼らには「天空のブラックドラゴン」の件は教えてある。

「発行されたら絶対に買います」と彼らから言われて照れ笑いする。

 …ああ、これで私は、これからはここにいる彼らとはまったく違う道を行くのだ。

 そんな実感が今さらながら沸き起こった。

 朝の一番に部長へ挨拶に行ったが、お互いに特に言うべきこともない。儀礼的な言葉を交わしておしまいだ。余計なことは言わない。

 最後に、休憩室へ。ここから見る"彼"が好きだった。初めて"彼"を見たのもこの休憩室の窓からだった。そして"彼"は今日も変わらずに悠然と空にいる。私のブラックドラゴンがそこにいる。青い目の"彼"が今日も変わらず静かに私を見ている。

出版記念パーティー

 落ち着かない。パーティーなんぞに出席したのはかなり前、友人の結婚披露宴が最後だ。さらにそれまで接点が皆無だった出版業界人たちばかりで知り合いすらいない。だからなおさら落ち着かない。

 四月に入ってすぐに、星野氏より「天空のブラックドラゴン」出版記念パーティーへの出席の打診があった。長年のサラリーマン生活に終止符を打ったばかりでパーティーを愉しむ気分には到底なれない。

 出席を断ろうとした私を止めたのは妻の香奈美だった。彼女はこう言って私をたしなめたのだ。

「純ちゃんはゲストじゃないんだよ。もうあっち側の人なんだよ。星野先生と一緒にゲストの人たちをもてなす共同ホストなのよ。断るとか断らないの次元じゃないのよ」

 妻からの厳しい指摘に、それは確かにそうだと腑に落ちた。それに、と妻は光る目で私を見つめる。

「パーティーに出席したらきっと何かが起こるよ。きっとね」
「きっとだって?」
「そう。きっとだよ」

 その言い方が可愛らしかったので、フフッと笑ってしまう。妻の「きっと」は当たるのだ。

 パーティーへ着ていくスーツは持っている中で最も上等の生地のものを選んだ。とはいえビジネス用のモデルだから夜に開かれる祝賀会にふさわしいのかどうかは心許ない。

 星野氏と出版社からはドレスコードの指定はなかった。しかしタキシードで臨むのがもしも常識だったとしたら?

 パーティー会場は帝王ホテルの大宴場である鳳凰の間だ。電車を乗り継いで会場へ到着した私は、会場へ入った途端にとても気遅れがした。できるならば回れ右で帰りたいとさえ思った。

「すごい。すごいね。さすが星野先生だわ」

 横で妻が小さく歓声を上げる。パーティーへは奥様も是非と言われていた。妻の香奈美はコートの下にちゃんとパーティー用のドレスで着飾っていた。独身の頃に友人の結婚式へ主席するために買ったものだという。結婚してからも妻の体型はほぼ変わっていない。細身だが女らしい。まだお腹の膨らみも目立たない。

 私は彼女の参加は反対だった。妊娠四ヵ月目を超え、そろそろ安定期に入るといっても、大勢の人間が集う場所へ連れて行きたくなかった。しかしこんな貴重なチャンスを逃したら二度と体験できないわと言い張って聞かないので、とうとう根負けした。

 千人は余裕で収容できるだろう。その大空間が人でいっぱいだ。タキシードの男性が多い。ラフなファッションの人物もいるが浮いたりせずにそれが様になっている。

 出迎えてくれた作家その人は、紺色のシックでエレガントなベルベットのイブニングドレス姿だ。上背のある彼女によく似合っていた。堂々として気品がある。こういう場に慣れているのだとよくわかる。私だけが場違いだったが、いつまでも気おくれしている場合ではない。目をキラキラさせている妻を星野氏へ紹介する。

「今日はありがとうございます。篠崎さん。そして奥さま。初めまして。星野栞里です」
「こちらこそ。お会いできて幸栄です。あの、あとでサインをいただけますか」
「きみ。それは失礼だよ」

 何にもこんなタイミングでと慌てた私が止めたら、

「構いませんよ。奥さま。ありがとうございます」

 作家は機嫌を損ねた様子もない。どうぞこちらへと、私たちの先に立ち、会場の一番奥へ歩いていく。

 会場の正面奥には、一段高い舞台があった。大量のお祝いの花々が舞台の両袖までずらっと飾られている。

 舞台の下、そこが主催者テーブルだった。出版社の、数回会ったことがあるお偉方と編集担当がいる。あとはよくわからない。それらの方々と挨拶を交わす。

 祝賀会が始まった。出版社の編集長の挨拶から始まり、社長の長い話、そして星野氏が壇上に上がった。再び盛大な拍手が起こる。マスコミも来ており、何人ものカメラマンの姿がある。フラッシュの閃光。作家は変わらず堂々としている。ざわめきが引いた。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。『天空のブラックドラゴン』が無事にお披露目できたこと、関係者の皆さまへ感謝申し上げます」

 星野氏の声は静かで力強い。再び拍手の波が押し寄せる。

「すでに何度かお話ししていますとおり、この作品の成り立ちには不思議なエピソードがございます。まず、篠崎さまが描いたブラックドラゴンが先に在りました」

 星野氏の声には人を惹きつける何かがあった。会場からは咳払い一つ聞こえない。私と同じように、皆、耳をそば立てて聞き入っている。

「ブラックドラゴンの"彼"から、わたくしに降りてきた物語を小説にしたためました。"彼"がいなかったならば『天空のブラックドラゴン』は存在しなかった。わたくしからのご挨拶はこれぐらいにいたしましょう。それでは、篠崎さまからお言葉を賜りたいと思います。篠崎さま、お願いいたします」

 一際大きな拍手が起こった。息を整えてから私は立ち上がった。これほどの大勢の前で喋るのは初めての体験だ。緊張で手が震えている。ふらつかないようにしっかりと足を踏み締めながら壇上へ。星野氏が微笑んでいる。私と入れ替わり、舞台から降りた。拍手は止まない。スタンドマイクの前に立って会場を見回す。みんな私を見ている。

 震える手で、上着の内ポケットからメモを取り出す。そこに挨拶用の文をしたためてある。読み上げればよいだけだ。しかし私の頭は緊張のあまり麻痺してしまったようで、自分で書いたはずの文章が頭に入ってこない。

 みんな、私の挨拶を待っている。私からの言葉を待っているのだ。しかし、そんな風に焦れば焦るほど頭が真っ白になっていく。

 ふと、"彼"の視線を感じた。今こうして私が極度の緊張に晒されているまさにこの時でも、"彼"は遥か空の高みから私を見ている。その青い目で私を認めている。私はここにいるのだと。急に緊張が解けた。

「ただいま星野様からご紹介に預かりました篠崎と申します。星野様、おめでとうございます。そしてありがとう。私のような平凡な人間をこのような場に呼んでいただけるなんて、ご列席の皆さまへ感謝申し上げます…」

 先ほどまでの麻痺状態が嘘のようにスラスラと言葉が出てくる。星野氏と妻の励ますような視線にも助けられ、何とか無事に私の挨拶が終わった。

空間アートディレクターの思惑

 来賓やゲストの方々からの祝辞が終わり、編集長が乾杯の音頭を取った。再び拍手の洪水が沸き起こる。拍手が引いていくと会場は和やかなムードに包まれた。

「純ちゃんと一緒にパーティーなんて何年ぶりかな」
「少なくとも拓矢が生まれてからはぜんぜんだな」

 その拓矢は今夜は妻の両親の家に預けてある。自分だけ除け者にされた我が子は今頃どうしているだろう。むずかっているだろうか。妻と話していていると「純ちゃんって、もしかして篠崎さんのことですか?」星野氏が会話に加わってきた。

「仲の良いご夫婦なんですね。とても幸せそう。羨ましいわ」

 星野氏は独身であると聞いた気がする。ご結婚されないのですか?などと聞くのはセクハラに当たる。と思っていたら、

「先生はご結婚されないのですか」

 さらっと妻が聞いた。

 一瞬、ヒヤッとした。しかし妻の不躾な問いにも、星野氏は機嫌を損ねた様子はない。

「ははは。結婚したくても相手がいないから」
「そんな。星野先生ほどの美人が、お相手がいないだなんて信じられないです」
「でも本当のことなんです。わたしのことはいいから篠崎さんと奥さまの馴れ初めを聞きたいわ」

 女同士の会話が始まった。ここは妻に任せておこう。

 アルコールは嫌いではない。だが酔っ払うわけにはいかない。ほどほどの酒量を意識しつつ、貴重なひと時を愉しむことにする。

 談笑している作家の横に一人の男が立った。星野氏へ何かを耳打ちしている。知り合いのようだ。黒いスーツに黒いハイネックセーター。長髪に顎髭。おしゃれないでたちだ。年齢は私よりも少し上か。目が合った。軽く会釈をされたので私もそれに倣う。

「篠崎さん。ご紹介したい方が。こちらは…」作家のあとを引き取り「空間アートディレクターのケイ・ヤマガタです」

 その男が自己紹介した。イントネーションにくせがある。

「篠崎です。初めまして」

 名刺を出されたので自分も出そうとして思い出した。会社を辞めてから名刺なんて作っていなかった。

 ヤマガタ氏の名刺の肩書きには、誰もが知っているであろう世界的に有名なテーマパークの名前があった。

「篠崎さんは、あのイラストのとおりのドラゴンが見えるそうですね。星野先生から聞きましたよ」
「ええ。そうです」
「ははは。面白い方だ。素晴らしい」
「そうですか」
「ええ」

 何を言いたいのかわからない。ヤマガタ氏の後ろに若い女性がいた。連れらしい。私の視線に気づいたヤマガタ氏が振り返る。

「彼女は私のパートナーです」

 すっと、その女性の肩を軽く抱いた。パートナーとは言い得て妙だ。夫婦にしては歳が離れていると思っていた。

「篠崎さんの才能は素晴らしい。その才能を見込んで提案があるのだが」
「提案ですか?何でしょう」
「その話の前にですね。彼女にドラゴンを見せてやってくれませんか」
「は?」
「ヤマガタさん。篠崎さんが困ってるじゃない」

 作家が割って入った。

「ハハ。パーティーを盛り上げるための、ちょっとした余興ですよ」
「僕は構いませんが。"彼"を描けばいいですか。しかし画材が無い」

 見せてくれとは絵を見たいということなのか。この業界の流儀はさっぱりわからないが、ヤマガタ氏があまり愉快な人物ではないことは、星野氏の彼に対する態度を見ても確かなようだ。

「ノー。あなたに絵を描いて欲しいとは言っていない。彼女は見える人なんですよ。霊感があるのです」
「ほう。それで僕はどうすればいいですか」

 自分の声が投げやりになっていくのがわかる。

 霊感だって?
 馬鹿馬鹿しい。

 するとそれまで黙っていたその女性が口をきいた。

「手を出してください」
「えっ」
「手を出してください」

 揚々のない声で繰り返す。白い二の腕が漆黒のドレスから覗いている。その腕が上がった。差し出した私の手に、そうっと自分の手のひらを重ねた。

「どうなっても知らないから」

 作家のつぶやきが聞こえた。ヤマガタ氏はパートナーの女と私の顔を見比べている。

 女が目を閉じた。何も起こらない。霊感だなんて、やはりくだらない余興だ。妻に向かって肩をすくめてみせる。

 急に、いきなりそれは起こった。女の腕と身体がギクっと硬直し、カッと目を見開いたと思ったら甲高い声で叫び出した。

「アアアアァァァァ!!!ア、あああ…」

叫びながら真っ直ぐに腕を伸ばし、上を指差している。

「ああ、あ、あそこ、に」

 それだけ言ったら、バッタリ倒れてしまった。

 その場にいた誰もが唖然として動けずにいるなかで、作家だけは違っていた。

「誰か!急いで救急車を呼んでください!」

 きびきびしたその声によって、まるで呪縛がとけたかのように皆が動き出す。

 私と妻は、倒れた女の様子を見るためにしゃんがんだ。手首をおさえ、脈を確認する。息はしている。脈もわかる。とりあえずホテル備え付けのAEDを使う必要は無いようだ。

 ぐったりしていた女が目を開けた。私を見て「竜が、真っ黒な竜が」小さな声で言った。それが聞こえたのだろう。弾かれたようにヤマガタ氏が動いた。横たわっていた女を抱き起こす。肩を支えて立ち上がる。頭を打ったりぶつけたりしていないようだから、動いても大丈夫だろう。

 ホテルのスタッフがやって来た。医務室はあるかと星野氏が訪ねている。やがてヤマガタ氏と連れの女性はスタッフの先導でどこかへ行ってしまった。

「お騒がせしました。もう大丈夫です。申し訳ありません。引き続き、楽しいひと時をお過ごしください」

 作家の呼びかけにより騒ぎは収まった。

「ごめんなさい。篠崎さん。びっくりしたでしょう」
「それよりも先生。彼女の目を見ましたか?」
「彼女って、ヤマガタさんの若い恋人のこと?」
「そうです」
「青かった。叫んで倒れる前、目が青く光っていたわ」
「星野先生も見たのですね」

 そうか。
 私の見間違いではなかったか。

 カラーコンタクトかと思ったが。あれは"彼"の目の輝きと同じだった。

「星野先生はわかっていたんですね。こんなことになるって」

 横から妻が言った。私も同じ疑問を抱いていたので「あなたが、どうなっても知らないからと言ったのが聞こえましたよ」単刀直入に作家へぶつけてみる。

「まあね」苦笑した作家は、私と妻へ酒のお代わりを聞いた。

「いや。もう結構です。ヤマガタさんと知り合いなのですか」
「前に、わたしの作品の映画化の際にね。ヤマガタさんは腕は一流なんだけど」

 質問を変えて水を向けてみたが、あとが続かない。どうやら空間デザイナーの話はあまりしたくないようだ。

「そうだ。篠崎さんにビッグニュースよ。『天空のブラックドラゴン』に、早速なんだけど映画化の話が来ているの」
「それは、おめでとうございます」

 妻と二人で声を揃えてお祝いを述べたところ、星野氏はきょとんとした顔になった。と思ったら、急に笑い出した。

「ああ、可笑しい。まるで他人ごとみたいね。そうじゃなくて、これは篠崎さんにとってもビッグニュースなんですよ」
「えっ」
「わたしと篠崎さんは共同でこれから映画にかかわることになる。わたしはストーリーを、そして篠崎さんは"彼"の監修を担当する」
「あ、ああ、そうか」
「"彼"にかかわることは篠崎さん以外の誰にもできないでしょう」

 そうか。
 そうだ。
 彼女の言うとおりだ。

 でも映画だって?
 "彼"を映画にだって?

「オファーがあったのは日本の数社とアメリカのユナイテッドムービーから。わたしは日本のアニメーションよりも海外の俳優を起用した実写がいいと思うのだけど。もともと和の要素は皆無だし。"彼"はCGで表現する。篠崎さんはどう思います?」
「ユナイテッドって、ハリウッドですよね」
「そうね。ヤマガタさんはユナイテッドの仕事もしているの」

 どう思いますと言われても、私ごとき素人に判断できるはずがない。話のスケールが大きすぎる。返事をできずに頭を抱えていたら、ヤマガタ氏が一人で戻ってきた。

「ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」

 深々と頭を下げた。殊勝な姿はまるで別人のようだ。

「彼女はもう大丈夫なのですか?」
「ええ。救急車はキャンセルしました。本当にすみません」
「一人で置いてきたの?かわいそうじゃない」
「車を呼んで帰しました。体調も戻ったから大丈夫ですよ」

 それよりもと、ヤマガタ氏は私に向き直った。

「先ほどは大変に失礼いたしました。お詫びいたします」
「いえ。構いませんよ」
「あなたは、篠崎さんは本当にドラゴンが見えるのですね」
「そうです」
「私は、それはただの、なんと言いうのか、失礼ながらキャッチコピーのようなものだとばかり思っていたのです」

 妻と顔を見合わせる。彼女も同じ思いのようだ。凄腕らしい空間ディレクターが何を言わんとしているのかよくわからない。こういう時は相手に勝手に喋らせるに限る。

「一般の人間には見えない驚異が見える遅咲きの新人イラストレーター。その目で見たままのドラゴンをリアルに描く。確かに実力は素晴らしい。星野先生とのコラボを見たユナイテッドが飛びついたのもわかる。しかしずいぶん派手なキャッチコピーだなと眉唾に思ったのは事実です。だからあなたに会ってみたかった。会って確かめたかった」
「それで霊能者の女性を連れてきたのですか」
「彼女には相手の嘘がわかるのです。しかし、その結果は」
「なるほど。そうだったのですね」
「あなたのブラックドラゴンは、"彼"は、神ですか」

 山本と同じことを言う。私を裏切ったかつての友人も同じ問いをした。私は、"彼"は神ではないと答えた。その、山本に裏切られたエピソードを披露した。

 ヤマガタ氏と星野氏は最後まで口を挟むことなく真剣な顔で聞いていた。妻は途中からハンカチを目に押し当て、時折、鼻を啜る小さな音をさせていた。その肩にそっと手を置く。

 私の話が終わり、最初に口を開いたのはヤマガタ氏だった。

「大変失礼ながら、そのご友人の気持ちもわからなくはない。神を見たかもしれないのに、あなたはなぜそれほど平然としていられるのか、僕にも理解できないから」
「"彼"は神ではありませんよ。山本にもそう言いました」

 ブラックドラゴンは、ただ存在しているだけだ。全知全能であるはずの神ではないだろう。

「なぜそう言い切れるのです」

 ヤマガタ氏が、あの時の友人と同じように食い下がってくる。

「私は平凡な人間です。初詣に行ったり子どもの七五三を祝ったり、亡くなった祖父の墓参りには行きます。しかしそれは世間一般の習慣にならっただけであって、神も悪魔も、そういう存在を突き詰めて考えたことなどない。神様が私にだけ現れる理由が無い」

 それまで黙っていた作家が「多分、そんなことは関係ないのよ」と言った。

「もしも神がいるとしたら、それは人間の理解の向こう側にいる。だから信じるとか信じないとか、その存在にとってはどうでもいいんじゃないかな」

 そう続けたあとに、パッと笑顔になり、

「わたしはわかりやすい神さまも角が生えた悪魔とかも、いてもいいんじゃないって思ってるけど」

 あっけらかんとした口調は、その場の雰囲気を和ませるためか。ヤマガタ氏は、まあそうですねと苦笑いした。

 神が存在するか否かの不毛な論争に発展せずに済んだようだ。私は密かにホッと胸を撫で下ろす。

「彼女には黒い竜が見えたらしい。彼女は嘘はつかない。見ていないものを見えたなんて決して言わない」

 ヤマガタ氏の言う「彼女」とは急に倒れたパートナーに決まっている。私の手に触れたあの女性は"彼"を見た。だから目が青くなったのか。

「騒ぎになる前に、僕は篠崎さんに提案があると言いましたね。覚えていますか」
「映画の話ですね」
「その件については別の代理人が星野先生へすでに。僕の用件は違う」

 思わせぶりな言い方をする。すでに映画化の件を聞いていたから何を言われても驚かない、つもりだった。しかしヤマガタ氏からの提案は私の予想を遥かに超えていた。

「"彼"をUCテーマランドのアトラクションとして導入したい。これが僕からの提案です。あなたのブラックドラゴンの完璧な3D映像化です。観客はライドで愉しむ。いかがです。素晴らしいでしょう」
「UCテーマランドですって?」

 妻が息を飲んだのがわかった。UCテーマランドは世界各地にある。老若男女、その名を知らない人などいないであろう超有名な巨大テーマパークである。妻が驚いたのも無理もない。私も同様だ。

 絶句している私へ、ヤマガタ氏はさらに熱弁を振るう。

「ご存知のようにUCテーマランドは東京とカリフォルニア、ハワイ、パリ、香港そして上海にあります。そのすべてのアトラクションでブラックドラゴンを…」

 止まらない熱弁を、ちょっと待ってと制したのは星野氏だった。

「ヤマガタさんはいつもそう。篠崎さんが目を丸くしていますよ。それにそんな規模の大きな商談をこんな風にお酒が入っている時にするべきではないと思うの。いかが?」

 商談というワードに反応したのか、ヤマガタ氏の熱弁が止まった。私の頭も急に冷静を取り戻した。

 そうか。
 これはビジネスの提案なのだ。
 ならばかつての、ビジネスマンとしての私の得意分野だ。

 結局、UCテーマランドの件は後日、正式に別の場所で話し合うこととなった。

 ヤマガタ氏が帰ったあと、星野氏からある人物を紹介された。名刺の肩書きには弁護士とある。

「わたしがずうっとお世話になっている法律事務所の松野先生です。主に著作権の案件をお願いしています。これからヤマガタさんと商談を進める前に、気をつけておくべきことがあるから」
「それはブラックドラゴンの著作権ですね」
「そう。ヤマガタさんは悪い人じゃない。でもユナイテッドとUCテーマランドは世界的な企業です。人々へ夢を売る彼らであっても、企業であるからには常に自社の利益を優先する。だから契約を結ぶ際には気をつけないといけない」
「よくわかります。私も長年、企業で働いてきましたからね。しかし多くの人に"彼"を知ってもらいたいというのが私の望みです」

 彼らの思惑と私の希望は一致しているはずだ。問題は見当たらない。

「彼らと篠崎さんの向いている方向は同じ。でも彼らには己の利益の元で、という条件が付く」
「有体に言えばですな」初老の弁護士が補足に入る。「うっかり契約を結んでしまったら、今後あなたは自由に絵が描けなくなるのですよ」

 ああ、そうか。
 なるほど。

 彼らのアトラクションは当たり前だが彼らのものだ。彼らのアトラクションにブラックドラゴンを登場させるのはそういう危険をはらんでいるのだ。

「彼らは私のブラックドラゴンを独占したい。そういうことですね」
「そう。そのとおり。彼らのやり方を知っていれば対抗策はあります。意匠に関しては篠崎さんに帰属する旨の一文を契約書に明記させればよい。でも…松本先生を紹介した理由は他にもあるの」

 作家の表情は変わらないが、その声には不穏なものがあった。

「さきほどのお話の中で、騙されて彼の絵を盗まれたとおっしゃいましたよね」
「ええ」
「そのお友だちはそれらの絵をオークションで高値で売ったと」
「そうです」

 顧問弁護士と作家が目配せした。黙ってうなずく。

「数日前に、ある人から電話があったのです。その電話はプライベート用なのでナンバーは公開していない。しかし非公開であっても今のご時世、調べようと思ったらわかります」
「その電話がなにか?僕になにか関係があるでしょうか」
「その人は篠崎さんのことを聞いてきました」
「えっ」
「名前は名乗らなかったけれど、ロイズ&サンズの代理人であると言い、篠崎さんのことをしつこく尋ねてきた。わたしは公開されている情報しか喋らなかった。出版社へも同じ相手から電話があったらしい」
「ロイズ&サンズ?」

 その名称は聞いたことがある。確か…。

「ええ。ロイズ&サンズ Londonは、欧州最大で最古のオークションハウスです。きっとそのうち、彼らがやって来るでしょう」


(続く)

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