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灰色の街に今日も雨が降る with My Funny Valentine

『マリアという女』の後日談

♦︎登場人物

私立探偵
愛車はシルバーブルーのフォード・マスタングGT
警部補
太った警察官
俺は尊敬と揶揄を込めて警部と呼んでいる。
どうやら俺とは昔からの知り合いらしい。
マリア
故人
「マリアという女」事件で俺と出逢う。
カレン
カレン・S・バラック
プロ・チェスプレイヤー。
世界ランキング二位
「黒のクイーンは笑わない」事件で俺に仕事を依頼する。


#01 雨

 今日も朝から雨だった。天気に文句を言っても仕方がないが、こう雨ばかり続くとうんざりする。事務所の窓から見える空は一面の灰色だ。タバコが不味いのもそうだが、こんな風に音もなく舞い降りてくるような雨の日はいつも憂鬱な気分になる。

「またあの女のことを思い出しているのか」
「そうだ」
「もう二年も経つんだぞ」
「まだ二年しか経っていないという言い方もできるよ。チェックメイトだ警部」
「何だと」
 
 最後の"何だと"が、はたして時間の経過に対する見解の相違についてのコメントなのか、それとも俺とのチェス対戦で五連敗目という事実にクレームを言いたかったのか定かではなかった。多分、両方なのだろう。

 来客用の椅子でふんぞり返っていた制服の警官が、体を乗り出し、うーんと唸りながらチェスボードをにらむ。その体の重みに耐えかねた椅子が、ぎしっと鳴った。今にもばらばらに壊れてしまいそうだ。もしも本当にばらばらに壊れてしまったら警察に弁償してもらうつもりでいる。

「なあ。あんた強くなっていないか」
「どうだろうな」
「間違いない。俺がこんなに勝てないなんておかしい。プロチェスプレイヤーの恋人の指導の賜物ってやつか」
「カレンは恋人じゃない。ところで仕事中にこんな場所で腕利きの警官がいつまでも遊んでいていいのか」
「いいんだよ。留守は任せてあるから。腕利きの警官には優秀な部下が付きものなんだよ。知らなかったか」
「それは知らなかったな警部。あんたに優秀な部下が居たなんて」

 自軍の白クイーンを睨んでいた目が今度は俺をにらんだ。負けずに俺もにらみ返す。

「さっきから嫌味たらたらだな。まだあの女の事件を根に持っているのか。言いたいことがあるならはっきり言えよ。それに俺は警部じゃない。警部補だ」
「根に持ってはいないさ。警察に殺されたマリアを忘れられないだけだ」
「警察は、俺の部下は職務に忠実だっただけだ。それはあんたに説明したよな。これまで何度も。あんたも納得しただろうが」

 そこに懇願するような響きを感じ、口から出かかった言葉を飲み込む。こんなやり取りはもう何度目だろうか。警部補の言うとおり、納得したはずなのに納得できない。多分、納得できない理由は、俺にも責任があるとわかっているからだ。わかっていながら、マリアが死んだのはすべて警察が悪いと思いたい。

 拳銃を手に、マスタングのドアを素早く開け外に出たマリア。俺を見て微笑んだその顔が脳裏に焼き付いて離れない。

「済まなかった。警察は悪くない。悪いのはマリア自身だ」
「なあ、あんたは…」
「マリアは警官に射殺されるつもりで行動を起こしたんだ」
「そうだ。あんたも悪くない。自分を責めるのはいい加減、もうやめるんだ」
「あの時、俺は彼女を止めることができた。マリアは死なずに済んだんだ」
「やめろ」
「それなのに俺は」
「昔、俺がまだ平警官だった頃のことだ」

 思いがけず穏やかな声が自分の声に重なり、俺は黙った。

#02 後悔

「ダウンタウンの外れに建つ古いアパートで、銃を持った男が女を人質に立て篭もった。同棲していた恋人に逃げられた腹いせに、隣の部屋の主婦を襲ったんだ」
「何の関係もない人間に八つ当たりか。ひどい話だな」

 相槌を打ちながら、ひどい話だがよくある話だと思った。理由もなく傷つけられたり殺されたりするのは別に珍しくもない。世の中は不条理で出来ている。

「そうだ。ひどい話だがよくある話さ。抱いていた赤ん坊まで母親と共に人質になったたこともな。この街じゃあ珍しくもない」
「…そうだな」
「その男は暴行容疑で何度も収監されたことがあるヤク中だった。アパートの住民からの通報で駆けつけた俺たち警官に向かって、わけのわからないことを喚いていたよ。だがラリって頭が逝っちまった麻薬中毒者でも、女と赤ん坊が人質になっていたからおいそれとは近づけない。立て篭もっていた部屋に踏み込んだまではいいが、俺たちは入り口付近で足止めされてしまった」

 警部補が一息入れたタイミングでコーヒーのお代わりが欲しいか聞いた。いらないというぶっきらぼうな返事。自分が飲むために椅子から立ち上がる。

「女を捕まえたまま、男は徐々に後ろへ下がって行く。後ろには開け放った窓があり、その向こうはバルコニーだ」

 何となく結末が予想できる話を背中で聞きながら、ドリップパックをカップにセットし、ポットから湯を注ぐ。これでもフリーズドライのインスタントよりもはるかにましな、コーヒーらしい味がする。

 自宅では焙煎した豆を挽いて淹れるが、事務所にいる間は仕事中であるし、そんな優雅な時間を愉しむ気にはならない。

「俺たちはヤク中男が逃げるものとばかり思い込んでいた。だからバルコニーに出た男が、女を、抱きかかえた赤ん坊もろとも、いきなり手すりの向こう側に投げ落とすなんて予想もしていなかった。俺たちが飛びかかると同時に、ヤク中男は口に拳銃を突っ込んで引き金を引いた」
「ずいぶんひどい話だな」
「ああ。最低だ」

 カップを手に椅子に座り、目の前の見慣れた男の顔を眺める。それはいつになく疲れた表情に見えた。

「アパートの七階から転落した女は即死。もちろん赤ん坊もだ。ヤク中男も自分の脳みそを吹っ飛ばして即死。あとには役立たずで間抜けな警官が残った。その間抜けで役立たずの警官の一人が俺だった」
「あんたは役立たずでも間抜けでもない」
「死んだ女は俺たちが助けてくれると信じていたはずだ。女は何も悪くない。赤ん坊もな。理由もなく事件に巻き込まれ、理由もなく気違い野郎に殺された。俺たちは、俺は、女も赤ん坊も助けることができた。それなのに手をこまねいているうちに、呆気なく死んだ。俺たちが殺したようなものだ」
「それは違うよ警部」
「いいや違わないぞ探偵」

 俺とこの太った警官は、どこかで聞いたやり取りを繰り返している。それはマリアが死んだあとに、俺がこの太った警官相手に繰り返してきたやり取りの、役どころを交代しての再現だった。

「二度と間抜けにはならないと、俺は自分に誓った。あの時、躊躇なんてせずにヤク中を射殺していたらあんな結末にならずにすんだ」
「だからマリアを?」
「ああ。部下にもそう叩き込んだからな。だがな。警告もせずに撃てとまでは命じていない」

 マリアを撃った警官は処罰されたと新聞で読んだ。本署勤務から交番勤務に降格されたと、知り合いの警官から聞いた。ちなみにそれを教えてくれたのはこの警部補ではない。この男はそんな余計なことは言わない。言い訳なんぞ一切しない男だから。

「結局、何が言いたいんだ警部」
「別に。何も言いたかあないさ探偵。それに俺は警部じゃない。警部補だ」

#03 ひまな探偵と赤い傘

「ところで俺に何か用事があったんじゃないのか。チェスと愚痴のために、町外れのしがない探偵事務所へわざわざ寄ったわけではあるまい」
「チェスと愚痴とうまいコーヒーのために、わざわざ、町外れにある狭っ苦しい探偵事務所に寄っちゃいかんのか」
「人の揚げ足ばかり取るんじゃないよ警部。それにコーヒーのお代わりを断っただろうが」
「揚げ足取りはお互いさまだろうよ。やっぱりコーヒーのお代わりを頼む。しゃべりすぎて喉が渇いた」

 わがままな客のためにコーヒーを淹れてやる。立ったついでに窓から外を見るとまだ雨が降っていた。当分は止みそうにない。
 
 通りの向こう側を赤い傘を斜めに差した背の高い女が足早に歩いていく。どうやら俺の事務所には用はないらしい。電話も鳴らない。結構。暇な警官の相手をする時間は、とりあえずはたっぷりあるようだ。

 とはいえ…。

 この警官が警察署からここまで乗ってきたはずのパトカーの姿が通りに見えない。無駄話をするためにちょっと寄るだけなら通りに停めておくだろう。

 来客用として事務所の近くに駐車場を借りている。パトカーはわざわざそっちに回したらしい。ということは、この警官は俺に用事があってわざわざここまでやって来たのだ。

 仕事の依頼は来ないくせに金にならない警官にばかり好かれるのはどうしたものだろう。長雨のせいかもしれない。

「そろそろ用件を言ってくれ。こう見えても俺だって忙しいんだよ」
「そうか?忙しいようには見えないぜ。今日、早い時間に、黒ずくめで美人のあんたの恋人がやって来たよ」
「カレンが?」
「ああ。この間のお礼だとさ」
「ふうん。それで?」
「恋人という点は今度は否定しないんだな。まあいい。それで、女はあんたのことを咎めないくれと言った」
「なに」
「大目に見てやってくれと、そういう意味のことを、相変わらず何を考えているのか分からない顔で俺に言ってきた」
「カレンがそんなことを」
「大目に見るもなにも、あんたのおかげで、この街のゴミを一掃できたんだ。真面目な話、本来であれば感謝状を出さねばならないと俺は今でも思っている」

 警察からのその申し出を俺は断った。俺はいつもどおりに仕事をやっただけ。そして成り行きで事件の真相を暴いた。ただそれだけだ。それに表彰なんて迷惑でしかない。そんなものをありがたく頂戴してしまったら確実に客が減ってしまう。

 この探偵事務所の客層は警察に腹の内を探られたくない人種ばかりだから、国家権力と仲良くするのはほどほどにしておかないといけない。

「しかし、相変わらずいい女だな。あんたの彼女は」
「だからカレンは恋人じゃないって言っただろう」

#04 かわいい女

 おしゃべりな客が帰ると、寂れた探偵事務所に静寂と退屈が戻ってきた。

 電話も鳴らない。雨も上がらない。

 ブラインドの隙間から、雨に濡れた通りを見下ろす。ずぶ濡れの犬が通り過ぎていく。寒々しい風景だ。きっと犬も俺と同じ気持ちだろう。

 ノックの音がした。わざわざこんな雨の中を客が訪ねて来たようだ。冷たい灰色の景色を眺めるのをやめ、俺は事務所のドアを開けた。

「こんにちは」
「…カレン」

 折りたたんだ黒い傘から水が滴っている。黒いトレンチコートも雨に濡れている。

「仕事のお邪魔だったかしら」
「いや」
「そう?それならいいけれど」
「ああ」
「ねえ。中に入っても構わない?外に立っているとすごく寒いのよ」
「あ、ああ、これはすまない。さあ、入ってくれ」

 トレンチコートを預かり、来客用のソファをどうぞと薦める。ゆっくり腰を下ろした女は俺の顔を見つめ、次にデスクの上のチェスボードを眺め、また俺の顔に視線を戻した。

「前よりも筋が良くなったわね」
「そうか?相変わらず勝ったり負けたりだが」
「闇雲に攻めたりしないで防御を考えるようになった」
「駒の配置だけでそこまでわかるのか」
「わかるわよ。だってこう見えてもプロのチェスプレイヤーだもの」
「きみがプロで世界ランカーなのは、こう見えてもよく知っているつもりだよ」

 凍えたカレンをもてなすべきであると急に気がついた。暖かいコーヒーを淹れるために立ち上がる。

 湯気の立つマグカップを持って戻ると、対局の途中だったチェスの駒が、カレンの手によって開戦前の初期配置に戻されていた。

「おい。これは…」
「大丈夫。見ていて」

 慌てる俺を尻目に、対局の一手目からの攻防を、カレンは流れるような動作で淀みなく正確に再現していく。それはもう見事としか言いようがない。

 か細い指が白のナイトをE6に置く。それで再現終了だ。

「凄いな。途中経過を見てもいないのに、よくわかるな」
「わかるわよ。だって…」
「プロだから。それでもやはりきみは凄いよ」
「こんなことはプロ・プレイヤーならば誰でもできる。でも…ありがとう」
「実は、勉強したんだよ。きみの過去の公式記録を参考にしてね」
「そうなの。ありがとう」

 世間ではカレンのことを「氷の黒女王アイス・ブラック・クイーン」と呼ぶ。

 整った白い小さな顔立ち。いかなる状況下であっても冷静に、その表情を変えず、笑った顔を見せたことがない。

 だからと言って、中身まで氷のような冷たい女じゃないことを俺は知っている。

「それじゃあ…あまりお邪魔してもいけないから、そろそろ帰るわ」
「えっ」
「今日はあなたにこれを渡しに来ただけだから」

 はいと差し出されたのは、綺麗なリボンが掛かった黒い小さな箱だ。包装紙に印刷された文字によると中身はチョコレートらしい。

「なぜわざわざ俺にチョコレートを?」
「えっ。だって今日は二月十四日よ」
「…」
「まさか…素敵な探偵さんはバレンタインデーも知らないの?」
「バレン…タイン…?」

 途方にくれた俺は、きっとよほど間抜けな顔をしていたに違いない。カレンは我慢できないといった感じでプッと吹き出したかと思ったら、声を上げて笑い出した。

 初めて見るその笑顔に俺は呆気に取られてしまう。

 随分前に妻が亡くなってから、バレンタインデーなんて縁がなかった。そんなものがあることすら、すっかり忘れていた。

「もしもチョコレートが嫌いだったら、捨てるなり人にあげるなり、好きにしてちょうだい」
「とんでもない。もちろん、喜んでいただくよ」
「そう?ああ、可笑しかった」
「きみも…」
「なに?」
「きみが笑うところを初めて見たよ」
「わたしだって人間だもの。可笑しかったら笑うわよ」
「そうだな。そりゃそうだ」
「無事に用件も済んだし、これで失礼するわ。いつか、一緒に食事でも…」

 送って行こうと言いかけたところで電話が鳴った。こちらが待っている時は鳴らないくせに、まったくタイミングの悪い客だ。

 受話器を取り、後でこちらからかけ直すと一方的に伝え、切る。

 カレンの姿はない。帰ってしまったのか?急いであとを追う。

 あんないい女を、ただチョコレートを渡すためだけに、こんな冷たい雨の中をせっかく来てくれたかわいい女を、一人で帰すわけにはいかない。

My Funny Valentine - ミシェルファイファー


𝑭𝒊𝒏

♦︎【大人Love†文庫】星野藍月


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