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【こんな映画でした】590.[ファイナル・カット]

2020年 4月24日 (金曜) [ファイナル・カット](2004年 THE FINAL CUT 95分 アメリカ/カナダ/ドイツ)

 なかなか見応えのある映画であった。選んだ理由はロビン・ウィリアムズ出演映画だから。彼の出演映画は、まず間違いないので、機会あるごとに手に入れて観ていこうとしている。

 もっともIMDb(6.2)や「ロトントマト」(評論家36%、オーディエンスで45%)の評価はかなり低い。要するにこの手の映画の価値が理解できないか・理解したくないのか・はたまた見かけがハッピーエンドでないからか。

 監督がオマー・ナイーム(Omar Naim)というヨルダン人の撮影当時26歳くらいの若者であることもあるか。あと別に3作ほどあるが観る機会はないようだ。

 さてここで「カット」とはやはり映画のカットのような、人生におけるシーンのことだろう。人生の最後に振り返って、映画の映像のように自在に編集(カット)して、素晴らしいものに仕上げる。もちろんこれは死んだ当人にはできないので、専門の業者に依頼することになる。

 それがこのアラン(ロビン・ウィリアムズ)の仕事である。この人物は、10歳頃にあった事故でルイスという同じ年の男の子が死んだのは、自分の責任であると「記憶」している。それがいわば原罪・トラウマとなっている。このエピソードがオープニングシーンであった。

 結論から先に言うと、彼の過失ではなく、注意したにもかかわらずルイスがしくじって落下したのであった。そして死んだと「記憶」していたが、それは間違いで生きていた(もちろん怪我はしたろうが)。横に流れていた血のようなものは、そこに置かれてあったペンキであり、それをあわてたアランが蹴飛ばして床に流してしまったものだった。それを勘違いしていたということ。

 これが判明して彼はホッとするのだが、まずい事実が判明する。そもそもこの編集の仕事に携われる条件としては、この「ゾーイ」と呼ばれる記憶チップをその脳内に埋め込んでいる人はだめなのだ。なぜなら他人の記憶チップを編集する際に、その内容も編集者本人の記憶チップに記録されてしまうからだ。

 つまりプライバシーが守られず、場合によっては悪用されるから。ところがアラン自身は、自分の中に記憶チップが埋められているとは知らなかったのだ。だからこの仕事に就いていたわけである。本来ある時期(21歳ころか)が来たら、親がそれを子供に伝えることになっていたのだが、アランの場合、それまでに両親が同時に亡くなってしまっていたからだ。

 この事実が判明した時点で、アランはもうこの仕事を辞めるしかなくなるのだった。ただその最後の仕事で扱っていたバーニーという人物の記憶チップを、知り合いのフレッチャーが譲ってほしい、と。それを拒否したアランは最終的に殺害されることになる。主人公が殺されてしまうのだから、アメリカ映画に多い通り一遍のハッピーエンドではないのだ。

 深刻な問題を提示するSFなので、笑っておしまいという映画にはならず、不人気となったのかもしれない。私などには見応えある考えさせられる映画で、推奨したい映画の一つだ。

(反対運動をする人たちのスローガン) 思い出は自分で作れ! 人にまかせるな、今日のために生きろ!

フレッチャー「考えるとぞっとするよ、20人に1人にチップが。あの赤ん坊は将来美しい思い出ばかりが残っているだろう。編集者が美化した思い出がね」
アラン「客が望む思い出を残すのが、私の仕事だ」
「ご立派だな。だがその害を分かってない。ゾーイの記憶チップは人生に深刻な影響を与える。"私は記録される?"、"この発言は平気?"、"30年後にどう思われる?"。記録されない権利はないのか? 他人の記憶に自分が現れない権利は?」
「客は自ら望んで記憶チップを埋め込む。ニーズだよ」
「あんたは人殺しを聖人にしてる」。

 細かい演出としては、アランがバーニーの娘イザベル(10歳くらいか)に質問をする際、彼女の部屋でそれをしたわけだが、閉められていた部屋のドアをアランが開ける動作を、イザベルがきちんと見ているのを、観客にも気がつかせるようにしていた。要するに父親が彼女を自分の書斎に連れてきてドアとその鍵を閉めたことが、バーニーの記憶の編集の際にアランは知っていたからだ。そのようなアランの配慮にイザベルは、少し信頼感を持ったようであった。

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