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【こんな映画でした】461.[たぶん悪魔が]

2022年 8月25日 (木曜) [たぶん悪魔が](1977年 LE DIABLE PROBABLEMENT THE DEVIL PROBABLY フランス 97分)

 ロベール・ブレッソン監督作品。観るのはこれで11作目となる。主人公シャルルをアントワーヌ・モニエ。詳しいデータは見つからなかった。アンニュイな雰囲気が、この映画にピッタリということだろう。彼を愛する女性は、アルベルト役のティナ・イリサリ、エドヴィージュ役のレティシア・カルカーノ。この二人についてもデータなし。

 男友達ミシェル役にアンリ・ドゥ・モブラン(撮影当時26歳)。真面目な真っ当な、ごく普通に生きていける人間といったところ。あと薬物やピストルを手配してくれる男や、シャルルが世話を焼き、最終的に重要な役割を果たす男友達が出てくる。

 この映画もまた、キリスト教についてある程度知っていないと理解できないもののようだ。神と悪魔、である。メイキングで「神」の存在を信じる人は、同時に「悪魔」の存在も信じている、と。

 単純に言えば、良いことは神のおかげであり、悪いことは悪魔の仕業、というわけである。ただ原題には「多分」と入っているので、監督がすべてそのように考えていたかどうか。私からすれば、世の中のことはすべて人間の所行である。良いことも悪いことも、同じ一人の人間が行うのだ。それが人間というものだ。

 この点、キリスト教の人間理解はどうか。非情というか、だから現実に存在するはずのない「悪魔」の存在を想定し、悪魔の仕業だとするわけだ。ここに根本的な誤りがある。間違った前提からスタートすれば、その結論も間違いとなるわけだ。

 主人公シャルルであるが、人間的に真面目であるがゆえに、世間の事が、その本質的な汚さが見えてしまうということなのだろう。対人関係でもそうだ。愛してくれる女性や友人はいても、それらの愛情や信頼・友愛を信じられないのだろう。こうなるともう自滅していくしかない。

 驚いたのは公害の事例として、ドキュメンタリー映像を挿入していることだ。事実の映像かどうか分からないが、アザラシの子どもが撲殺されるシーンは見たくないものであった。

 教会における宗教に対する批判もある。宗教界からの抵抗もあったのではないかと思う。全体として明るい映画ではない。もちろん娯楽となる映画でもない。それでも監督が作り・表現したくて生まれたものであろう。これを真摯に受けとめられるかどうか。社会にその余裕があるかどうか。

 なおこの映画はカンヌ映画祭では、上映されなかったようだ。拒否されたということか。今回、この映画を観ることでキリスト教信仰を持つ西洋人(?)の思考の構造が少し分かったような気がする。それは私の理解では、悪いことはすべて悪魔の仕業とするなら、本来そこに介在する人間の責任はすべて免除・免罪されることになるわけだ。

 それは、あってはならないだろう。きちんと人間がやったことは、人間が責任を取らなければ、世界はむちゃくちゃになる。いや、現にそうなっているというべきか。それでも平気でいられるのは、それらは神ではなく、悪魔の仕業だから仕方がないということにするのだろうか。そう、悪魔の仕業であれば、誰もどうすることもできない、と。完全な無責任体制である。

 一神教の限界かもしれない。土俗信仰のように思われているが、まだ多神教的な考え方の方が世界は平和である。さらに言うなら仏教的な考え方を知れば、神と悪魔についての概念も変わることだろう。私の妄念かもしれないが、世界はこの仏教的な思考を獲得していかないと、平和な世界はやってこないと、今の世界情勢を見ながら私は考える。

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