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【こんな映画でした】452.[山椒大夫]

2022年10月12日 (水曜) [山椒大夫](1954年 124分)

 溝口健二監督作品。母親・玉木に田中絹代(撮影当時44歳)、厨子王の子役は津川(当時は加藤)雅彦(撮影当時14歳)、そして花柳喜章(はなやぎよしあき、撮影当時30歳)。安寿には榎並啓子、そして香川京子(撮影当時22歳)。

 これはブルーレイディスクで、画質が良くなっていると思われる。たいへん観やすい。そしてあらためてこの監督の、シーンの撮り方などに上手いなと思わせられる。長回しやクレーンショットなど。もちろん撮影の宮川一夫の腕でもあろう。

 それにしても昔から知ってはいる、このストーリーには辛いものがある。時代が時代、歴史が歴史だけにやむを得ないのではあるが。人間は実にこれまで、辛い時の流れに身を任せざるを得なかったということだ。

 人間というのは、どこまで残酷になれるものなのだろう。自分の家族がそのような仕打ちを受けることにも平然としていられるのだろうか。やはり他人に対してのみ、人はそのようなことをできるのだろう。これは時代にも場所にも関係のない、ひとえに人間というものの性、人間性に根差すものであろう。

 いつの時代にもそのような立場に立たされたら、人は人にいくらでも残忍になれるものなのだ。やはり大事なのは思想であろう。ヒューマニズムという言い方はいかにもひ弱ではあるが、どこまでもそれを主張し実行していくしかない。

 この映画でも父の教えとして兄妹に、そのことが都合三回出てくる。すなわち「人は慈悲の心を失うては人ではない」あるいは「人は慈悲の心を持たねばならぬ」、そして「己を責めても人には情けをかける」のだ、と。そのような普遍的な思想を押しつけがましくはなく、映画の中にというか脚本にしのばせてあるようだ。なお母親・玉木も「人は等しくこの世に生まれてきたものだ。幸せに隔てはない」と子どもたちに言っている

 今日でも悲惨な状況は、程度の差はあれ、あちこちで見られる。この古い話「山椒大夫」にあっても、21世紀の今日にあっても同様の真理である。それをさりげなく私たちに知らしめるものでもある。

2022年10月19日 (水曜) [山椒大夫](1954年 124分)音声解説版

 音声解説版を観る。二度目なので落ち着いて観ることができる。つまり一回目はどうしてもストーリーを追ってしまうが、二回目となるとその点は分かっているので、その他の映画の技法・手法などに目が行くことになる。そういう余裕ができている。それと解説によって、より分かりやすくなっているということだ。

 簡単そうに見えるシークエンスでも、撮影には苦労しているとか。そういうのは素人には分からないところだ。あと面白いのは、ロケ地が紹介されていること。映画でははるばる佐渡や筑紫、そして丹後と変わるが、ロケ地は一貫して近畿地方、中でも京都が多いようだ。お寺も唐招提寺・大覚寺・高山寺とか。

 溝口健二監督の技法の素晴らしさや、演出のやり方も紹介されていた。その演出というのは、以前にも読んだことがあったが、スタッフや俳優に個別にあれこれと指示はしない。それぞれが自分の仕事なのだから考えてやってください、ということ。

 モノクロ画面が構図とともに美しく、たしかに名作と賞されるだけのことはあると私にも分かった。演じている俳優で、言われてみて分かった人もいる。浪花千栄子が姥竹役だった。一回目観た時には分からなかった。

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