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【こんな映画でした】256.[レナードの朝]

2021年 4月29日 (木曜) [レナードの朝](1990年 AWAKENINGS アメリカ 120分)

 ペニー・マーシャル監督作品。この監督が製作を担当した[シンデレラマン](2005年)を観ている。ロバート・デ・ニーロとロビン・ウィリアムズ。そして看護婦エレノア役のジュリー・カヴナー(撮影当時39歳)がとても良い。[ハンナとその姉妹](1986)・[ウディ・アレンの 影と霧](1992)で観ているようだ。

 二回目となる。今回はVHSで。画質はやはりどうしようもない。原題「Awakenings」はまさしく「目覚め、覚醒、気付くこと」。長い時間の経過(レナードの場合、30年)の後に目覚めるということはどういうことを意味するか。まず端的に言えば「浦島太郎」である。

 そのブランクの間の変化に気付かされることは、ある意味残酷かつ無惨なことだ。一人の老人に言わせている。もう家族は誰もいない、と。またある女性は「今は1926年で、私は22歳」と。もちろん今の彼女は60代半ばなのだ。残酷なことだ。

 西洋医学はひたすら人間を機械のようにみなして、何らかの薬によって彼らを救う(ここでは覚醒させる)ことができるのではないかと考えるのだ。人間機械論とも言える。また西洋医学は対症療法であり、その症状が改善されたら良しとする。あいにくそれは根本的なものではなく、表層的なものであるため根治には至らず、いずれその薬の副作用などが現れてくる。この映画では、いうなれば元の木阿弥ということになる。

 もっともそれは彼らにとって、幸せなことだったのだと私は思う。そもそもそのような麻痺とともに何十年も、あたかも人形のようにじっと無表情で生きてこざるを得なかったというのには、それなりの(身体の側の)理由があるわけだ。見かけは不幸に見えても、彼らはそれで精一杯生きていたのだとも言える。そこに西洋医学が介入して、なんとか治療しようとする。残念なことに治療というのは、表面的な改善だけではダメなのだが。

 そこは東洋医学で考えられているように、根本的な生き方に着目しなければならない。よく言われるように、手術は成功したが、患者は自殺した、といったことにもなる。ショッキングなシーンは幾つかあるが、レナードが覚醒してから初めて鏡を見たときもそうだ。これが自分の顔なのか、と受け入れ難い表情をしていた。ティーンエイジャーの頃から、記憶は飛んでいるのだから。

 感動的なシーンとして、見ていて身体に震えがきたのは、レナードが親しくなった患者の娘ポーラ(ペネロープ・アン・ミラー、撮影当時26歳)と、これでもう会わない、最後だと伝えたあと、彼女は立ち上がったレナードをハグして踊るのだ。それまで身体の痙攣をどうしようもなかったレナードの身体がピタッと静止するのだ。そしてゆっくりと踊る。
 それが終わり彼女は立ち去る。それを階上から見送るレナード。もう何とも言えないシーンである。

 ラストシーンは再び元のように身体が硬直し、車椅子に座るレナードの姿である。そしてその周囲にいる、ともに1969年の夏に、一時覚醒した人たちがそれぞれに硬直・静止したままの姿をパンして映し出すのだった。

 最後にテロップで、その後のセイヤー医師のことが紹介されて、終わる。

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