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【こんな映画でした】776.[ニュールンベルグ裁判]

2020年 6月22日 (月曜) [ニュールンベルグ裁判](1961年 JUDGMENT AT NUREMBERG アメリカ 179分)

 スタンリー・クレイマー監督作品。マレーネ・ディートリッヒとスペンサー・トレイシーが出演。

 実はこの「ニュールンベルグ裁判」については勉強してないので詳細は知らない。だからまずは映画でのやりとりに耳を傾けた。「東京裁判」と通底するものがあるようだ。まずは政治的な処断であり、そもそも戦争というものについての人道上の罪というものを規定して、それをもとに個人の戦争責任を追及できるかということ。

 仮にできるとしても、それは命令を受けて実行する下っ端の人間はそれに該当しないのではないか。道義的には、その精神的な責任を感じることはある。しかし、それ故に断罪され死刑判決が下されるというのは、納得のいかないところだ。

 真に戦争責任を問うならば、勝者も含め参戦した各国のすべての第一人者であるべきだろう。彼らの戦争責任を回避するために、これら戦争裁判は行われたと言うべきだ。この裁判のそもそも立脚点からして、曖昧というか正当性の疑われるところである。つまり勝者が敗者を裁く、という。

 これら戦争裁判は、真の責任者・黒幕を暴かれないための茶番劇であったと言える。その内容たるや日本兵のB・C級裁判をみれば明らかだ。もはやそれは単なる復讐劇である。こうなるとそれまでのすべての戦争についても、その政治的正当性は失われてしまうことになるだろう。

 つまり自国のための戦争が、実際は正義なき、軍需産業や政治家たちの利益と保身のために起こされたものだと知れてしまうのだ。そんな問題点のある裁判だから、高名な(?)アメリカの判事たちはこの裁判にタッチしなかったのだろう。田舎の名も知れぬ判事が起用されたのも、そのあたりのこと(正当性の無さ)を示唆している(私の仮説であるが)。

 この映画では、そんな矛盾を突くことはあるが、それにしてはラストシーンは納得がいかない。ヤニングは600万ものユダヤ人の虐殺はその当時知らなかった。これだけは信じてもらいたいと言っている。それはおそらく事実だろう。

 しかし判事はヤニングに対して、それには触れず(触れると有罪の根拠が危うくなる)、無実の被告を死刑にした裁判からユダヤ人の大量虐殺が始まっている、と述べて立ち去る。

 ヤニングに反論の機会はなく、そこで映画は打ち切られているのだ。釈然としない。原作がこの判事の著作物であることからも、そこには美化とごまかしが混じっていたのではないかと私は疑ってしまう。それにこの映画の製作は、戦勝国であるアメリカ合衆国でもあるし。

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