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アルバイトホテルマン#1

ミーハー街道

大学生の頃、とある有名ホテルで働いていたことがある。8か月と期間は短かったものの、とても濃厚な時間だった。

 時給だけでいえば、家庭教師や塾講師の方がはるかにコスパが良い。でも、それだけじゃつまらない。自分が表側しか見れないものの裏側を知りたいと思った。

 ホテルで働いてみたいと思ったきっかけは人生で初めて参加した親戚のお姉さんの結婚式だった。失礼承知で書くと、その式で僕の目を奪ったのは人生の晴れ舞台で輝く新婦さんではなく、気品あるホテルマンの立ち振る舞いだった。沢山いる参列者たちの食事の進み具合を把握して、完璧なタイミングでテキパキとコース料理をサーブする。無駄のない動きに、僕はときめいてすらいた。

「ホテルマンとして働いてみたい。」

 これは僕の悪いところで、何かいいなと思ったことはすぐに自分でしたくなってしまう。他の人なら二の足を踏むようなことでも、僕は自分でやらなきゃ気が済まない。小学生がすぐにプロ野球選手を目指してリトルリーグに参加するような軽率さがある。

「どうせ働くなら一流ホテルが良い。最高の世界を知りたい。」

 自分に根拠のない自信を抱いていた生意気な僕は、虎視眈々とアルバイトの募集を確認していた。やはり、有名ホテルだからかは分からないが、他のホテルの求人は常に出ているのに、僕が狙っていたホテルはなかなかアルバイトの求人が出なかった。人員確保でもブランド力は発揮されるものなのか、と僕は勝手に解釈した。

 ホテルマンに憧れてから一年ほどしてから、ようやくアルバイトの募集が出た。採用人数は三人。僕はすぐに応募した。TOEFLのスコアが良かったので、英語の筆記試験は免除で面接だけで済んだ僕は得意げになって、自分の採用は確実だなんて思いこんでいた。しかし、面接会場で一気に不安になった。三人の枠に対して、面接を受ける人が三十人くらいいたのだ。しかも、みんな容姿端麗でスマート。

「あ、これは落ちたな。」

 大阪の田舎町出身の芋大学生の僕は急に自信がなくなった。しかし、ここでもまた僕のミーハーさが発揮されてしまう。面接官三人の中に、現場の社員さんがいたのだ。面接に落ちようが、一流のホテルマンと話せる貴重な機会であることは変わらない。

「うたたネさんはどうしてウチで働きたいんですか?」

 志望動機を聞かれた僕は、率直にホテルマンの憧れたきっかけを話した。コース料理のサーブのタイミングの把握の仕方や、視野の広さについて質問もした。そして、面接の最後に質問をされた。

「うたたネさんがサービスに感動したホテルはどちらですか?」

 僕は大阪の某有名ホテルの名前を答えた。

「なるほど、○○さんは一流のホテルさんですね。でも、うちもサービスの質も格も負けませんよ。うたたネさんにはぜひともその一端をお願いしたいと思います。他の応募者の人には言わないでくださいね。うたたネさん、採用です。」

 僕は絶句した。たったいま、ホテルマンになることが決まったのだ。アルバイトではあるけれど、ホテルで接客で働いたらそれはホテルマンだ。あの憧れの仕事だ。

イロハ

 面接を突破して晴れて採用になった僕を待っていたのは、厳しい研修だった。採用された三人の一人は女性だったが、その方は研修中に何度も泣いていた。僕はホテルマンへの憧れだけで、何とか耐えた。

 研修は大変だったけれど、何度も眺めてきたホテルの裏口の従業員専用入り口から入るワクワクは憂鬱に打ち勝つには十分だった。自分の名前のロッカーを開けると、そこには僕の制服がある。
 ドラマでしか見たことがない景色が僕の眼前に広がっている。それだけで僕は奮い立った。上質な材質のスラックスに足を通し、ジャケットを羽織る。洗面台に向かい、ヘアジェルで髪形を整える。スーパーハードのヘアジェルなんて人生で使ったこともない。料理の風味を損なわない無香料のジェルを付け終えると、鏡には新しい自分が映っていた。

テーブルマナー
サーブの仕方
言葉遣い
英語の敬語

 膨大な情報を覚えることはしんどかったけれど、自分の知らないことばかりで知的好奇心が満たされる喜びを感じていた。採用から二週間後、研修後の筆記と実技試験をパスした僕らは初めて現場に出た。

つづく



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