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ぼくの指はきみのもので、きみの声はぼくのもの。

ある日、森の中でギターを弾いていた一人の「ぼく」の前を、一人の「わたし」が通りがかった。

人が来るなんて思っていなかった「ぼく」は、慌ててギターを弾くのを止める。

「どうして弾くの止めちゃうの。」

「わたし」が「ぼく」に話しかける。「わたし」が通り過ぎるのを黙ってやり過ごそうとした「ぼく」は面食らう。

「下手な演奏をきみに聞かれるのが恥ずかしいから。」

「ぼく」は蚊の鳴くような声で言う。

「そんなことない。さっきの曲、わたしも大好きなんだよ。もう一回弾いて。わたし、歌いたい。」

「え…」

「いいから弾いて。」

「ぼく」は「わたし」に圧倒されてしぶしぶギターを弾き始めた。

初夏の森に、音色とは言えない弦の金属音と、喉しか使わない薄い声が溶けこむ。

「ははは、わたしたち下手だね。」

「だから言ったのに…」

「ぼく」の声はもはや空気を震わせてはいなかった。二人の間にしばらく沈黙が流れ、「わたし」がその沈黙を破り捨てた。

「ねぇ、わたし、もっと歌の練習するからさ、上手になったらまた伴奏してよ。」

「いやだよ、ぼくこんなにギターが下手なんだよ?」

「全く弾けないわたしよりはマシだよ。」

「マシってだけでぼくに頼むの?」

「うん。それにわたし、あなたのギターの音好きだし。」

「 (ぼくだってきみの声を好きだと思ったよ) 」

「ぼく」は声にならない思いを秘めて静かに頷いて返事した。

「わたし」と「ぼく」の約束から一年。

「わたし」は嫌なことを全て振り払うように、ボーカルレッスンに通い詰めた。

「ぼく」は人生から逃げるように、森の中でギターを弾き続けた。

雨の日も、晴れの日も、嬉しい日も、悲しい日も、「わたし」と「ぼく」は一つの曲と向き合い続けた。素直には向き合えない二人は、曲を挟んでお互いを見つめていた。

「わたし」の声は、次第に透明になり、伸びやかになった。そして、心と繋がった。

「ぼく」の指は、次第に神経が通り、血が通うようになった。そして、心と繋がった。

一年後、二人は森の中で再会した。

「ぼく」がギターを弾き始め、「わたし」に目配せをする。「わたし」は森の綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込み、歌い始めた。

伸びやかで澄み切った声と心地良いギターの音色が、森の色を鮮やかに塗り替えていく。

この一年、「ぼく」の指は「わたし」のもので、「わたし」の声は「ぼく」のものだった。自分の一部が誰かのものであるということが、二人の孤独を埋める唯一の絆だった。

「わたし」も「ぼく」も泣いていた。

お互いの苦しみが共鳴しているのが本人たちにも分かっていた。

順調だったギターの演奏は乱れ、歌声は涙で震えて歌詞なんて聞こえてこない。

「ぼく」の人生はこんなはずじゃなかった。もっと劇的なものだと思っていた。あの頃は何者にもなれると信じていた。

でも、次第に自分が出来ないことの方が多いことを知るようになる。今では、「どうやって食っていくか」で精一杯な惨めな人生を歩んでいるし、嫌いな人は100億人いる。

「もう、食うのを辞めようか。」

あの日、「ぼく」はそう思い立って、森の中に足を踏み入れた。

最期に大好きなあの曲を弾いてから。

「わたし」の人生はこんなはずじゃなかった。もっと劇的なものだと思っていた。デザイナーになる夢を叶えて、プライベートでは素敵な男性と燃えるような恋をして、最終的に幸せな家庭を築けると信じていた。

でも、夢はすぐに砕けてしまって、今では好きでもない仕事で生きている。自分が何をしているのかも分からず、社会の仕組みが勝手に回って生きるのに必要なお金をくれる。自分で何かを考えなくなって久しい。

「もう、いいかな。」

あの日、「わたし」はそう思い立って、森の中に足を踏み入れた。

最期は誰にも見つけられない場所で。

一年越しの演奏もボロボロで終わってしまった二人の間には沈黙が流れていた。今回はその沈黙を「ぼく」が破った。

「ごめんね。なんか、よく分かんないんだけど、涙が止まらなくて。」

「ううん。私の方こそごめん。最後まで歌えなかった。」

「歌、すごく上手になってたよ。ずいぶん練習したんだね。」

「ありがとう。ギターもとても上手だったよ。練習を頑張ってくれたんだね。」

「ありがとう。この曲だけを弾き続けたよ。」

「わたしもただこの曲だけを歌い続けた。」

「どうしよう、来年、またリベンジする?」

「ううん。もう大丈夫。楽しかった。」

「そっか、それは良かった。ぼくも良い思い出になったよ。」

「それじゃ、またね。」

「わたし」と「ぼく」は、まるで相手がそう言うと分かっていたように、声を揃えて同じ嘘をついた。

頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。