見出し画像

[エッセイ] ある小さな男の子の話

 いくつも連なった緑色の客車が、ディーゼル車に引かれて開けた平原を走る。その列車の客室に小さな男の子がいた。彼はこれからの人生に胸いっぱいの不安を抱え、車窓からの代わり映えしない眺めに目をやっていた。泣いては止むことを繰り返して目元はずっと生乾きだった。

 同じ部屋の、二段になっている上の寝台で、小さな男の子の祖父がいびきをかいて寝ていた。彼の祖父のいびきはとてもうるさい。祖父と一緒に寝るとき、彼はいつも夜中に起こされて迷惑していた。けれど、そのいびきともサヨナラをすることになるのだと思うと、男の子はまた少し泣いてしまった。

 ディーゼル車特有の匂いと寝台列車の湿った匂い、そして涙のしょっぱさ。小さな男の子にはしんどいものだった。ハンカチを持つ紳士さなんてまだ持ち合わせていない彼は、涙と鼻水を着ていた長袖で拭いた。袖はもうとっくに涙と鼻水でカピカピになっていた。田舎育ちだから仕方がなかった。

 寝台列車に一日閉じ込められて暇を持て余した小さな男の子は、祖父とトランプゲームをした。二人きりの大富豪。革命に次ぐ革命で、強い手が飛び交うその遊びは、強いものが大好きな小さな男の子にはとても楽しかった。何回も何回も続けて疲れ果てた祖父の様子を察して、小さな男の子の祖母が食べ物で彼の気を逸らした。大したものはなかった。林檎と鬼灯の実しかなかった。けれど、その2つが大好物だった小さな男の子は、祖母の狙い通りにむしゃむしゃ、ぱりぱりと食べて遊びを辞めた。

 次の日、小さな男の子は大きな街に着いた。彼はこれから生まれて初めての飛行機に乗る。空港に向かうために駅を出た彼は駅前の露店で一目惚れをした。相手は小さなキャリーケースだった。彼は祖父母がコロコロ引いているかばんが大好きだった。ただ、それは彼には大きすぎて引くことが出来なかった。そんな彼が、自分にも引くことが出来るかばんを見つけて一目惚れしたのだ。彼は祖父母にそれを一生懸命おねだりして、買ってもらうことに成功した。小さな男の子は何も荷物を持っていなかったから、中に自分の財布だけを入れて、厳重に鍵をかけた。そして、コロコロするかばんの暗証番号に悩んだ彼は、その日の日付にすることにした。0918。

 空港に着いた小さな男の子は、得意げな顔で自分のコロコロするかばんを預けた。空港のお姉さんが、そのかばんのあまりの軽さに少し驚いたけれど、小さな男の子は自分が子供なのにこんなに格好良いかばんをコロコロしているからだと勘違いしてますます得意げになった。

 飛行機が飛ぶとき、体の中が引っ張られる感覚がして、小さな男の子は少し怖くなったけれど、それは格好良くないから手を握りしめて平気なふりをした。彼の祖父は贅沢品のビールがただでいくらでも飲めることに感激して、何回も何回もきれいなお姉さんにビールを持ってきてもらっていた。小さな男の子も祖父に負けじと沢山コーラを飲んだ。でも、体の大きさがまだ小さいからすぐにお腹いっぱいになって、そして眠たくなってそのまま寝てしまった。
 祖母の声で小さな男の子が起きると、もうすぐで着くと教えられた。そしてすぐに飛行機の中が沢山揺れた。我慢できないほど怖くなった彼は、祖母の袖を力いっぱい握りしめた。

 飛行機を降りると、観たこともない世界が広がっていた。空港の床のタイルは一つも割れていなくて、ピカピカと覗き込む男の子の顔を映していた。小さな男の子はワクワクした。これからこの世界で生きていくのか、そう思うと寂しさを少しだけ誤魔化すことが出来た。

 外に出るとそこには小さな男の子の母と新しい父が居た。新しい父は車を持っていた。車を持っているなんてすごい人だ。
 新しく住む家に向かう車の中で、小さな男の子のお気に入りのプーさんの目覚まし時計がトランクの中でけたたましく鳴り続けた。止める方法がなくて、家族みんなでけゲラゲラ笑った。楽しかった。
 それからの数ヶ月、父と母と祖父母と小さな男の子は新しいものだらけの楽しい生活を送った。
 けれど、終わりは必ず来る。
 ある日、祖父母が帰っていった。小さな男の子は、その日から泣き虫になってしまった。

 祖父母に会いたくて、泣いた。
 母に叱られるのが悲しくて、泣いた。
 新しい父に叱られないのが悲しくて、泣いた。
 新しい友達が出来なくて、泣いた。
 いじめられて、泣いた。
 大好きな子に振られて、泣いた。
 大好きな友達が死んで、泣いた。
 大好きな祖父が死んで、泣いた。
 死ぬことが怖くて、泣いた。

 小さな男の子は、大きな男の子になっても、大人になっても、ずっと泣き虫なままだった。でも、感情に振り回されやすい彼が人生の中で迷子になりそうになる度に、彼を手繰り寄せてくれる素敵な人達が居た。泣き虫な彼を放っておけなくて、笑って彼に振り回されることを受け入れる優しい人達が居た。

0918。

 あの日、日付をキャリーケースの暗証番号にした小さな男の子は20年の時の中で大人になった。自分の人生が多くの人の思いやりと愛情に溢れた素晴らしいものであることを再確認した彼は、感激してまた泣いている。そして、泣きながらこの文章を書いている。

    日本に来て20年、僕の人生と関わってくれた全ての人に感謝をこめて。


頂いたお金は美味しいカクテルに使います。美味しいカクテルを飲んで、また言葉を書きます。