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『すべては限定的に合理的である』―合理的な世界に不可欠な非合理―

どうも、キシバです。
思弁哲学シリーズ、今回は『すべては限定的に合理的である』というテーマについて。

色んな事の土台になるような考え方なので、参照先としても書いておきたかったのですが出来に悩み。最終的に「とりあえず書いてみよう」という結論になったので気軽にいってみます。

この世界は合理的な世界である、と言われたら。
さて、あなたはどう思うでしょうか?

1.「合理的」とは、そこに論理が成り立つこと

 まず「合理的」という言葉について、良い印象、悪い印象、どちらを抱く人もいるかもしれません。

 しかし前提としておきたいのは、別段「合理的」である事自体は良くも悪くもない。というより、善悪とは関係のない概念だということです。

 例えば私達の世界は極めて小さな原子と、原子の集まりである分子によって構成されています。原子の配列や分子の構造には物理法則に基づく厳格なルールが存在し、これらは極めて合理的な仕組みだと言うことができます。

 そして、原子や分子に善悪があるでしょうか。

 原子論なんて断固として認めない! という一部の少々敬虔すぎる信仰者の方を除けば、あまりそう思う人は多くはないでしょう。

 原子や分子はあくまで世界の土台であって。善悪というのは、その土台の上で繰り広げられる価値基準だからです。

 「合理的」という概念そのものも、それと同様です。

 自己中心的な理由で暴力を振るったり、犯罪を犯したりする人は悪人かもしれません。しかし、悪人にも悪人の合理性があります。犯罪心理学、という学問が存在すること自体がその証明と言えるでしょう。

 この世界が合理的である、というのは、単に「この世界には何らかの理屈・論理が存在する」という程度の意味だとも言うことができます。

2.「すべてが合理的」にはならないし、なれない

 では、この世界は「すべてが合理的な世界」なのでしょうか?
 答えはNOです。この世界のどんな物も、すべてにおいて合理的であることはできません。

 そもそも物事に対して「合理的である」と判断するには、必ず視点や目的が存在します。

 例えば一匹のアリが巣に餌を運ぶ行為は、アリにとってとても合理的です。群れ全体にとって利益がありますし、アリのDNAに記述された通りの行動を実行する、一つの生体機械としても合理的な動作だとも言えます。

 しかし、このアリがとある酒蔵の床を這っていたとしたらどうでしょう。
酒造りには優れた衛生管理が欠かせません。それまで酒造りに合理的な環境を完璧に整えていた酒蔵にとって、侵入してきたアリは極めて非合理な存在です。また、発見されたことで駆除されることは、アリの群れの存続にとってもまったく非合理的な結末だと言えます。

 そしてまた。そのアリが、生物学的に極めて貴重な種のアリだったとしたらどうでしょう。そのアリの体内分泌物は医学的に貴重な代物で、難病の治療を成功させる重要な薬を作ることができます。それを知らずにアリを駆除してしまう酒蔵の行為は、生物学的にも医学的にも非合理的だと言えます。

 そしてそもそも。数万年、数億年スケールでの生物の系譜において、このアリの群れが失われることは大きな問題にはならないかもしれません。アリのDNAに刻まれた本能は、膨大な数の種を存続させるための仕組みであり、運悪く酒蔵に迷い込んでしまった群れが全滅しても、それは許容範囲。大きな流れ後から振り返れば、やはり種にとっても合理的な本能を宿していたと結論づけられることもあり得ます。

 つまりは。一匹のアリが床を這うという行為でさえ、視点次第で合理的とも非合理的とも言える側面を持っているということです。

 原子や分子の仕組みは現時点で見ればとても合理的ですが、しかし遥か未来、飛躍的に発展した物理学から見れば「原子構造なんかよりもよほど上手い仕組みが存在する」と証明されているかもしれない。

 また、例えば政治思想が異なる者同士では、どんな政策が合理的かも異なります。法律家にとっての合理性と、科学者にとっての合理性は違う。芸術家の感性に身を捧げたゴッホの生涯は美術史の上では偉大な業績ですが、家計という観点では悲惨な火の車としか言いようがありません。

 ありとあらゆる視点から見て「合理的」な物事は、存在し得ないのです。

3.限定的に合理的、とは何か?

 すべてにおいて、どこまでも完璧に合理的な物事は存在できない。

 つまりは「この世界は究極的にはすべてが非合理な世界である」と言うこともできるわけです。しかしだからと言って、表題は否定されません。

 『すべては限定的に合理的である』。どういうことか。

 これはつまり、「どんな物も合理的な側面を必ず持っている」ということです。様々な視点で見ていけば非合理な側面がある、の逆。様々な視点で見ていけば、必ず世の中の物事は何からの合理性に従って起きている。

 例えばあなたが街で肩をぶつけられ、インネンをつけられてお金を巻き上げられたとします。「なんて理不尽な奴だ」と当然思うでしょう。理不尽、つまりは理にかなわないと。

 実際、法律から見ても社会通念から見ても、その行為は到底合理的ではありません。しかしそこには一切何も合理性、ロジックが存在しないのでしょうか。

 そのカツアゲ犯は暴力団の下っ端で、上納金を収めるために急ぎお金が必要だったのかもしれません。「お金が必要である」という目的に対して、「お金を入手する」という行為は、ただそれだけの視点で見れば、合理的です。

 また、暴力団が営利組織であったのなら、資金を求めるのは合理的なことだとも言えます。他のすべての視点から見て非合理的であったとしても、彼ら自身の視点ではそれが合理的な行動なのです。

 あるいは。そうした「悪人の論理」さえもない、重度の精神疾患を患った患者さんを想定してみましょう。彼は妄想に苛まれ、健康な人から見ればまったく理解の出来ない言動を繰り返しています。これのどこに合理性があるでしょうか。

 夢野久作の『ドグラ・マグラ』では、まさにこの点に触れています。いわば「狂人の論理」。精神疾患者は、一般社会の常識からはまったく乖離していたとしても、あるいはそうしてまでも、彼自身の精神世界の掟を厳格に守っています。また、脳神経の作用は物理学的、生理学的に極めて合理的な過程を経て彼の言動をもたらしています。

 「今日はストレスが溜まっているから、気晴らしにシュークリームを買って帰ろう」という行動は誰にとってもとても一般的なものでしょう。太ってしまうかもしれないし、貯金も少し減ってしまう。しかしそこで「感情面から見た合理的な行動」を、多くの人は取ります。もちろん私も。

 多くの人にとって理不尽な自然災害も、しかし流体力学や熱力学で解き明かせる現象の積み重ねで起きている。悪人も、狂人も、不幸な出来事も、すべては合理的な側面を持っています。

 『限定合理性』自体は、元は経済学用語です。
 「消費者が何かを購入する際に行われる判断は、どれだけ合理的であろうとしても、本人の認知能力の限界があるためにそれに依存する」。

 ネットで500円で売っている本を、お爺さんが古本屋で2000円で買ってしまう。あるいは家の近くのスーパーで90円で売っているレタスを、主婦が帰りがけに150円で買ってしまう。

 どちらもあり得る話ですね。
 そしてこの概念を広げることで、これまでに述した二つのことを言うことができるはず。

 すなわち、
・すべてのものは完璧な合理性を持つことはできない
・すべてのものは必ず何らかの限定的な合理性を持っている

 と。

 4.万物に論理があることの意味

 さて、これまで「一見非合理的に思えること」を例として挙げた上で合理性を語ってきたので、やっぱり合理的ってあんまり印象よくないなぁ、と思えてしまったかもしれません。

 では、この世のすべての物が何らかの合理性=論理で成り立っているとして。それには、どんな意味を見出すことができ、一体何ができるのでしょうか?

①『揺るぎない土台にできる』

 まず最も重要なのは、『揺るぎない土台にできる』ということです。

 何かを考えたり、挑戦したり、目的に対して行動したりする時。そこには必ず何らかの土台や指針、道標が必要になります。

 しかし世の中は、特に現代は何もかもが大きく変動し。「これだけは変わらない指針にできる」というものを探すのは簡単ではありません。

 そんな時。「すべての物事は論理で成り立っている」という考えを持つことができるのは、とても大きな力になります。

 何かに行き詰ったとしても、「つまり、まだ自分が理解できていない論理があるのだ」と考えられれば、次はそれを解き明かせばいいとわかります。あるいは「また別の視点から見れば、違う合理性が見えるのではないか?」と柔軟に考えることもできます。

 まさにそれが、十九世紀に生まれた『科学』という考え方そのものであるとも言うことができるでしょう。

『良いもの、素晴らしいものを肯定する根拠にもなる』

 また、第二に『良いもの、素晴らしいものを肯定する根拠にもなる』という点が挙げられます。

 「悪人の合理性」や「狂人の合理性」にこれまで触れてきましたが、つまり裏を返せば「善人の合理性」もまた当然存在することになります。

 悪意は善意よりも強いとか、悪人が善人よりも得をするという主張がありますが、私はあまりそうは思いません。

 人類が数千年の歴史を重ねた現在も、社会全体において「善くあるべき」という思想が存在します。生物の命題が生存である以上、生きる為に有効ならば「悪くあるべき」という定説が常識でもおかしくはないはずなのに。

 そして考えてみると、全員が悪意(=自分本位)に生きる社会は、善意(=協調性)を有する社会よりも弱い、ということがわかります。長期的に見れば、集団で協調することでより大きな物事を成し遂げられる。

 悪意の社会と善意の社会では、善意の社会の方がより生存において合理的であり。故に、我々は善良であろうとし、また今後もそう在り続けると考えられます。

 もちろん、悪意によって得られる合理性もあります。しかしそれは短期的なもので。言わば弱者の生存戦略とも言えます。悪意によって利己的な行動を取らなければ生存できないから、他者を害してでも短期的な利益を得る。

 それ自体は望ましくないことではありますが、悪意は必然的に少数派の原理となる性質があるとも言えます。岡崎二郎先生が『宇宙家族ノベヤマ』で触れた利他的種族、利己的種族の話ですね。 

 「善悪の合理性」についてはかなり大きなテーマなので参考例として簡単に語り切ることはできませんが、少なくとも「善意が悪意より弱い」というのは誤った結論である、と主張できるのは論理の素晴らしい使い方の一つだと思っています。

 感情と論理はまったく別のモノとして扱われがちですが、しかし心から感動する映画を見て活力を得たり。情熱を注げるような対象を前にして普段以上の集中力で取り組めたり。そういった感情は、成果に対して合理的にも働きますし。実際、私達の脳が「感情」を持つことができるのは、そうしたプラスの感情を原動力としたり。マイナスの感情で危険な物を避けたり、といった目的があります。

 感情とは、とても優れたロジックを持つシステムであると思います。

③『不可能と思われる事柄を実現する力できる』

 そして第三に、万物に論理があるという考えには『不可能と思われる事柄を実現する力にできる』という大きな意味があります。

 これはどういうことかというと、すべての物事が論理で成り立っている以上、どんなことも材料、計画、手段の三つが揃えば論理的に可能となるからです。言い換えれば、「直感的に不可能だと感じることは、多くの場合本当に不可能なわけではない」とも言えます。

 例えば『一年間で一億円を稼げ』と言われても、元からそれだけの収入があるお金持ちを除けば大抵の人は不可能だと答えるでしょう。(例として挙げているだけで、この後よくわからないセミナーに飛ばされたりはしないのでご安心を。別に、『巨大隕石を撃ち落とす方法』でも構いません)

 しかし世の中にはベンチャー企業やスタートアップ(目的のある起業)に対し、そのアイデアを評価して投資を行う投資家や投資企業があります。また、クラウドファンディングという言葉に聞き覚えのある人もいるでしょう。ネットを介した資金調達ならば、一夜にして数千万円以上の資金が集まることも多くあります。

 そうした方法で一億円を集めるか、あるいはそれを元手に何らかの商売を初めてみるか。そうすれば成功率は低くとも『一年間で一億円』を稼ぐことは可能かもしれません。あとはアイデアやメンバー、自分の能力との相談ということになり、「考えるまでもなく100%不可能」ということではなくなります。

 世の中のすべては、限定的になら合理的に成り立っている。
 だとすれば、目指すゴールに辿り着ける論理を考え、その材料さえ集められれば、どんな難題であっても解決できる。

 そう考えることができたなら。『巨大隕石を撃ち落とす』のは材料集めが少々難しくとも、人生で直面する大抵の物事は、直感的な印象よりも案外不可能ではないんだと思えるようになるかもしれません。

5.まとめ

 『すべては限定的に合理的である』。
 途方もなく大きな、考えうるすべてを範囲として語るこの考え方が、私は好きです。

「どんなに悲惨に思える状況にも、合理性だけはある。ならばそれをより良く変えることもできる」

「論理さえ持つことができれば、本当の意味で不可能なことはない」

 無機質にも思える、科学的懐疑主義を突きつめた先にある厳密な――いわば小さな真理と呼ぶこともできるものから。そんな前向きな結論を見出すこともできると思っているからです。

 もちろん、現実にそれを適用するにはいくばくかの難しさもあるでしょう。考慮しなければならない前提、すれ違う『視点』、自分自身の望む方向性とは違う形で組み上がる論理。合理性に善悪は無く、故に誰の味方をしてくれるとも限りません。

 しかし、こちらが勝手に指針、道標とすることはできる。
 そう考えるからこそ。私はこれからも、世の論理を読み解いて、その意味を考えながら生きてみたいと思っています。



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