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シェアリングエコノミーに愛はあるか

なんか、楽しくない。
正確に言うと、だんだん楽しくなくなってきた。

夏、久しぶりの長期の帰省で家族が集まるので、カーシェアリングサービスで7人乗りの車を借りた。スマホで、思いついたときに、夜中でも通勤中でも簡単に予約できるので、ここのところ月に2回はカーシェアを利用している。

都心に住んでいると、公共交通機関でどこにでも簡単に移動できるし、駐車場代やその他の維持費がバカ高く感じられて、数年前から自家用車を所有するのを完全にやめてしまった。子供がいるので絶対必要だろうと思い込んでいたが、ないならないで、なんとかなった。もちろん、カーシェアがあってこそだが。

「もう、クルマを所有する時代は終わったのかもしれないなー」
妻ともそんな話をよくした。

インターネットの、特にスマホの登場以降、世の中は「シェアリングエコノミー」の時代になってきたと言われる。モノは個人が所有するのではなく、シェアすることで所有コストを下げて、みんなでハッピーになろうという精神のもと、カーシェアだけではなく色々なサービスが出てきた。
カーシェアは、そんなシェアリングエコノミーの代表格だろう。友人や同僚に聞いても、最近は自家用車ではなくカーシェアを利用しているという人たちが増えた実感がある。

これから先、技術が更に洗練されて自動運転が進むと、それこそ自家用車というものは存在理由をなくすとまで言われている。
どこかに移動したいと思ったら、地域でシェアされている自動運転車を呼び出すと自宅前まで自動的に配車され、目的地について車を降りると、またひとりでに次のユーザーのところへと配車されていくので、駐車するタイミングもなく、駐車場の心配すらいらない、というのだ。いやー、未来は明るいな! シェアリングエコノミー万歳! とそう思っていたのだが。

なぜかつまらない。カーシェアの車を運転していて、唐突に違和感を感じたのだ。

今回帰省して、2日ぐらい乗って、特に使用上の問題は何もなかった。よく整備されているキレイな車だったし、普段は7人乗りなんて必要ないので、こうやってテンポラリーで大型車を借りられるのはとても合理的だ。
もともと運転することは好きだった。郊外の空いている道を、木々の間を、海沿いの道を走ったり、ぐねぐねとカーブする峠道を、ギアを上げたり下げたりしながら走るのも好きだ。それがやりたいがためにわざわざオートマではなくマニュアルの車に乗った時期もあったぐらいだ。

でも、現実には週末しか運転しないし、コストも馬鹿にならないし、ということで、あるきっかけで車を持たない時期が続いた延長で自家用車を持たない選択をしたら、なんだか楽しかった。カーシェアだと、逆に毎回違う車種の車に乗れたりして、それも楽しかった。

それなのに、このつまらなさが、なぜ突然に襲ってきたのだ?

結局3日乗ったクルマを返してしまったあともずっと気になっていた。悪い車ではなかった。買えばそれなりに満足するようなタイプの車だった。なのに、だ。
運転しているときの操作感、いわゆるドライビングフィールというものが物足りなかったのか? いや、そこは割とよく設計されていた。曲がりもよく、加速減速も問題ない。
インパネのデザインがダサかった? そんなことはない、安物の軽トラみたいな、100円ショップの商品のようなデザインではなく、それなりに使い勝手がよく考えられた、合格点のデザインだった。

ずっと頭の隅でモヤモヤとした疑問が残ったまま休み明けの職場に復帰してきて、昼にいつものランチを食べにいったいつもの店で、とつぜん気がついた。

これは、イマイチな結婚式の披露宴で食べるコース料理のようなものに感じるつまらなさと同じだ。あるいは、安い旅館で提供される、あのいつもの固形燃料で小さな鍋を茹でるタイプの料理に感じる物足りなさと同じだ、と。

料理自体に問題はない。それぞれ、合格点の素材を及第点な料理人が料理して供されているわけで、味がまずいわけではない。なのに、変な寂しさをいつも感じていた。カーシェアの車に感じたのは、その感覚だ。

ランチを頼んだいつもの店で、顔なじみの店員さんが、「おまちどうさまでした!」と、いつもの笑顔で生姜焼きを持ってきてくれる。
何の変哲もない、そこそこの味の生姜焼きだ。しかし、その生姜焼きは、寂しくないのだ。
なぜだ?
それは、ぼくが注文して、ぼくのために作ってもらった料理だということを、店員さんを介して実感できているからだ、と思った。

つまり、旅館や披露宴のあの料理たちは、ぼくのためにつくられたものではない、と感じられてしまっているのだ。ぼくじゃなくてもいい、という感じ。疎外感、のようなもの。

自分で欲しいと思って、自分でお金を出して買うものと全然違うのだ。自分で主体的に選択して店員さんから買ったものは、使い続けるうちに、愛着が生まれてくる。食事のようにすぐに消えてしまうものであっても、口に運ぶときにドキドキ感があるものだ。メニューを選んだときの期待と、それを確かめるときのドキドキ感。恋する人に何かを言って、反応を待つときのあのドキドキ感のような。

ものを買うとか、所有するとかいう行為には、だから本来「愛」が感じられるものなのだ。例えば形見の品、とかプレゼント、とか、極端な話、旅のお土産だってそうだ。ぼくらはものを通じて愛を交換しているのだと思う。

カーシェアの車には、それが感じられないのだ。一対一の愛の交換がないのだ。少なくとも、それを感じさせる手がかりが足りていないと思う。

シェアリングエコノミーは、その利便性で、これからもある程度拡がるだろうと思う。だけどぼくは、そこに「愛の交換」が埋め込めないと、結局みんなはハッピーになれないと思っている。

それを先に実現することができたシェアリングサービスが、つまり使っていて愛を感じることができるサービスが、きっと未来を作っていくんだろうなと思っている。

(この記事は以前に天狼院書店のゼミ課題で書いた記事を加筆修正したものです)

Photo by Mink Mingle on Unsplash

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