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年間第29主日(A)年の説教

マタイ 22章 15~21節

◆ 説教の本文

「ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。」

〇 ファイサイ派の人々がイエスを罠にかけようとして、この質問をしたのは事実です。「 皇帝に税金を納めるのは律法に適ってるでしょうか。適っていないでしょうか。」肯定的に答えても、否定的に答えても、あるグループの怒りを買うように仕組まれているのです。
しかし、イエスがこの罠を巧みに逃れた知恵を重視するのは間違いだと思います。イエスはこの意地悪な質問をきっかけに、キリスト者にとって非常に大事なことを言おうとされたと思います。つまり、「政治」という人間の営みとの関係です。

「彼らがデナリオン銀貨を持ってくると 、イエスは『これは誰の肖像と銘か』と言われた。彼らは『皇帝のものです』と言った。」

〇 デナリオン銀貨はローマ帝国の貨幣で、地中海世界全体に通用していました。ファリサイ派は、熱心党とは違って、ローマ帝国に武力で反抗しようとはしていませんでしたが、距離を置いていました。税金も払わずにすめば払いたくなかったでしょう。

しかし、ローマ帝国の貨幣を当たり前のように持っていました。日常的に使っていたということです。つまり、地中海世界を覆う「ローマの平和」(Pax Romana )の恩恵に浴していたということです。
ローマ帝国の統治は、現代日本の基準から言えば、決して優しくはありませんでした。しかし暴力が日常沙汰ではないという意味では、平和を維持していたのです。これは決して当然のことではありません。治安が維持されているのは人々の幸福です。そして、キリスト教は確かに迫害されていたでしょうが、パレスチナが戦乱の最中にあれば、そもそもキリスト教どころではなかったでしょう。

〇 そして、大規模な宣教は不可能だったでしょう。パウロの宣教旅行はローマ帝国の維持した交通の安全あってのことです。もちろん、現代のような 99.9% の安全ではありません。使徒言行録に、パウロの第一回宣教旅行に同行したマルコという男が途中で帰ってしまったことが記されています(13章13節)。パウロたちが行こうとしたのは強盗が跋扈してるので有名な街道でした。それでマルコはビビって帰ってしまったのですが、逆に言うと、旅は一応できた、自殺行為ではなかったということでもあります。
 4世紀にスペインのエゲーリアという女性がエルサレムに旅をして、そこで聖週間の典礼に預かりました。詳しい記録を残していて、日本語にも訳されています。地中海西端のスペインから東端のエルサレムまで女性一人で旅ができた(同行者はあったでしょうが)ということは、いかにローマ帝国の治安が優れていたかを示しています。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

〇 このローマの優れた社会システム (もちろん闇もありますが) は、もちろん 最高権力者である皇帝一人の手柄ではありません。歴代のローマ皇帝には悪い人が多かったのです。少数のエリート官僚の手柄でもありません。社会システムの構築は、優れたアイデアだけでできません。多くの人の努力と創意工夫によって次第に出来上がってきたものです。あえて言えば「政治」という営みです。イエスは優れた政治システムの存在を当然のこととは考えず、 評価するように勧められたと思います。

現代の人は批判的であることを良しとします。政治を批判できなければ、良い市民ではありえないと思っています。確かに、日本の政治は問題だらけでしょう。しかし、日本の政治、人類社会が積み上げてきたものを当然のことのように思い、ただ批判することだけに熱中するならば、それは間違っていると思います。日本の政治は良いものも積み上げてきたのです。それは美しい富士山が日本に存在するように、自然にあったのではありません。多くの人々の手がかかっているのです。

1997年に私はローマに留学しまして、ローマの街路がゴミだらけであることに驚きました。清潔な東京の街路が、欧米の都市でも当然ではないことに改めて感銘を受けました 。

また、今の私は介護保険に非常に助けられています。現在の介護保険には理想的なものではないでしょう。しかし、このシステムが存在しなければ、私の生活は立ち行かないと思います。多くの重病人、障害者を抱える家族は同じ思いだと思います。介護費用を保険でカバーするというアイディアを思いつくことは割合に簡単なことですが、これを一つの具体的なシステムとして構築するのは大変なことだったと思います。

誰に感謝すればよいのかと言うとよく分かりませんが、いずれにせよ、多くの人々の長い粘り強い努力があってのことだという評価はぜひ必要だと思います。イエス様は、それを「皇帝のものは皇帝に」と言われたのだと思います。

「私の選んだイスラエルのために、私はあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった。」(第一朗読)

〇 アケメネス朝ペルシアのキュロス大王は、確かに寛大で開明的な人だったようです。しかし、彼がヘブライ人のパレスチナ帰還を許すにあたっては、彼の個性以外にも、いろいろな要因が働いていたでしょう。それを含めて、 神はキュロス大王をご自分の計画を実行するエージェントとして用いられた。それが旧約聖書(イザヤ書)の考えです。
同じように、ある優れた政策が立案されて実行されるまでには、大衆の利益を図ろうとする正しい志と同時に、政治家の勢力争いとか、官僚の功名心とか、様々な要因が働いています。それも含めて、神の業です。

「皇帝のものは皇帝に、(そして) 神のものは神に返しなさい。」

☆ 説教の周辺

神の礼拝と皇帝崇拝との関係は初代教会の大問題でした。注解書でもこの問題を扱うものが多いのですが、現代の日本では政治家を崇拝するということはほとんどありません。安倍さんは自分の人に崇拝されてるようですが、これはまれな例外です。
政治家といえば、もっぱらバカにする傾向の方がずっと強いのです。それでいて、政治家はしたい放題ですが。政治家のやりたい放題と、政治家をバカにする傾向の間には関連があると思います。

そこで、政治家ではなく、政治(行政)という営みを評価するという視点で説教を作ってみました。