安倍家岸家考⑪(晋太郎と弟と安倍家と)

晋太郎は1958年、第28回衆議院議員総選挙で旧山口1区から出馬し、2位で初当選を果たす。しかしこの選挙、父・寛の地盤を継いだ周東英雄(最初に継いだ親類の木村義雄は公職追放となった)がいながらの出馬表明であった。これには岸周辺からも異論が出るほどで、それに対し晋太郎は「立候補を止めるくらいなら洋子を岸家に返す」とまで言い放ったという(木立⑨p124、洋子⑦p120)。これを調整したのが義理の叔父となる佐藤栄作で、旧山口1区で落選中だった佐藤派の吉武恵市を参議院へ鞍替えするように説得(吉武はのちに自治大臣となる)した上での立候補・当選であった。

1960年の選挙は辛うじて2選(定数4の4位)を果たすが晋太郎は3回目の選挙(1963年)で落選を経験する。このときの晋太郎の落胆は相当なもので、支援者の岡藤義昭によると「目を真っ赤にして、メガネをはずして、ハンカチで目をしきりに拭いていた」(木立⑨p193)という。しかしこれは我慢していた方で、久保ウメ(安倍家の奉公人)は山口から東京の自宅に帰った直後の慎太郎をこう振り返っている。「まるで転んで倒れるみたいにね、座敷に突っ伏して、ワアーって男泣きに大泣きしたの。地元じゃ、応援してくれた人にお詫びもしてきて、ずっと堪えてたんでしょうね。落選してしばらくは山口にいたからね。それで、家に帰ってきて、それまで抑えていたものが一気に出たんでしょうね」(七尾⑥下p151)。後に晋太郎はウメにその時の気持ちをこう語ったという。「親が死んだときも感じたことがない、生まれて初めての辛さだったな」(七尾⑥下p151)。裏を返せば晋太郎は地元で代議士でいることによって父を、安倍家を、自らの居場所を取り戻しているかのようにも見える。
以降、妻・洋子とともに地元での活動に精を出すことで二度と落選の憂き目に遭うことはなくなり、安倍寛の息子としてのアイデンティを獲得した晋太郎であるが、瞼の母との距離は一向に埋まることはなく時は過ぎて行った。

本稿シリーズ⑨で触れたとおり、寛と離縁した母静子はその後会社経営者であった西村謙三と結婚し、一男一女を設けたが、31歳で結核で亡くなった。長男は正雄といい、1932年生まれで晋太郎とは八つ違い、母静子が亡くなったとき正雄は3歳であった。正雄の姉・和子はその9年後、母と同じ結核で早世した。
西村正雄は兄・安倍晋太郎の追悼文を「月刊Asahi」(1991年7月号)寄せており、兄と会うまでとそれからの交流について述懐している。正雄は東大に入学した18のとき(1951年)、母方の大叔父が「晋太郎によく似てきた」口走ってしまったのを聞き逃さず、うすうす兄らしきものの存在を感じはしたものの、父への遠慮もあり当時それ以上の追及はしなかった。正雄は大学卒業後興銀へ入行する。
晋太郎という名前は初耳であったが、しだいに活躍しはじめた安倍晋太郎という代議士が兄ではないかと気づいていく。二人はよく似ており、正雄の子供の頃からの友人で大蔵官僚と銀行員という間柄でもあった藤井裕久が参議院議員になった際の祝賀会で「安倍先生」と声をかけられてしまったほどであったという。正雄は晋太郎が兄であることにほぼ確信を持ったが迷惑をかけまいと名乗り出ることはなかった。
ところが、岸信介の親類縁者が正雄の父の兄嫁と女学校時代の友人で、その友人の息子が正雄の興銀の上司(伊藤三良)であることが正雄の知らぬところで判明し、伊藤のとりなしで兄弟対面の運びとなり、1979年5月12日、ホテルオークラの「桃花林」で初めて会うことになった。正雄46歳、晋太郎は55歳になっていた。

弟の存在を知ったとき、晋太郎は相当に喜んだようで、安倍家縁戚の木村純子は「晋太郎さんは、西村さんが実の弟と分かった時に喜んで、(晋太郎の幼馴染だった)母に電話してきたそうです。電話口で『一人だと思っていらけど、弟がいたんだ』って言って」(青木④p192)と振り返っている。
長男の寛信によると、晋太郎は「自分は本当に天涯孤独なんだ」と言っており、「兄弟がいるということが分かってから、本当にうれしく思っていた」ようで、正雄と「会うときもすごく楽しみにしていた」という(青木④p195)。
初対面当日、めったにミスをしない運転手が道を間違え到着に時間がかかってしまった際、晋太郎は「なんで間違えるんだっ」「今日は俺にとってものすごく特別な日なんだぞっ」と怒鳴り上げたと寛信は笑いながら振り返っている(青木④p195)。
再び正雄の追悼文から。「桃花林」脇のソファで会った二人は一目見てお互いにわかったという。二人ともシャイでそのときどいう話が出たかはよく覚えていないという。覚えているのは母・静子の写真を見せたこと、晋太郎が早世した姉・和子(晋太郎にとっては妹)のことを聞いてきたことなどで、お互い興奮してしまい、まとまりのない話になってしまったことなどであった。また、晋太郎の母・静子に対するあこがれがものすごかったことが印象的であったようだ。
そこで正雄は翌月に母・静子の墓参りに招待し、晋太郎は感激して長い間ひざまずいて祈っていたという。この墓参については寛信も振り返っており、家族を連れてのものであったようだ(青木④p196)。
この対面をきっかけに正雄は正月や誕生日には晋太郎宅に行くほか、月に一、二回は会う仲になった。ただ、その頃は会うと必ず周りに誰かがいたが、晋太郎が入院(1989年)し、毎週見舞いに行くようになってはじめて二人きりで語り合う機会ができたという。
亡くなる二日前、正雄は「必ず治りますよ」と励ましたあと黙って兄の足をもみ続けた。晋太郎は「ありがとう、ありがとう」と二度三度繰り返し、それが最後の会話となった。弟との対面を果たしてからの政治家・安倍晋太郎の活躍(と挫折)は誰もが知るところであるが、それまで抱えていた孤独感を少しだけ解消できた後半生ではなかったかと思われる。

西村正雄はその後1996年に興銀の頭取になる。その後みずほホールディングスの発足に動き2000年にはそのトップに立つなど、当時の日本の金融界を引っ張る代表的なバンカーとなった。
西村は急逝(2006年8月1日)する直前に「論座」(2006年7月号)にある寄稿をしている。タイトルは「次の総理に何を望むか 経世済民の政治とアジア外交の再生を」。西村の肩書は「元日本興業銀行頭取」と書かれていたが、「元自民党幹事長・安倍晋太郎の弟が直言」とも付けられていた。
寄稿文の小見出しを並べると「小泉政治に欠けたもの」「経世済民は政治の基本」「教育の振興と道徳心の涵養」「ポピュリズムからの脱却」「アジア外交の再構築を」となっている。言うまでもなくこれは2か月後に総理・総裁となる甥の安倍晋三を意識した提言であるる。西村の考えは経済重視の自民党ハト派に近いものであり、西村急逝の2週間後に小泉首相が靖国に参拝するが、そうした歴史認識を巡ってのアジア外交の悪化を懸念していた。
西村は誌上で甥を名指ししてはいないが、藤井裕久によると西村から「論座」の内容についてこんな内容の手紙を受け取ったという(青木理の取材)。
<内容はかなり抑えたつもりですが、甥の安倍晋三の支持者が読めばショックに感じる部分もあると思いましたので、予め晋三には手紙で「ここに書いてある内容は君に対する直言であり、故安倍晋太郎が生きていれば恐らく同意見と思うので、良く読むように」と伝えておきました>(青木④p204)
経済重視の自民党ハト派などとレッテルを貼ると浅薄な思想に聞こえてしまうが、藤井へのインタビューを踏まえた上で青木理がまとめているようにこの世代の自民党政治家の平和主義は戦争体験に裏打ちされており、そうした実感を持たない世代の世界観に危機感を持っている人物が少なくなかった。安倍晋太郎の戦争体験は本稿シリーズ⑨で触れたが、小学校時代の同級生で学童疎開も一緒だった藤井によれば、藤井も西村も疎開先(東京・小平)では少年なりに(終戦時13歳)飢えや戦禍を体験しており、「西村くんは本当に戦争を忌避していた」(青木④p198)という。

人生の後半で初めて邂逅した兄弟がその後何を語り合ったのかは本人たちにしか知る由もない(西村の追悼文によれば、政治の話は避け、経済の話はいろいろ聞かれたという)。ただ、どんな話題であっても同じ時代を生きた血のつながった者同士、お互いの人生の答え合わせをする時間はある程度共有できたであろうと思われる。そんな想いが甥の心に伝わったどうかはこれまた同様に本人にしかわからないが、公開の場に記録として残した叔父の意図は我々にも向けられているとみてもよいだろう。

青木理はそのタイトルどおり『安倍三代』の父系を辿って政治家業化した安倍家を豊富な取材で描いてみせてくれた。そこで浮かび上がったのは三代目の空虚さであった。青木は安倍洋子の独特の存在感について部分的に触れつつも、自らの取材テーマではないと見切ったのか、そんなものは男がする言い訳にはならない、と思ったのか、カギカッコつきの「家」とそれを陰で差配する女性の存在には深くは踏み込まなかった。
しかし、政治屋号を背負った安倍家から垣間見える家父長制は、内部で女性が支えていたのは間違いなく、男たちはそこに無自覚に頼っているようにも見える。そしてこの独特の価値観の源泉として安倍家と結びついた岸家と佐藤家の存在は無視できない。次回以降はこの岸家・佐藤家について探っていくことにしたい。

つづく


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