安倍家岸家考⑨(母のいない安倍家)

安倍晋三の父・晋太郎、祖父・寛を通した政治家として繋がる安倍家については本稿1回目で紹介したように『安倍三代』(青木理)と『いざや承け継がなん』(木立眞行)が最もわかりやすくまとまっている。以下、両書を参考に安倍家の推移を眺めてみる(個別エピソードの引用以外は参照先は割愛する)。

安倍家は山口県大津郡日置(へき)村(その後油谷町、長門市)で代々醤油などの醸造業を営んでいた大地主であった。明治に入りその安倍家の中興の祖と言われる慎太郎が第一回の県議選に当選する。中央政界への期待も虚しく1882年(明治15)、32歳の若さで早世。慎太郎には子がいなかったため、妹のタメに近隣の名家椋木家から彪助を婿養子に迎える。二人の間に1894年に生まれたのが寛である。ところが寛が4歳までに両親共に病気で他界してしまい、寛は母タメの実姉ヨシに育てられる。伯母のヨシは兄・慎太郎が果たせなかった政治家(国政)への道を目指せと励ましていたという。

寛は東京帝大卒業後、「政治家になるには、自らカネをつくらねばならない」と官界には目もくれず東京で自転車の製造会社を起こす。しかし関東大震災で工場が壊滅し、会社をたたんで帰郷する。33歳(1928年)で総選挙に立候補するも落選。その直後、学生時代に患った肺結核が再発した上にカリエスも併発し生死をさまよったが何とかこれを克服した。
その頃、寛の故郷日置村は村長・村議会が二つに割れて収集がつかない状況になっており、村民が寛に村長就任を懇願し、寛は病床のままでという条件に村長を引き受けることになった(1933年)。その2年後(1935年)には山口県会議員を兼務、さらに2年後(1937年)には衆議院議員に初当選した。
と、一気に安倍寛の政治家デビューまでを辿ったが、息子・晋太郎は帰郷前に東京で生まれており(1924年)、代議士安倍寛が誕生したときには13歳になっていた。

寛の結婚ははっきりとしないことが多く、縁者である小島義助の記憶によると、結婚したのは1921年(大学卒業の年)という(木立⑨p32)。相手は静子といい、父は岩手県士族の陸軍医本堂恒二郎、母は山口県出身の陸軍大将大島義昌の三女秀子で、大島家は安倍家の隣村出身という縁があった。しかし、晋太郎の誕生直後に二人は離婚している。離婚の理由もはっきりしないのだが、事業の失敗をきっかけに両家に何らかの対立が生じたのであろうと推測されている。離縁した静子はその後西村謙三という人物と再婚、一男一女を設けたが、31歳に結核で亡くなった(長女も同じく結核で早世)。西村家の長男のその後については後述する。
晋太郎は生後85日で先述の小島義助宅(山口・油谷町の安倍家のすぐ前)に預けられ、義助の母であるミヨに育てられた。何も知らない晋太郎はミヨを「おかちゃん」、義助を「にいさま」、義助の妻を「ねえさま」と呼んで成長した(木立⑨p34)。寛に続いて晋太郎も実母の顔を知らずに育つことになる。
寛は小島に「母親がいないからといってあまり甘やかさないでくれ。決してグレることのないように…」(木立⑨p34)というリクエストを出した。晋太郎はかなりな腕白であったようだが、グレることはなく成長する。
幼年期、晋太郎に強い影響を与えた人物がもう一人いた。父・寛の育ての親でもある大伯母のヨシである。ヨシは晋太郎に質素倹約を教え、「恥を知れ」という教訓を叩き込んだという(木立⑨p42)。共に実母の顔を知らぬ父子は育ての親を共有していた。

地元で「ドウゲン坊主」(いたずら坊主の意)「安倍のダン坊」などとと呼ばれていた晋太郎であったが勉学の成績は優秀で山口中学に進学する。心身共に充実した学生生活を送っていたが、夏休みで故郷に帰ると晋太郎は父親に内緒親戚先で母親の消息を聞いて回ったという。寛は寛で親戚筋に静子のことを口止めしていたが、晋太郎は母が東京・新宿にいるという情報を得る。それから晋太郎は東京に連れて行って欲しいとせがむようになり、寛は親類(今井秀子)に託し東京に行かせた。東京に着くなり晋太郎は新宿へ向かい周辺を歩き回り、その後も東京へ行くたびにあてのない新宿での探索を繰り返したという(木立⑨p48-49)。しかし、先述のとおり母・静子はすでにこの世の人ではなかった。

晋太郎が山口中学を卒業した年(1942)、前年には日米が開戦し、戦時体制下での衆議院選挙、いわゆる翼賛選挙が行われる。東條政権に批判的であった寛は大政翼賛会の推薦を受けずに無所属で立候補し、選挙妨害にも耐え最下位ながらも2期目の当選を果たす。晋太郎は一浪を経て翌年旧制六校(岡山)へと進学する。中学時代から打ち込んでいた剣道を続けるが、戦局が悪化する中、1年半で切り上げ卒業。推薦で東京帝大に入学すると同時に海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊した。1944年9月のことである。
入隊半年後の初春、少尉任官を前に特攻隊への志願を問われ晋太郎はその意志を明らかにする(説明するまでもないが特攻隊はこうした志願の形式をとる)。訓練前に家族との面会を許された晋太郎は油谷町へ帰り病床の父と語り合った。そこで寛は離婚の顛末を晋太郎に明かしたという。事情を聞かせたあと寛は「お前へのつぐないのために、ワシは再婚しなかった。お前だけは私のようにならないでくれ。幸せな結婚をしろよ」と言い、「この戦争は負けるかも知れない。だが卑怯なマネはするなよ。敗戦後の日本が大変だ。その時には若い力がどうしても必要になる。無駄な死に方はするな」と諭したという(木立⑨p62)。
特攻隊員の息子にかける言葉としてはいささか奇異に感じられなくもないが、寛はその後病身をおして滋賀航空隊に面会に訪れたこともあり、我が子に包み隠さない本心を伝えたかったのであろう。死を覚悟していた晋太郎であったが、しかし幸いにも名古屋の航空隊で終戦を迎える。

社会が敗戦に打ちひしがれている中、晋太郎は戦後直ちに東大へ復学する。戦中、隊の同僚に「生きて帰ったら何になるか」と問われ「政治家になる」と答えていた晋太郎は決断は早かった。
その翌年(1946)、4月に戦後初の総選挙を控えていた寛であったが、1月29日に心臓麻痺で突然この世を去る。51歳の若さであった。復学したばかりの晋太郎はいくら政治家志望とはいえ、被選挙権がないため直ちに後継者にはなれない。引き受け手が見つからない中、親類の木村義雄がつなぎ役として出馬を受け入れた。木村は当選を果たすが、その直後(7月7日)、寛、晋太郎親子の後見人的存在であったヨシがこの世を去る。これから開ける未来を前に晋太郎は天涯孤独となってしまった。この孤独感は晋太郎の人生観に少なからぬ影響を与えることになる。
つづく


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