安倍家岸家考⑩(両家の縁)

母の顔を知らずに育ち、戦後東大に復学してこれからという時に父と後見人的存在であった大伯母を亡くした晋太郎であったが、活発な学生時代を過ごす。父の後継者となった親類の木村義雄は公職追放となってしまうが、晋太郎が成長するまでの地盤固めということで当時吉田内閣副書記官であった周東英雄の擁立が決まり、晋太郎もその応援に貢献した。
卒業後、晋太郎は外交官か新聞記者を思案して政治の道を行くなら記者と考え毎日新聞社に入社した(1949年)。駆け出しは社会部であったが1年ほどして政治部に移る。

若干余談になるが、その頃毎日新聞にもレッド・パージの嵐が吹き49人が影響を受けた。政治部の先輩である嶌信正(を合わせて計4人)もその犠牲者で不当解雇の訴えで裁判を起こし本社玄関前でビラ配りなどをしていた。多くの社員が見て見ぬ振りする中、晋太郎は臆することなく嶌に声をかけ、社内ではパージの撤回を訴えていたという。のちに晋太郎は岳父岸信介が組織した日本再建連の出版関係の仕事を紹介するなどの世話までしたという(木立⑨p78~81)。因みにこの苗字でピンとくるかもしれないが、毎日新聞記者からフリージャーナリストとなった嶌信彦はその息子である。

ちょうどその頃(1950年)晋太郎はお見合いをする。相手は岸信介の長女・洋子である(当時22歳)。経緯は岸が突然山地一寿に「洋子は新聞記者にやる」と切り出したことから始まる。山地は戦前毎日新聞の記者から岸の秘書となりそれから刎頸の交りの仲で当時は財団の理事長をしていた。山地は毎日政治部の長坂慶一に相談を持ちかけると「安倍寛の息子で晋太郎というのがいる」ということになり、箕山社(公職追放期の岸の政治事務所)に晋太郎を向かせた。当時晋太郎は佐藤栄作の番記者で口の堅い佐藤に困っていたところで、長坂から兄の岸の線から取材してはどうだという口実で(安倍洋子⑦p110)。本当の理由を知らずに訪れた晋太郎と政治や経済の話をした山地は「これはいい男だ。将来ものになる」と判断し岸に報告した。山地評と安倍寛の息子であることに満足した岸は即断した。実は岸は翼賛選挙に無所属で当選を果たした安倍寛を訪問したことがあり、立場は違えど同じ長州出身者として一目置いていた。

見合いは南平台のレストランでとりおこなわれた。すっかり上手くいくと思われた矢先、岸家内で待ったがかかる。岸信介は佐藤家(信介は次男、栄作は三男)から岸家に入った身である。岸家の最高実力者は妻・良子の実母・千代であり、その千代が「岸家の大事な孫娘をレストランで見合いさせるとはもっての外」と見合いを差配した山地に激怒しているというのだ。レストランも理由の一つではあったろうが、話を通さず事後報告になったことが問題であったことは想像に難くない。
頓挫している理由が洋子自身からでなく岸家の事情と聞いた晋太郎は「向こうが岸家なら、こちらは安倍家だ」と強気ながら荒れていたようであった。のちに自分は岸家の婿ではない、安倍寛の息子だ、と繰り返す晋太郎の気概は一貫していた。

普通ならお流れになる縁談であるが、今度は洋子が自己主張を始めた。その後相次いで舞い込んでくる縁談をすべて断り、岸家は内戦状態になったという。今回は晋太郎の論考であるので洋子の考えについては回を改めるが、洋子の意思が強かったことは間違いない。
家庭内冷戦が続くこと半年、ついに千代が折れ、縁談が再開した。ほったらかしにされたことについて晋太郎は山地に不満を述べたが、洋子の気持ちを理解し、話を受け入れた。そして改めて岸家に佐藤家(栄作・寛子)も加わって改めて見合いが行われ縁談は進み、結婚式は1951年5月5日に東京会館とり行われた(以上縁談に関するエピソードは木立⑨p90~99)。

晋太郎は後に洋子のことを一目惚れしたとも向こうがホレたともリップサービス的に語っており、まずは両人の気持ちが前提であるが、安倍家と岸家の縁談が持ち上がりまとまった決め手は何だったのであろうか。
政治家系同士でもあり一片の打算も無かったといえば嘘になろうが、長州出身者としてのアイデンティティのようなものを共有した何かが背景にあった印象を受ける。山口県でなく「長州」という括りは現在はほぼアナクロニズムであるが、戦前から戦後のある時期まではある種ロマン性を帯びた気質・気概のようなものとして捉えられていたと想像される。そもそも安倍家も岸家も長州藩士の家系ではないが、前時代を生きた安倍寛や岸信介には少なからずそこにこだわりを持つフシはあった(岸のそれについては回を改めて後述)。戦前、岸が安倍寛を訪問したことは先述したが、岸には深い意図はなかったかもしれないし、寛にとってもそれほど気に留める出来事ではなかったかもしれない。しかし岸はわざわざ会いに行くからには翼賛選挙に与せずに戦った安倍寛に何かしらの気概は感じていたであろう。その上で岸も晋太郎もこの両家の邂逅には少なからぬ「縁」を感じたであろうと想像することはさほど不自然ではない。また、こうした「縁」はそれを引き継ぐ者によって補強・増幅されるものであることを考えるとあながち馬鹿にはできない。

結婚の翌52年に長男の寛信が、54年には次男の晋三が誕生しているが、この間に岸は公職追放から復権し国政にも復帰している。そして55年の保守合同を経て岸が56年の石橋内閣に外務大臣として入閣したことにより毎日新聞を辞め岸の大臣秘書官となることで晋太郎の政治人生が始まる。

ところで、後に次男・晋三を同様に外務大臣秘書官にさせようとした際「俺なんか(岸外相が決まり秘書官になったときは)翌日に(毎日新聞)を辞めた」とやったことで晋三はへそを曲げさせてしまった(野上①p137-138)ことは第8回で紹介したが、実は晋太郎もこの秘書官就任(毎日新聞辞職)を当初は固辞していた。どうしても首をタテに振らない晋太郎に業を煮やした岸の秘書が石橋内閣認証式の朝、山地一寿宅に晋太郎を引っ張って行った。この時も晋太郎は自分は安倍家の人間でムコではないと主張するが、山地が父親のあと受けていつか山口1区から立候補して欲しいとなだめて納得させたという(木立⑨p105~107)。
翌日に辞めたのは事実であるが、決して二つ返事でなかったことは晋三も知っていた可能性は高く、親の言葉を素直に受け取れない気持ちは理解できなくもない。どこの家にでもあるようなシチュエーションではないが、似たもの親子のエピソードとしてはよくできている。

「縁」があって家族を作ることができた晋太郎であったが、若い頃に味わった孤独感は解消できたのであろうか。次回はその点について考える。
つづく

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