安倍家岸家考⑧(ヤング安倍晋三~社会人編)

晋三は77年3月成蹊大学を卒業するが、すぐに政治の道へは歩まず、留学のために渡米する。留学とはいうものの、まずは78年1月から語学学校へ通うがホームシックで毎晩コレクトコールで自宅へ電話をかけていたため電話代が月十万円となり、父・晋太郎から「もう晋三を日本に戻せ!」と言わしめ、79年の春に帰国する(野上①p106-110)。留学を目的とした渡米の理由や帰国までの迷走について考察の余地はあるが、結果としては単なる空白期間と位置づけられるものであり、話は次に進める。

帰国後、父・晋太郎の考えもあり、晋三はいったんサラリーマンとして社会に出ることになった。引く手数多のなか、79年4月に晋三は神戸製鋼所に就職する。晋太郎の選挙区(旧山口1区)には神戸製鋼長府製鉄所(下関市)があり、その土地は同じ選挙区の林(義郎)家が寄付したものだった。この牙城を崩すために秘書の松永隆が差配したという(野上①p110-113)。帰国から入社決定までに時間がなかったため、晋三はまず「嘱託」としてニューヨーク事務所の配属となった(野上①p114)。
ニューヨークのスタッフは大物代議士の子息ということで身構えていたが、物腰の柔らかさに皆拍子抜けしたという。妻帯者に限られていた海外勤務者の中で唯一独身だった晋三は「アベちゃん」と呼ばれ皆に可愛がられたという(野上①p119-120)。「線が細いお坊っちゃん」で「この人ほんとに将来代議士になるんかな」と見られる一方、「代議士の息子であることを自覚していて常にわきまえた言動をしてた」と捉えるスタッフもいた(野上①p120)。周りが妻帯者ということで、スタッフの「奥さん方に気に入られる」(野上①p124)ことも多く、留学時のようなホームシックになることもなく充実した駐在経験を1年間積んで帰国した。

1年前、「新入社員はまず溶鉱炉の現場に行くんではないんですか。途中から入って腰掛けで勤めるのは嫌だ」(野上①p114)と言っていた晋三だったが、改めて新人研修を受け、加古川工場に配属された。担当は工程課厚板係(野上①p126)。この当時の製鉄所の現場はかなり過酷な環境で、本人は「加古川時代の生活は非常に楽しかった」と振り返っているが、大学時代の同級生たちは相当追い詰められているいることを感じたという(野上①p130)。しかもこの時期、晋三は父の選挙応援(1980年の衆参ダブル選)にも律儀に出ており心身ともに相当酷使していたと思われる。その結果、晋三は夏に療養を理由に東京に帰り、秋には加古川に戻るが、81年の2月に東京本社の配属となる(野上①p132)。この時の体調不良はのちに潰瘍性大腸炎と言われる病のそれであると思われる。久保ウメによると晋三は「米国留学時にも胃腸を壊して」(七尾⑥上p53)おり、病と付き合う人生は既に始まっていたようである。

晋三の配属先は鉄鋼販売本部・鉄鋼輸出部・冷延鋼板輸出課。神戸製鋼はこのジャンルでは後発で部署は「精鋭の野武士軍団」であったという(野上①p133)。同課の課長・矢野信治(のちに副社長)は野上と青木の取材を受けて当時の晋三について語っている。矢野について、野上は「言葉遣いにも構えたところがなく、極めて直截で」あり「こういう上司の下で働くのは面白いだろう」(野上①p135)という印象を持ち、青木も「かなりなベランメエ調の話しぶりなのに、それが聞く者にまったく不快感を与えない。古き良き時代の日本企業の、一種理想的な上司像のような人物」(青木④p272)と評している。
体調を崩して移動してきた晋三を預かることについて、矢野は「厄介なものを預かることになった」(野上①p133)、「イヤでしたよ、面倒くさいし(笑)」(青木④p272)と思っていたが、上からの「普通に扱ってくれればいい」という条件を(あえて額面どおりに)受け取って預かることにしたという(青木④p272)。矢野には毎日飲みに行く前に牛乳を飲む習慣があり、その牛乳買いの役を自然と晋三がやるようになっていたのだが、これが「普通の扱い」には映らなかったようで、矢野は上層部にきつくしぼられたというエピソードがある(野上①p136、青木④p273)。そのように「本当にまったく普通に扱って、彼(晋三)もそれを喜んだでしょう、朝なんかは人よりも早くきていましたね」(青木④p272)と矢野は振り返っている。晋三自身も「そのくらい職場の雰囲気はよかったし、矢野さんのお陰で仕事も楽しくでき、やりやすかった」(野上①p136)と話している。

そんな幸福な職場環境も、父・晋太郎が外務大臣に就任(82年11月)したことによって終わりを告げる。晋太郎の大臣就任予定を事前に知った秘書の松永は後継問題をはっきりさせるチャンスと晋三が外務秘書官になるよう父子を説得し、内諾を得つつある状況であったのだが、晋太郎が「お前、秘書をやりたければやれ、月曜からだ」「俺なんか(岸外相が決まり秘書官になったときは)翌日に(毎日新聞)を辞めた」とやったことで晋三はへそを曲げてしまった(野上①p137-138)。
晋三はこう啖呵を切った。「会社というところは、そんなに簡単に辞められない仕組みになっている。だいいいち、僕だって大きな仕事をやっており、いきなり辞めれば迷惑がかかる。僕は嫌だ」(野上①p138)。会社が人を辞めさせるのは簡単ではないが、本人がその気になれば会社を辞めることは特に難しい問題ではない。実際神戸製鋼が往生したのは晋三の穴を埋めることではなく晋三への説得であった。親子の問題であるにも関わらず、秘書官不在のまま外務大臣に就任した晋太郎は神戸製鋼へ電話し、「あんたらは息子をまだ辞めさせられないのか」と責め立てたという(野上①p138)。
困った神戸製鋼幹部は矢野に晋三の説得を命ずる。矢野は晋三を食事に誘い話を聞いた。聞けば晋三は政治家になる気はあるが、抱えている仕事を放り出して皆には迷惑をかけられないという。腰掛けが家の都合で勝手に辞めていくと思われるのが嫌だったようだ。矢野はそれを聞いて、政治家になりたいんだったら潮目と思って課の皆にいい迷惑をかけろ、あとのサポートは何とでもする、「それで万事終わりや」と説得したという。晋三はそれに感涙し説得に応じたという(野上①p139-142)。
この場面、矢野は青木の取材にはこう答えている。


―具体的にどうなさったんですか。
「彼はあまり酒を飲まなかったから、喫茶店などで話をしました。『(こんな急だと)迷惑じゃないですか?』って彼は言うから、『もともと迷惑だったんだから』っていうようなことを言って(笑)」
―そうしたら?
「『すみません』って。それに『どっちみち(政治の道に)行くんだろ?』って聞いたら、『そう思ってます』って。『運命だと思っています』って言うから、『だったら早く辞めた方がいい』って言いましたね。その夜、盛大な送別会を開いたのを覚えていますよ」
―運命、ですか。
「お兄さん(寛信)がやらないなら、彼しかいない。それををもって『運命』だと言ったのでしょう。本当に(政治家に)なりたかったどうは知りませんが」(青木④p280-281)

もう少し矢野の話に耳を傾けたい。青木は矢野に晋三の人物評を色々と聞いている。晋三は部下としては、「まったく普通の子。真面目だしエバるわけでもないし、腰も軽かった。仕事をさせても、さしたる失敗をした記憶は」なかったという(青木④p272)。もし晋三が普通の社員であったら、どこまで出世できたと思うか、という質問にはこう答えている。


「専務とか役員クラスまでいけるかどうかはともかく、部長クラス以上にはなったんじゃないですか。最大の要素は真面目で敵をつくらない。これは(サラリーマン社会で)大きいですよね。僕なんかは、叩かれたら叩き返すっていうような感じでしたが、(晋三は)新世代ですから。人づきあいの勘が良くて、要領も良くて真面目で、敵をつくらない。だからみんなに好かれていましたよ。そう、たとえて言えば、まるで子犬みたいだったなぁ…」(青木④p274)

矢野は晋三と「政治談義など一度もしたこと」はなく、「筋金入りのライト(右派)だなんて、まったく感じ」なかったという(青木④p281)。晋三の政治思想について矢野は「実はずっとインベキューティング(培養)していたのかどうかは分かりませんが、僕は間違いなく後天的なものだと思います。(政界入り後に)周りに感化されたんでしょう。まるで子犬が狼の子と群れているうち、あんなふうになってしまった。僕はそう思っています」(青木④p281-282)と述べている。

周囲が見る安倍晋三のイメージは多少のアップデートはあるものの、社会人になっても本質は学生時代とあまり変わっていない印象を受ける。突出した能力や個性を発揮・主張する訳ではないが、自らの役割はそつなくこなし、周囲からは好かれている。そして政治家然とした態度をとることも政治思想を主張することも決してない。晋三には一人だけ自らの政治信条を語っていた同級生(秋保)がいたが(前回参照)、職場でそこまで心許せる同僚はなかなか得られないであろうし、『正論』などを読み耽る程度の知見で語れる内容には限界があることは考慮しておくべき点である。
矢野が「周りに感化された」という指摘はある意味突いている点があって、「毎日新聞」の「安倍人脈 時期政権像を探る」というシリーズの第5回(2006年9月2日)にこんなエピソードが載っている。

01年9月11日の米同時多発テロ後、危機管理問題の専門家、佐々淳行元内閣安全保障室長(75)は官房副長官だった安倍氏に憲法前文を根拠とする自衛隊の貢献策を進言した。これを警察官僚時代の上司にあたる後藤田正晴元副総理(昨年9月、91歳で死去)が強く牽制したというのだ。
「おまえ(安倍氏)に変なことを吹き込むんじゃないよ。(岸氏の影響を)心配しているんだ。岸信介の恐ろしさが分かっていない」と語ったという。(引用者注:佐々の年齢は当時のもので2018年に87歳で没)

晋三は父の死去(91年)まで秘書を9年間務め、初当選が1993年。いつ頃から「吹き込」みたがる人物に囲まれるようになったかは定かではないが、前回紹介した『「保守革命」宣言』の出版は96年である。同書の安倍晋三の執筆担当部分は10年後総理大臣となって発表する『美しい国へ』の前哨戦のような内容となっており、この時にはすでに政治家・安倍晋三の基本思想は固まっていたと思われる。ただ、『美しい国へ』のあの語り口調から醸し出される雰囲気は学生時代同級生の秋保に語っていた政治談義のそれと似たものがあり、肉親として敬愛する祖父への思いをベースに突貫工事で作り上げた政治思想という印象は拭えない。矢野の言う「子犬が狼の子と群れているうち」にという見立ては案外はずれていないようにも思える。

政治家・安倍晋三に魅力があるとするなら、こうした思想よりも、そこはかとなく漂う人間的愛嬌の方が大きいはずだが、そうした要素はこれまでに述べられてきた晋三少年・青年の人間像に起因していると思われる。会社の同僚・上司が持った印象でいうなら、物腰柔らかく、真面目で威張らず、人づきあいの勘と要領が良い、という人物像が浮かび上がる。
「朝日新聞」の「耕論」で「安倍元首相に見る『偶像』」(2022年8月30日)という特集があった際、鈴木涼美は安倍の人気は「政策や主義主張というより、彼が持つある種のチャーム(魅力)だった」と分析している。そのチャームとは「がつがつしていなくて、心がつるんとした印象」であり、結果、「長期政権になったのは、安倍さんが論理を超えたチャームや感情で支えられたから」だという。どこかとらえどころのない論考ではあるが、何となく理解できてしまう側面がある。
前述の学友の秋保によると、ゼミで周囲から浮いている学生がいて麻雀などで皆が卓を囲うのを敬遠する中、晋三は仲間はずれにすることなく、別荘に遊びに行く際も自ら誘ったという。「安倍にはそうした優しさがあ」ったと秋保は振り返っている(野上①p105)。
安倍晋三が官房副長官時代、ある学友との昼食後に母校(成蹊大)に立ち寄った際、学友から「そういえば、俺のほうがずっと勉強していたのに、何でお前だけ合格点を取ってたんだ?」と聞かれ、安倍は「そんなの要領だよ、要領」(野上③P69)と答えたという。つまり少年から青年になった晋三は自らの美点を半ばナチュラルに半ば自覚的に振る舞っていたと思われる。鈴木涼美の言う「ある種のチャーム」とはこういうことなのかもしれない。

政治家・安倍晋三の評価は本稿の目的とは直接関係ないので同氏の人間像の探求も一旦はここまでとする。次回以降はいよいよ本来の目的である安倍家、岸家の背景を探っていくことにする。
つづく

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