安倍家岸家考⑫(佐藤家の血筋)

江戸後期、長州藩に佐藤信寛(通称・寛作)という藩士がいた。佐藤家の由来や代々の家系について深堀りはしないが、源義経家来佐藤忠信に発するという口伝があり(あくまでも口伝)、藩士としての佐藤家は初代・市郎右信久衛門が寛文2年(1662)に萩藩で下級武士となって以来、信寛は十代目の当主となる。幕末に長州藩士であると松陰との関係が注目されるが、信寛は松陰より15歳年長(文化12年生まれ)であり、兵要禄を授けたことがあったようだが、当然松門ではない。

維新後、信寛は島根県の県令を務めるなどし、63歳(明治11年)で官を辞し、熊毛郡麻郷村戎ケ下(その後の田布施町)に居を構え、86歳まで余生を過ごした(明治33年)。信寛は佐藤家にとって中興の祖のような存在となり、佐藤家といえば田布施、田布施といえば佐藤家という地縁もここで確立した。

長男の信彦は漢学者にして山口県議を務め、三男二女をもうける。その長男・松介は医師となり岡山医学専門学校の教授となり同じ山口出身で親友であった松岡洋右の妹・藤枝と結婚する。

この信彦の三男二女の長女・茂世は祖父・信寛に非常に可愛がられ、嫁に出されることなく婿を迎え佐藤家の分家を立てた。この婿が岸家から来た秀助であった。ここから佐藤家と岸家の切っても切れない縁が始まる。
茂世の佐藤分家は本家が他家に貸していた酒造の権利を譲り受けこれを稼業とした。秀助は山口県庁に奉職しており漢学に通じ能筆家であったという。稼業は茂世に任せていたが、明治31年(1898)頃に秀助も田布施に帰り夫婦で酒造業にあたるようになる。この時すでに長女タケ子、長男市郎、次女こま、三女音世、次男信介がいた。一家の中で信介の生まれが田布施でなく山口町八軒家(現山口市)なのは当時の父の勤務地の関係である。

ここで血筋の行方だけを先走りして説明してしまうと、佐藤分家は長男・市郎(海軍軍人、最終階級は中将)が言うまでもなく当主となる。秀助の実家岸家は信政が継ぐが男子に恵まれず、佐藤分家次男の信介が岸家に婿入りすることが決まっていた。そのことにより、ある時期から岸家長女の良子と許嫁の関係なっていたと思われる。
秀助が県庁を辞し田布施に帰った3年後に三男栄作が生まれる(明治34年)。この時点で栄作は分家の三男坊であり、佐藤家全体としてはそれほど期待の高いポジションにはなかった。ところが、本家長男の松介が明治43年(1910)に35歳で急逝してしまう。このとき松介の長女寛子3歳、次女正子は当歳であった。突如本家の家系にピンチが訪れるが、栄作が本家に婿入り(相手は長女・寛子)することで佐藤本家の血筋を保つことにしたのである。

気づかれたかと思うが、次男・信介、三男・栄作の婚姻はともにいとこ婚、文化人類学的にいうなら「平行いとこ婚」である。合法であるのは言うまでもなく、歴史的に見ればイエや共同体を維持するために行われるいとこ婚は特に珍しいものではない。
系図としてまとめると以下のようになる。

佐藤信寛┓
 ┏━━┛   吉田祥朔
 ┃       ┣━━吉田寛
 ┃     ┏さわ
 ┃     ┃     ┏寛子(栄作夫人)
 ┃     ┣佐藤松介━┫
 ┃     ┃     ┗正子
 ┗佐藤信彦━╋佐藤寛造
       ┣池上作造
       ┗茂世
        ┣━━━━┳佐藤市郎
      ┏━佐藤秀助 ┣岸信介
  岸要蔵━┫      ┗佐藤栄作
      ┗━岸信政━━━良子(信介夫人)

21世紀になってもうすぐ四半世紀、近代に入って元号も5代目となった現代にこの系図を眺めるとなかなかな血統システムを感じてしまうのはやむを得ないかもしれない。勿論、次男、三男が養子に行くというのは戦前までの社会的価値観からすればさして不自然ではなかった。しかし、次男、三男ともにいとこ婚というのはなかなかな血筋捌きではある。
とはいえ、系図は系図、人は人である。次回以降は佐藤信介が岸信介となり、佐藤家、岸家とどう関わっていくかを追っていくことにする。

つづく

※本稿は個々の事実にいちいち引用注をつけなかったが、基本的には以下の書を参考にまとめた。
『正伝佐藤栄作 上』山田栄三・新潮社・1988年
『佐藤寛子泣いて笑って』佐藤早苗・山手書房・1984年
『我が青春 生い立ちの記/思い出の記』岸信介・廣済堂・1983年

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