安倍家岸家考⑬(宰相を二人も生んだ母)

 前回の佐藤家の家系の説明の際にもしたように、近代佐藤家中興の祖である信寛は孫の茂世を非常に可愛がり岸家から婿(秀助)を迎えて佐藤家の分家を立てた。秀助18歳、茂世14歳のときである(『岸信介伝』吉本⑩)。

 茂世は10人の子を産むが、うち3人が男子で、長男・市郎、次男・信介、三男・栄作である。学問的な教育については父・秀助に寄るところが大きいが、しつけ等の全般的な教育は母・茂世が圧倒的であったようだ。

 市郎によると(『文藝春秋』1955.2「弟・信介、榮作を語る」)、「父は極くおとなしいひと」であったが、「厳しいのは専ら母の方で」「子供の頃はいたずらをすると、お尻をつねられたり、土蔵にほうりこまれたり」したそうである。ただ、市郎は「それを信念をやっていた」と見ており、茂世は市郎の妻にも「かわいければ厳しく育てろ」と言っていたそうである。茂世は「小學学校へ一日っきり行ったことが無」かったが、成人した信介・栄作に対して「おまえたちは金と時間をかけて理屈は習っただろう、私は理屈は知らんが、道理は負けはせんよ」と「堂々と議論」をふっかけていたそうで、そんな茂世を市郎は「とにかく母は頭がよかったし、それにかんが良いというか、先の見通せる人だった」と評している。

 信介・栄作の茂世の印象もほぼ同じで(『文藝春秋』1954.1「兄弟は他人のはじまりか?-政界・あにおとうと」)、尻つねりと土蔵は共通している。岸いわく茂世の教育は「スパルタ」であったが、「ぶったりつねったりするのはしりっぺたで、頭をぶつとかいうのは絶対にしな」かったという。

 そして父・秀助についての記憶も共通しており、「父に叱られた記憶はひとつもない」と断言している。手を上げられたではなく、「叱られた」こと自体がなかったのである。このことを市郎は「なにしろ養子だったのでおとなし過ぎるくらいおとなしかった」と振り返り、信介はこうした父親が「子供のことにさしでがましく云わ」ず、「母親が子供のしつけを」する(しかもスパルタ式で)のは「長州の武士の家」の「気風」だと言っている。この信介の家族観は記憶に留めておきたい。

 この秀助・茂世夫婦の教育の成果であるが、まず長男・市郎は大秀才で海軍兵学校・大学校ともに首席で卒業し、最終階級は中将まで行った。そして次男、三男については言うまでもない。我が国において二人の内閣総理大臣の母であるのは佐藤茂世しかいない。

 ここから先も佐藤家と岸家、そして安倍家との結節点として要になって行くのが女性であるのだが、その事始めは茂世であるといえる。

(つづく)

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