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走る方が上手い鳥

 今朝は雪明かりが眩しくて、リビングダイニングのカーテンが透けていた。金曜日は一限目からなので、千幸は早く起きた。起き抜けに階段下の段ボール箱にあった林檎を二つ食べた。艶のある大ぶりの真っ赤な林檎である。果皮を覆う、油っぽいろうで指先が滑り、うっかり落としそうになる。熟れが進んだ、安っぽくて甘い匂いがする。噛むと、軽い音を立てて果肉がしゅわりとしぼむ。優しい甘さにうっとりとし、柔らかい酸っぱさにはっとする。面白い。千幸はまた噛みしめる。かじる音が結構、うるさかった。
 冬、林檎が旬を迎えると舘林家には必ず林檎がある。とは言っても、親戚に林檎農家がいるわけではないし、家業がそうという訳ではない。千幸の母親は朗らかで社交的な人で、いつもいろんな人から、美味しいものを貰ってくるのである。
 千幸は三回、くしゃみをした。千幸には「あの時、あの人が言ったことは、あの人がやったことは、こういう意味だったんじゃないのか?」という選択肢が突如浮かぶことがある。なんの脈絡も無く、食事している時でも、新聞を読んでいる時でもだ。そしてその選択肢は、認めたくないことがほとんどだ。千幸の自尊心が強く抵抗する。そして、身悶えする自分を恥じる、自分に呆れる、疲れる。
 低い振動音がした。千幸は、充電中の携帯電話をコードも抜かずに持ち上げた。零助からのお声掛け。用件だけの簡潔な連絡である。
 千幸はテレビをつけた。まだ、情報番組の天気予報は一回目である。父はとっくに出かけ、母はまだ起きてこない。
 一人でいると、ほんの時々だが、零助に名前を褒められた時の暖かみが込み上げて来る。千幸はこの未知の暖かみを持て余し、治め方がわからずに戸惑っていた。そのたびに、それを振り落すように自分の中の片隅へ追いやった。この心地良さを堪能したいとも思った。だが、未知ゆえに不安で、悪寒さえするので、認められない。
 そのことを、博美に話したことがある。零助が、実験で遅れていた時、先に『ツウカイ!』で待っていて、二人で話したのだ。

「大丈夫だよ。いつか、どうしようもなくなって、ちゃんと千幸さんの気持ちがわかる日が来るから」

 そう博美は微笑んだ。胸の奥が暖かくなる半面、なんだか苛々する。

 ――面倒くさい、と。

 別に恋愛を神聖化しているわけでも過剰に美化しているわけでもない。純愛至上主義者でも運命論者でもない。見下しているわけでもないし、全く興味が無いわけでもない。経験したわけでもない。恋愛経験を勲章のように思っている人達がちらつかせる恩恵を得るために、関係の雛型に自分の立ち振る舞いをはめ込むことが、ただただ、面倒くさいのだ。その様は例えるなら、脆い硝子の靴にでかい足を押し込むべく鼻息を荒く金切り声をあげているシンデレラの義姉ようだと千幸は思っていた。あるいはすごろく。スタートとゴールが決まっていて、マスに書かれたイベントをさいころで選ぶ、その過程もだいたい同じ。気味が悪くて、なんとなく無様。
 自分にだって人を慕う気持ちはある、と千幸は信じようとはしていた。慕うという気持ちを目に見える、耳に聞こえる、肌で感じられる形で表現し、相手と交換し合うのがコミュニケーションならば、千幸はその表現方法の知識が乏しかったのだ。また、流通している定型的な表現方法に納得ができないものも多く、実行したくなかったというのもある。また、自分が納得していない表現方法を相手が強く求めていたとしたら? それが自分のあらゆる能力も感性も及ばないことであったら?
「何だ、こじらせているのか? もしそうならなおのこと一度でも飛び込んでみればいいではないか」などと言う世代は、経験は荒療治、愛情を特効薬とでも思っているのだろう。しかし、薬の効果より副作用のデメリットを疑い、数え上げるように躾けられた若者はそこまで楽観的ではないのである。こんな、説明し難い慎重な気持ちが勝っているのが今の千幸であった。
 千幸は思い切り林檎をかじった。甘酸っぱくて、寝起きの渇いた喉にちょうど良い。果肉はしゅわり、しゅわりとしぼんでいく。あまりに脆くて悲しくなる。果汁はじわりと溢れて、さらさらと消えて行く。あまりに何でもなくて、拍子抜けする。

「ああ、不遜、不遜」

 と、千幸は呟いた。
 経験もないくせに、情報だけで悟った気になってしまう自分にうんざりした。ネットで小説のあらすじだけ調べて「こんなもんか」って言ってるようなもんじゃないか。あらすじだけでは文体や話の運び方まではわからないじゃないか。ああ、不遜だ、と千幸は林檎を貪るようにかじった。
テレビから今日の日付を伝えるキャスターの声がする。今日で、千幸は二十歳になる。千幸は林檎の芯をゴミ箱に放り投げた。カサッと乾いた音がした。
 今わからないことは、まだ触れる必要は無い。まだ、考える時間が必要なのだ。考えて尽くして、それでもこぼれ落ちる「わからない」があって初めて、直感を受け止めることができるはずだ。
 千幸は零助に返信した。今日は一杯だけ酒を頼んで驚かせようかな、と笑った。

********

 その夜、千幸と零助は『ツウカイ!』で落ち合った。
 千幸は、カウンターに置かれたカシスオレンジを眺めていた。氷がすっかり溶け、水の層ができていた。

「いらないなら、ください」

 お願いします、と千幸は零助に手を合わせて、会釈した。零助はジョッキをそっと傾けて、あっという間に半分ほどを流し込んだ。
「酒を恐れることはない。酒は百薬の長!」
 十日市がそう言うと、葛西と小比類巻も便乗した。葛西は酒で喉を湿らせ、煙草に火を点けた。カウンターに放られた若草色のライターを零助は指差した。白字で『創作居酒屋若草』と書かれていた。

「葛西さん、『若草』に行ったことあるんですか?」
「ん? うん。よく行くよ」
「じゃあ、雉酒って飲んだことあります?」
「うん。一回だけな」

「いいですね」と言う零助に、千幸は「雉酒とは何か?」を聞いた。焼いた雉のササミに熱い日本酒をいれて飲む、美味いらしいけど高い酒と零助は説明した。

「だから俺、よっぽど、あん時の雉、持って行こうかなって」
「あん時って?」という小比類巻の質問に、零助が答える。
「千幸さん、雉、蹴ったんですよ」
「蹴っていませんよ」

 千幸は刺々しい言い方で否定し、注文した烏龍茶をあおる。酔っ払ってドブに足を突っ込んだ話を、他人に蒸し返される上、第三者に暴露されるのは、きっと、こんな気分だろう。
 葛西が赤ら顔で車の鍵をちらつかせる。

「よし。こん中で、代行運転してくれたら、雉酒、奢ってやるよ」
「はい!」
「十日市さん、あんた、飲んだだろ」

「はい! はい!」と手を挙げ続ける十日市を葛西は相手にしない。
「葛西さん、ホント、酔っ払いからかうの好きだなあ」
 小比類巻がのんきに笑って、ビールをちびちび飲む。零助はふてくされて、残りのカシスオレンジを飲み干した。

「誰もいないの?」

「はい」

 と千幸が手を挙げる。葛西は「しまった」と頭を抱えた。
 千幸と、葛西を抱きかかえた零助は、十日市と小比類巻を店の前にある駐車場で見送った。千幸は、へべれけの葛西が指差した軽自動車のロックを解除して、運転席に乗り込んだ。零助は管を巻く葛西を後部座席に半ば押し込むように乗せた。そして、「約束は約束ですよ」と助手席に上機嫌で乗り込んだ。シートベルトを締めたのを確認し、千幸は車を出した。
 フロントガラスにベタベタ張り付く牡丹雪を、ワイパーがせわしなくこそげ落とす。渋滞に苛立ち、すれ違う除雪車の地鳴りに肝を冷やしながらも、慎重に運転した。凍結した路面のせいでタイヤを転がす音が、怯えて小刻みに震えているように聞こえた。葛西家に到着した頃には、終電は過ぎていた。
 千幸と、葛西を抱えた零助は、葛西夫人に迎えられた。ハキハキした口調でお礼を言われた。「寝室まで運びます」と零助が靴を脱ぎ始めると、夫人は葛西の靴を脱がせ、葛西のもう片方の腕を自分の首に掛けた。
 夫人は千幸と、葛西を抱えた零助を奥の和室に通した。夫人が手際よく敷いた布団に零助は葛西を下ろした。挨拶を済ませ、帰ろうと千幸達が振り返ると、入り口の襖から葛西の娘が覗いていた。襖の引手の位置より大分小さい。ふっくらした手をおずおずと襖の縁に添えている。千幸が挨拶すると、くりっとした目で千幸達を見上げて、すぐに伏せた。葛西が畳を這って行き、娘を抱きしめて頬ずりすると、娘は「お父さん、臭い。嫌、嫌い」と身をよじる。夫人が葛西を布団に引き戻すと、葛西は気絶するように眠ってしまった。「ごめんなさいね、うるさくて」と笑う夫人に、千幸達は笑い返す。

「ねえ、なんでお父さんはお酒を飲むの?」

 娘が夫人の袖を引っ張りながら、心底、機嫌悪く言った。「知麻。いいから、もう寝なさい」と夫人が促すと、今度は「ねえ、なんで? なんでぇ?」と、おさげを揺らしながら抱きつく。零助がその傍にそっとしゃがんだ。

「お父さんは鬼退治をしているからだよ」

 千幸と夫人が顔を見合わせるのをよそに、娘は真剣な顔になった。

「お父さんの顔、真っ赤だろ? あれは鬼と戦ってる証拠なんだ。鬼が体の外に出てこようとしてるんだよ」
「お父さんの中に鬼がいるの?」

 娘がぎょっと目をむいた。零助はちょっと面白がっていた。

「お父さんは良い人だからね、自分の中で鬼が好き勝手やってるのが許せないんだ。あそこの神棚。お正月とかに、お酒もお供えするだろ?」

 娘が「うん」と頷く。

「お清めっていって、悪いものをぜーんぶ追い出して、きれいにしてくれるんだ」
「良い人なのに、鬼がいるの?」
「本当に良い人は、鬼がいない人じゃなくて、鬼を追い出そうって頑張ってる人なんだよ」

 娘がいよいよ首を傾げたので、零助はきまり悪そうに微笑んで、立ち上がった。零助が「じゃあ、もう……」と夫人に会釈して玄関に向かうのに千幸も続いた。千幸達は夫人と娘に見送られ、葛西家から退散した。風除室の扉を閉めた途端、零助が頭を下げた。

「すみませんでした、千幸さん」
「いいよ、別に」

 と答えつつ、初めて焦った。今晩、青森行き下り電車の始発まで寒さをしのぐ当てが全く無い。弘前駅周辺に漫画喫茶なんて手軽な宿は無いし、カラオケボックスは騒がしくて、鍵もかからないので嫌だ。千幸には、弘前で、単身でアパート暮らしをしている友達もいなかった。

「大学はどうですか?」

という零助の提案に、千幸はのることにした。
 雪も風も止み、辺りは妙にしんとしていた。雪を踏みしめる音だけが二人に延々とつきまとう。外灯の冴えた光が照らす通りは、何処までも続いていくようで、千幸は身震いがした。
 千幸達はコンビニで飲み物を買った。500mlペットボトルの烏龍茶と緑茶だったので、レジ袋は断った。風除室から出た途端、顔の皮が凍りつくような冷気。手に持ったペットボトルの内側に、烏龍茶の薄氷が張りそうだった。
 そのまま千幸達は大学へ向かった。

「零助も鬼退治してるの?」
「俺は違いますよ、全然酔わないし。やだなぁもう」
「羨ましい……」

 零助が「ん?」と首を傾げた。

「私、鬼がいるなんて、気がつかなかったから」

 千幸の呟きは白い息に紛れて消え入ったようだ。零助は何も答えなかった。どの季節のよりも広く見える冬の夜空に、千幸はなんだか飲み込まれそうな気持ちだった。
 人文学部棟と理工学部棟に挟まれた細い路地を千幸は零助について歩いた。真っ暗な窓が無数にくっついている人文学部とは違い、理工学部はまだまだ眠らない研究室が点々と明かりを灯していた。
 文系見直しだ、理系強化だ、実学志向だ、職業訓練校化だと、人文学部は着々と、南極の氷の如く小さくなっていくのは確かだった。その氷の上で、コウテイペンギンの群れよろしく押し合いへし合いしながら、はるか遠くのこの国に、探究心旺盛な人々が呪詛の念を送っている。まるで六十年代学生運動のように……というわけもなく、もうキャンパスには人気が無い。
 一台の軽自動車が二人の横を通り過ぎて、大通りに消えて行く。水を打ったように、辺りがより一層、静かになる。学生食堂、大学生協のコンビニ、体育館、合宿所、武道場を越えて、零助と千幸は第三駐車場の片隅に立ち並ぶ三棟のプレハブ小屋に着いた。サークル棟と呼ばれるその小屋は大学の公認サークルや部活動団体が日々、活動している。十一時半を過ぎた今は、どの窓も暗く、物音ひとつ聞こえない。
 零助は真ん中にある小屋の扉を開けて、中に入った。敷いてあるマットで靴底の雪を落とし、そのまま奥へ進んだ。千幸も零助に習おうとしたが目の前に立てかけられた黒板に「土足ヤメテ」と書いてあった。

「零助、靴」
「いいです、土足で。いろいろ落ちているんで」

 千幸は靴底の雪を念入りに落としてから、奥へ進んだ。
硝子窓がついているアルミ製の引き戸が並ぶ薄暗い廊下を早足で渡る。床が軋む音がし、各部室からはみ出した荷物や備品がぐらぐら揺れた。スティールパン部のドラム缶をすり抜け、陶芸サークルの失敗作の山をまたぎ、使い道を見いだせない廃材の林を抜け、空き缶のゴミ袋や古雑誌の藪を足でなぎ払う。
 サバイバル研究会? こんなサークルあるんだ、と千幸は横目で見た。迷彩柄のテントが張りっぱなしになっている。その他は、大きなリュックが転がっているのと、仰々しいロッカーと姿見しか確認できなかった。漫才研究会の前はもはや異次元だった。高さの違う発泡スチロール製のこけしがいくつも佇み、ベニヤ板製のどこでもドアが立てかけてある。おそらくコントで使ったものと思われる。
 零助を追って、千幸が辿り着いたのは、美術部の部室だった。引き戸の横にあるカラーボックスには、カラースプレーや細かい画材がぎっしり詰められていた。零助はカラーボックスの一番上に乗っていた小さな木箱から鍵を取り出し、「どうぞ」と引き戸を開けた。
 招かれるまま、千幸が中に入ると、零助は部屋の電気を点けた。そこには一台のベッドがあった。灰色の土台に真っ白な敷布団と毛布、掛布団、枕が乗っかっている。脚が短く、下のスペースは、痩せ型の男の腕がやっと入るくらいだ。病院のベッドを大分貧相にしたら、こんな感じになるだろう。大小様々な大きさの色鮮やかなカンバスと無機質なイーゼル、被写体の石膏像が鎮座する部屋の中で、その存在は明らかに異端だった。 
 部屋の隅から零助が達磨ストーブとチャッカマンを出してきた。

「映画研究会に頼まれて作ったセットです」
「零助って、美術部だったの?」
「いいえ。作ったのは友達です」
「勝手に入って、大丈夫?」
「大丈夫です」

 達磨ストーブの中に炎が上がった。手際よく零助はストーブに火を点けた。千幸はおずおずと零助に歩み寄った。

「よく来ているの?」

 零助は頷いた。そして、古いソファから身を乗り出して、チャッカマンを向こうにあるテーブルの上に滑り込ませるように放った。テーブルの上は散らかっていた。脂のこびりついた灰皿、オセロのボードやトランプなんかがあった。零助はストーブのそばに胡坐をかいて、両手をかざした。千幸は手袋を外して、立ったままストーブに手をかざし、零助に聞いた。

「なのに、部員じゃないの?」
「書く方じゃないんです。書かれる方です」

 零助は素っ気ない顔をして言った。そういうのやるんだ、と千幸は思った。その代わりに「へえ、すごいね」と口に出した。零助は「全然。疲れるだけなんです」と苦笑し、こう話し出した。

「この前に、描いてる友達、怒らせちゃって。いや、あれは向こうが悪いんですよ。俺が持っている遺伝子科学の教科書が綺麗だから、それ読んで座ってろって。言った通りにしたら『もう少し顔上げて』って言うから、顔を上げたら『ちゃんと教科書、読んでて』って言うし。微調整を繰り返しながら段々馬鹿くさくなってきて。ほら、疲れてると、苛々して投げやりになるじゃないですか。それでちょっと目を伏せたら、『動かないで。ずっとこっち見てて』って言う。その上、描きながら俺に自分の話ばっかりしてきて、頻繁に無言で『聞いてる?』って凝視してくる。『絵を見せて』って言うと、『嫌、嫌』ってカンバスに覆い被さる。それからの俺、全く無意識ですけど、目が怖かったらしくて」

 千幸は買ったペットボトルをそっと傾けて、烏龍茶を飲んだ。口の端から一筋、ふわりと溢れ出て、マフラーに浸みた。千幸はペットボトルの口を噛んだ。
 零助は、群れというか、人と関わる機会に不自由したこと、飢えたことが無いのかもしれない。千幸も、零助のことが好ましいと思う。だが、零助の人格、容姿、振る舞いなどの一体、何が群れに易く馴染み、そして染まりきることなく渡り歩けるようにするのだろう? 千幸は、わからないことが嫌いだ。仲間外れにされた気分になる。それこそ寒気がするほど。わからないと諦めるのは、わかろうと努めてそれでもできなかった時まで取っておきたいのだ。
 千幸はコートの袖口で口の端を拭った。ストーブを挟んで零助の向かいに座り、会話した。

「零助って友達と何するの?」
「近場で遊んだり、誰かの家に集まったり、飲んだり、話したり」
「どういう話?」
「あんまり覚えていません。千幸さんとの話と違って、話題が展開していくんじゃなくて、流れていく感じ。流し素麺みたいに、取って食べたら次々に違う話に切り替わる」
「しかも、一すくい一すくい、似たような味」
「そうそう。わいわいすること自体を味わうんです」
「それ、楽しい? 疲れない?」
「はい、特に。それなりに楽しいですし、面白い人もたまにいます」
「なんで疲れないの?」
「なんでって言われても。えー、難しい。なんで疲れるかなら答えやすいけど、なんで疲れないか? しいて言えば、今までこうしてきたから」
「今までの仕方で上手くいかなかったことないの?」
「ありますよ。あれば、よっぽど酷ければ絶交です」
「傷ついたことないの?」
「怒ったり、悲しくなったりはしますけど。傷?」
「相手が感情的に怒鳴ってきたり、自分も怒鳴って後悔したり」
「静かな絶交でしたよ」
「それ、自然消滅って言うんじゃないの?」
「または、疎遠とも」
「なあなあってこと?」
「あんまりしつこいと、気持ち悪いでしょ?」
「でも、それでなんで、絶交する必要があるってわかるの?」
「それは、なんとなく」
「友達って、群れ? それとも、関係?」

 零助は、唸りながら考え始めた。

「私とこうしているのは、疲れない?」

 千幸は自らの愚問を恥じた。が、言ってしまったものはもう取り返せないので、開き直る。わからないことは、訊いてしまうに限る。
零助は無表情で黙り込んだ。思考が停止したのか、頭をフル回転させているのか、千幸にはわからない。達磨ストーブの中でぱちぱちと火の粉が飛んだ。

「眠くなった。眠くて、千幸さんの話、あんまり頭に入りませんでした。すみません」

 零助は、あくびを懸命に噛み殺していた。千幸が安堵すると、一気に眠気が襲ってきた。零助は、千幸の背に佇むベッドを一瞥した。

「俺もそっちで寝ようかな、温かそうだし」

 眠気が吹き飛んだ。千幸は「え?」と声を上げた。

「友達と旅行して、宿泊代、浮かすためにシングル泊まことあるでしょ。修学旅行なんて、全く話したことない奴とでも雑魚寝する」

 千幸が狼狽えると、零助がたたみかけた。

「それとも、そういうの意識した方が良いですか?」

 穏やかな語気だが、顔が気になった。笑っているが、神妙である。ストーブの火で、顔が橙色に照らされていたせいもあり、千幸を緊張させた。千幸は不器用に笑った。

「私は雑魚寝が嫌いなんだ」
「どうして?」
「動物園みたいだから」

 本当は豚小屋と表現したかったが、千幸は少し言葉を選んだ。

「サークルでの演劇公演の打ち上げ、私、参加しなかったんだ。酒のせいで無駄に盛り上がる信頼連帯もどきが嫌だったの。んで、次の日の昼にLINE、見たのね。宴会部長の部屋で雑魚寝してる同期の写真が上がってきて。『皆、死んどる』ってメッセージ付きで。それに、『ご愁傷様』って、よっぽど返そうかと思ったけど、止めた」
「もう少し緩くても良いんじゃないですかね」

 何でもないように言ってくるのが、かえって癪に障る。千幸はなるべく落ち着いて答える。

「そうだね。雑魚寝を嫌悪する時点で、私は少なからず、そういうのを意識しているのかもしれない。でもそれは、礼儀なんじゃない?」

「礼儀」と、零助は吹き出した。笑いをこらえる零助に、千幸はたたみかける。

「零助も、そういうの意識しているから、私に譲ったんでしょ?」
「それは礼儀です」
「男としての?」
「だったら潔く帰りましょうか?」
「私、美術部に友達いない」
「じゃあ千幸さんがソファで寝ますか?」
「いいよ」
「俺は嫌です」
「なんで?」
「だって、いたたまれませんよ。俺、男ですから」
「んで、私は女って?」
「そこはどうしようもないでしょ」
「本末転倒じゃない?」
「じゃあ、そこは大して重要じゃないってことですね」

 千幸の足が地団駄を踏みたくてうずいた。勝利の微笑みを浮かべ、零助はペットボトルの緑茶を飲んだ。

「要は、俺が聞きたかったのは、どうしたらこの部屋で俺達がぐっすり朝まで寝られるかってことです。論点はそこ!」
「……そうだね。それなら私は、男だろうが女だろうが、雑魚寝は嫌だ。そういうのが本当に駄目なんだ」

 零助はペットボトルの蓋を弄びながら、部屋を見回した。

「それだったら、俺がソファで寝ても変わりませんね。カンバスで仕切りでも作ります?」

 千幸は小さく唸りながら、ベッドに座った。仕切りを作るというのが、あからさまで不服だった。ベッドの縁に手を置くと、側面が凸凹していたので、掛布団をめくってみると、敷布団が二枚重なっていた。

「ベッドを仕切りに二人とも床で寝るのは? 布団があるよ」
「カンバスと何が違うんですか?」
「二人とも布団で寝られて、平等じゃん」
「仕切りとしてはカンバスの方が優秀では?」
「ベッドはあくまで、結果的な仕切りなんだよ」
「……それで寝られるんだったら」

 零助はペットボトルの蓋を閉めて、立ち上がった。
 千幸は掛布団と毛布を取っ払った。零助は枕を千幸の足元に避け、上の敷布団を引きずって壁際のスペースに移動した。千幸は掛布団を抱えて、向こう側の零助に渡した。ここは黙って甘えることにしよう、と思ったのだ。二枚目の敷布団を後ろにあるストーブに注意しながら、引きずり降ろす。きれいに敷いたその上に靴を脱いで座り、毛布を引き寄せる。むき出しになったベッドの土台は、角材の骨組みに発泡スチロールのブロックが敷き詰められただけのものだった。もう零助は掛布団に包まって、ベッドの陰に潜り込んでいた。千幸はコートを着たままの体に毛布をきつく巻いて、布団に倒れ込んで、枕に顔を埋める。そして、詰まっていた息を大きく吐き出した。顔が火照ったうえ、なんだか息苦しくなったので、千幸は寝っ転がったままマフラーを外した。
 自分は自分の立場の調整に失敗したのだろうか、千幸は頭が一杯になった。一体、千幸のどんな態度が、零助のあの質問をさせたのだろうか。そして、自分は何故、質問の意味を詳しく聞かなかったのだろう。あんな、まわりくどいやり取りは苦手なはずなのに。今からでも零助に訊ねてみようか。だが、それから調整し直すのは、自信が無い。だって、こうして寝られるまでに、あの有り様なのだから。さっきまでの拙いやり取りを思い出すと、千幸は恥ずかしくて、叫びだしたくなった。叫べない代わりに、

「疲れた」

 と、言った。混線した頭の回路を一度、冷やすための打ち切りの言葉である。
 千幸を呼ぶ零助の声がした。零助は「なんか、怒ってます?」と、聞いてきた。千幸は「いや」と答えた。

「俺、同い年の女の人に、からかっているの? って誤解されることがあるんです。でも、それは向こうが俺の言うことを勝手に膨らませて歪めて解釈するからなんです。その点、千幸さんは素直です。俺の言った以上のことは邪推しない。だから、話していて疲れません。だから、つい羽目を外して、怒らせたかなって、思って」

 千幸は「そんなことない」と言った。安堵と後ろめたさ、両方の意味を含めて、さらに続ける。

「でも、心掛けてはいる。人の話したことは、ある程度、選択肢を増やしたら、なるべくシンプルな選択をしようって」
「答えじゃなくて選択ですか?」
「それが答えだと思っている」
「じゃ、選べなかったら?」
「新しい選択肢を見つけるまで」
「あっさりした屈折ですね。女の人って、もっとシンプルだと思ってました」
「日本語に直したら途端に印象が悪いね」
「そういうところなんですよね」と、零助は息を短く吐いて呟いた。
「千幸さん。人間関係ってどうやって区別すると思いますか?」
「さあ」
「自分と相手がお互いに何をして欲しいか、何ができるかで区別するんです。一言で言えば条件、権利、要求、みたいな感じかな。俺は千幸さんのそういう男前な脳みそが好きです。憧れだと幼いし、尊敬だと堅いんで、好きです」
「ありがとう。私は、零助と何がしたいかは、特に無い。映画を観るとか音楽を聴くとか本を読むなら、一人でできるし、考察や議論をしたいわけでもない。関係から生じる雑務を私自身が強いないし、あなたもそう。それが、私にとってすごく良い」
「俺に興味が無いんですか?」
「零助はとても面白いよ」
「……安心しました」

 零助は緑茶を飲んだ。千幸には音でそれがわかった。千幸も枕元の烏龍茶に手を伸ばした。

「それに、零助と話すと、いろんなことがわかってくるのが良いね。人間関係の区別が要求の内容。それって、冷たく聞こえるけど、自由で気が楽になるね。その要求を、関係者同士で組み合わせたり、応用したり、削ったり。前に、あなたが言っていたみたいに、調整するってことでしょ?」
「それはちょっと楽観的ですね。確かにそうやって成功することも稀にあるでしょう。でも、どうしても調整が合わないこともあります。そう感じた時が、絶交のタイミングです」
「やりたいことはやりたいって言えば良いんだよ。そうすれば、やりたくないことはやりたくないって、はっきり言えるんだから」
「やりたいやりたくないだと、わかりにくいんですよ。さっきの、なんで疲れないかの質問と一緒。説明しにくいでしょ」
「やりたいならともかく、やりたくない理由に限っては、やりたくないからでも良いよ」
「本当に? 本当に、『何でやりたくないの?』訊きませんか?」

 千幸は黙った。自信は無い。だが、努力はするつもりだ。

「確かに、訊くかもしれない。でも、理由が生理的なものや感覚的なものから来るのなら、私はできる限り、零助が言うことの等身大を理解するようにする」
「千幸さんが良くっても、俺にはちょっと難しいです。わかりにくいと説明に困る」
「私の他に、誰に説明する必要があるの?」
「自他共に」
「わかりやすい方が良いの?」
「勿論」

 千幸が答えないでいると、ベッドの向こうから、微かな床擦れの音がした。怯えているように、慎重な音である。零助が、様子を窺っているのだろうかと、千幸は思った。

「でも、俺は複雑な方も面白いと思います。機械みたいに、それぞれの違う部品が組み合わされて回路で繋がって、一つの役割をするって感じで。見てて、わくわくします」

 でも零助は機械わかるじゃないか、とも思ったが、零助の話を聞いて、千幸は少し反省した。さっきは相手の顔が見えない分、感情的になった。こういうところなのかもしれない。千幸が群れの中で取り残されてきた理由は。千幸は、腹這いになって、烏龍茶を飲んだ。

「俺、博美と絶交しました」

 零助は何の気無しに言った。千幸はぬるくなった烏龍茶を飲み込んで、「そう」と返した。零助は続けた。

「向こうの要求が変わったからです。俺が飲める条件じゃ、関係が成り立たなくなったんです。しかもあっちに、調整する気は無し」

 千幸は烏龍茶の成分表示に目を通しながら聞いた。

「どうしてた? 博美」
「彼氏と別れて、無茶苦茶に寂しいそうです」

 やっぱり自分にはわからない、と千幸は頭を軽く掻き毟った。零助や博美はどうしてこうも、群れから群れを軽やかに移動できるんだろう。そして、関係への進展に感情一つで踏み込める。群れから関係への進展の間には何か、ショートカットされた手続きがあるように思える。しかし、彼等はそれを暗黙の了解として水面下で行い、さも、手続きが無いようにしれっとしている。そうしているうちに、彼等はそれを本当に無いと思い込んでしまう。そんな風に思える。
 訊け、訊いてしまえ。上手い質問で。焦る。的外れだったら、後が大変だ。しかし、そもそも自分は何がわからないんだっけ?
 胸の中で、黒くて重い気持ちが渦巻いて、喉まで上がって来るようだった。喉が熱くなり、千幸は枕に顔を埋めた。風鳴りを聞いていると、少しずつ頭がシンとする。
 千幸はペットボトルの蓋を床に落とした。その場でカラカラ、音を立てて独楽のように回った。止まった蓋を眺め、千幸は言った。

「零助。蓋、そっちに行っちゃった」

 零助はベッドの下を探り始めた。腕がやっと一本入る隙間なので仰向けのままである。千幸には音でそれがわかる。
 千幸はベッドの下で、零助と手をつないだ。

「離したら、絶交する」

 質問か千幸の意志か、はっきりしない言い方をした。「する」が微妙に上ずった声になり、クエスチョンマークがついているような、いないような、複雑な声になった。調整ができていない、微妙な行動である。零助には、この群れから離れて欲しくないけれど、何かしらの関係になるのは、それを調整し合うのは、今はまだ面倒だった。友達も恋愛も、関係を築くために努力がいる。異性間、同性間に関わらず、礼儀の内容を構築し合う緊張感を伴う。自尊心が聞いて呆れる。でも、早とちりで自分の不遜さを露わにするよりは、自尊心を一旦、避けてしまう方が良いと思った。
 零助は黙っていた。天井を眺めながら、千幸は空気が冴えていく気がした。微かに興奮しているに、目の前はすっきりしていた。子供の頃、遊び疲れて雪の上に寝そべったのを思い出す。リアタイプスクリーンのような空から降りて来る、大粒の雪をでたらめに数えながら、何度もうっかり眠りそうになった。
 うつらうつらとしながら、千幸は少しずつ冷静になってきた。区別のつかないものなんていっぱいある。自尊と不遜もそうだ。自分が誇りだと思っているものが、他人にとっては思い上がりに見える。その中には、自分が勘違いしているのか、他人が勘違いしているのか、区別がつかない微妙なものがある。自尊と不遜も群れと関係も、連動体だと思う。グラデーションの中から、丁度良い色を自分で選んでいればいい。千幸がもう少し元気なら、それができる。これは、零助の千幸に対する評価と千幸の自尊心が一致していると、信頼するからこその選択だ。
 空気が冴えていくのを通り越し、美術部室の全て、そして、千幸と零助も凍ったように静かだった。動いているのは、時間だけである。
 翌朝、のそりと起き上がった時、頭だけはまだ凍っていた。千幸はそのまま、左手を閉じたり、開いたりした。拳の中に爪跡がつくほど強く握った。ちぎれそうになるくらい振ったりもした。左手がしびれていたのである。
 千幸は寝ている零助を置いて始発で帰った。外は目が痛くなるほど、白くて明るかった。
 以来、千幸と零助は一ヶ月間、会わなかった。

続く

 全13章あるうちの3章を投稿しました。
 大学生の頃、テレビで観たナイロン100°Cの『パン屋文六の思案』(原作:岸田國士 演出構成脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)の中に構成されていた『恋愛恐怖病』をずっと覚えています。海辺で男女が、自分達は友達のままか恋愛が出来るのかを延々話し合う戯曲です。
 そういうと、駆け引き、というイメージを持つ人がいるだろうけど、とんでもないです。駆け引き、っていう時点でもう関係性の型にはめ合おうとしてる。型という拠り所を持っている。駆け引きとは、同じ型を理解できる面倒くさくない相手かどうかのテストに過ぎません。男女の友情って成立しないよねって言う人たちは、その時点で友情に明確な型を知っている。そのはずなのにはっきり言葉にしないのは、関係性の型に甘えているという疑いを抱かないからだろう。
『恋愛恐怖病』には、そんな甘えが無いのです。正直、面倒くさいような鬱陶しいようなやり取りでしょう。それは率直だからです。感情的な痴話喧嘩でドラマチックにするような演出も無いからです。
 そんなお話に憧れて13章も書いてしまいました。13章全て、そんな同じような率直なやり取りをしています。この3章はその尊敬する作品から着想して最初に書いたものなので、小説の特徴が表れているかと思い、今回投稿しました。関係性の型にはまって欲しいという甘えが常識ならば、関係性の型を編み直すことに協力して欲しいという甘えを持つ人が苦しいだろうなと、根性で書きました。
目次
一、春は矢のように一飛びして
二、80/90/00
三、自尊と不遜
四、シュレディンガーの猫/護岸工事/相反する世界
五、白鳥の胴体/灯油ストーブ/手回し発電ラジオ懐中電灯つき
六、冬は弓のようにはりつめる
七、かき揚げ蕎麦/ユング/蜜柑の種
八、余裕の使い所
九、雉を捌いて腑をのぞく
十、春放つ
十一、目方で75%/括弧/壁
十二、ここで留めておくのは、自分の不調そのものだ。……
十三、弦を震わせ冷静に構える


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